雨上がりの匂いが好きだったりする

2018.04.25 Wednesday 08:48
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    よく『止まない雨はない』なんて言うが、そういうのはあまり好きじゃない。

     

    だって、それは当然じゃないか。雨が永久に止まなかったらどうなるんだい。

     

    ってのを屁理屈って言うんだろうが、『格言』『常套句』のような言い回し。

     

    それが、どんな気休めになるのだろう。日常に活かせなければ、意味もない。

     

     

    などと、やさぐれている場合じゃない。やさぐれて言うのじゃない、そうだ。

     

     

    そう、今年になって、雨らしい雨が降っていない気がする。偏った天候気候。

     

    急に暑くなったり冷え込んだり、体がついていけない状態で、季節感もない。

     

    ボクは、雨が嫌いじゃない。時と場合によってはすごくいい。素敵だと思う。

     

     

    災害や農作物に影響を及ぼしたりするような極端な振り方の割合が増す傾向。

     

    人は、自然においては、ほぼ無力であって、どうにも抗えない悲劇が起こる。

     

    そのような観点から見る、『異常な雨』ではなく、ごく日常的な雨の話、だ。

     

     

    雨の情景は唄になる。人の心の機微や感情を投影しやすい『詩』になり易い。

     

    言葉に乏しい人が使うと『野暮』になる。そこに『物語』があるか、ないか。

     

    例えば、『雨の匂い』に違いがある。季節や時間や場所など、『色』に似て。

     

     

    夏の日の、突然の夕立のあの匂い。その雨上がりの、また独特な匂いも違う。

     

    ボクは、特別『臭覚』が敏感だ。タバコなど匂いは遠くからでも感知できる。

     

    その昔、学生の頃、眩い季節。女の子の存在が『臭覚』で判ったりしたのだ。

     

     

    女子の少ない大学で、例えば『あの角から女の子が来るよ』とボクは言える。

     

    すると、本当に校舎の角から女子生徒がやって来る。友人は驚き面白がった。

     

    特殊な敏感な臭覚の為せる技だが、誰にだって匂いに思い出があったりする。

     

     

    昭和の海水浴場。そこは、資生堂の『サンオイル』のあの匂いが夏の風物詩。

     

    物持ちのいいボクは、何十年も前の、使いかけの『それ』をまだ持っている。

     

    今でもオレンジ色の蓋を開けると、同じ匂いがする。当時の砂がついている。

     

     

    そのように、『匂い』というあり方を『心模様』を魅力的に活かしたりする。

     

    不意にやって来る雨の匂いに、遠い昔読んだ小説の世界が蘇ったり、素敵だ。

     

    それを読んだ当時の自分の心がまだ息づいていることに感謝したりもできる。

     

     

    その代表的な象徴として『雨と雨上がりの匂い』がボクの生活を活性化する。

     

    例えば、その昔、一人静かに過ごすことが好きな自分に、雨は友人のようだ。

     

    自分の部屋で一人でいても、寂しさを感じなくなって数十年。雨は落ち着く。

     

     

    この世にら『苦しみ』『辛さ』『痛み』という存在がある限り、工夫が必要。

     

    ただ徒らに『嘆く』ことの先に何があるか。心を固くしたりしてやいないか。

     

    心の柔軟性を失ったら、心は『嫌』なものを引き寄せるのを経験上、感じる。

     

     

    なら、『他人を思いやる』などと安易に言う前に、自分の活かし方の工夫だ。

     

    細やかな気遣いに工夫が不足していれば、逆に相手が気を遣うのではないか。

     

    一人で過ごす時間が圧倒的に多いボクは、人間関係で実際に学んだ気がする。

     

     

    今、窓の外では雨が降っている。先程、窓を開けその『匂い』を取り入れた。

     

    呑気な奴だ、と非難されても仕方ない。朝5時起きで諸々を済ませた後でだ。

     

    ほんの束の間の貴重な時間だ。人それぞれに暮らしは違う。いい訳じゃない。

     

     

    昨晩も苦しみを伴った醜悪な魔物の罠にハマる所だった。今も絶不調である。

     

    でも、それを嘆く前に、日々の習慣として想像と工夫を身につけかけている。

     

    先程、『雨の匂い』にボクは『心のマッサージ』をしてもらった。感謝する。

     

     

    雨。ご苦労される方々が多いだろう。サラリーマン時代に散々な思いをした。

     

    独り身のボクは誰の助けもなく、あらゆる困難をそれなりに経た後のボクだ。

     

    ただ、呑気に御託を並べることは避けたい。でも、雨も時には素敵、なのだ。

     

     

    ボクの好きな『雨』の唄は、枚挙にいとまがない。今聴きたいのはこれかな。

     

     

     

     

    イルカの『なごり雪』の作者『伊勢正三』と提供された『イルカ』それぞれに素晴らしい。

     

     

     

     

    イルカの唄を損なうような映像だが、オリジナルのイルカ・ヴァージョンはこれしかない。

     

    残念・・・だが、作者なりの思い入れなのだろうから、申し訳ないが目を瞑って聴こうか。

     

     

     

    電流のように流れて記憶の奥から目覚めたこと。それは、高校2年の時だった。

     

    友人と3人で横浜に行った時に、山下公園を後にしたら、いきなり激しいスコールが。

     

    どしゃ降りの雨から逃げるように入った喫茶店『モンヴォ・ワリエ』という店。

     

    そこでは素晴らしい音響設備でレコードが流れていた。その時の唄も伊勢正三だった。

     

    かぐや姫の解散ライブ盤の中の名曲『置手紙』だ。これもまた素敵な『雨』の情景だ。

     

    まさに青春そのものの匂い。乾いたギターの音。しょうやんの輝いていた声。涙もの。

     

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    苦しいだけなのに、なぜ生きる

    2018.04.22 Sunday 12:39
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      昨晩の悪夢は凄まじかった。だいたい、苦しい場面では耐えきれずに目が覚めるものだ。

       

      だが、そうはさせてくれなかった。まるで、『拷問』のように、生き絶えるまで続いた。

       

      でも、死にはしなかった。やっぱり、脂汗をかきながら目が覚めた。

       

       

      肩から背中まで、ガチガチに固まって、息苦しくてうまく呼吸が出来ない。

       

      そして、毎度の『耳鳴り』だ。もうそれは『頭蓋骨鳴り』と呼んでいい。

       

      頭部全体で『グワングワン』『ジャンジャン』『シャンシャン』轟いている。

       

       

      程度の差があるくらいで、これを毎晩繰り返し、睡眠は妨げられている。

       

      眠れないのに、体は動かない。

       

      もはや『死にたい』とかに考えも及ばない。

       

       

      必死で、なぜか生きている。

       

      なぜ、だろう。

       

       

      ボクの携帯電話は、もう2年以上、着信がない。

       

      つまり、誰からも電話などかかってこないのだ。

       

      どれくらい前か忘れた過去。最後に掛かって来たのは『訪問看護』の人から。

       

       

      週に一度、家に訪問してくれて、母の状態を見てくれている。

       

      たまたま、家の電話に出なかったから、携帯の方に掛けて来ただけの話。

       

      したがって、それは、別にボクへの電話ではない。

       

      最後に携帯電話で誰と話したか、記憶にない。

       

       

      更に、メールも今年になって1通来たのみ。返信が2回くらい来ただけ。

       

      どこへも行かない。

       

      誰とも会わない。

       

      誰とも会話しない。

       

      ただひたすら、家事やら何やら、ある意味、やるべきことに追われ続ける暮らし。

       

       

      人との関わりのない日々を消化しているだけで、それを暮らしと呼べるだろうか。

       

       

      声を発するのは、母の介護関係の人とのやり取りが主で、

       

      それ以外は、病院関係、買い物の時にレジでの受け答え。

       

      後は、お店とかに行った時、そこの人と会話するくらい。

       

       

      ここ10年くらいは複数の病気など『苦しみ』しかない。

       

      テレビもラジオも受け付けない。浮かれ具合が煩わしい。

       

      そんな日々しかないのに、なぜ、ボクは生きているのか。

       

       

      ただ、死なないだけだ。

       

      淡い雲を掴むような、実体のない恋をしていて、

       

      その人のことを想う気持ちだけで、生きている。

       

       

      もしも、この先、何かしら『生きている実感』を得られるのなら、

       

      ボクは、『恋』と『その人』と『お陰で育む慈愛』に感謝したい。

       

      キレイゴトだろうか。

       

       

      でも、激しい耳鳴りなどあらゆる不具合と折り合いを付け、生きている。

       

       

       

      と言いつつ、今日も行楽日和の日曜日。バーベキュー臭くて、何重苦だ?

       

      何で、他人の迷惑も考えずに自分本位で楽しめるのか、全くわからない。

       

      こっちは昼過ぎに室温29度で、窓を締め切り、シャツとパンツで凌ぐ。

       

      窓の外では、はしゃぐ声。人が人を傷つけることなんて凄く簡単なのだ。

       

      でも、それを本人たちは少しも考えたりはしないでいい、らしい風潮だ。

       

      ボクは、『人を嫌いにならない』よう、理不尽な努力を強いられるのだ。

       

       

      さよなら、日本。さよなら、人類。

       

       

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      人にも、街にも、風情があった

      2018.04.21 Saturday 05:39
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        最近、暮らしの中から色々な『大切なもの』が失われ続けているような気がしてならない。

         

        これは、ボク個人が勝手に感じていることであって、別に大それた何かの提言などでない。

         

        そもそも、どこかに何かしらの言葉を向けても、それが、『どうこうなる』とも思えない。

         

         

        そこで、ボクが一番痛切に感じることは、あるとあらゆる『風情』が絶滅しつつあること。

         

        その『風情』とやらが何をもたらすか。どんなものか。辞書で調べても何も出てはこない。

         

        いわゆる『シリ』に代表される『人工知能』のような味も素っ気もない刹那的答えだろう。

         

         

        何やら『国会』は機能していない。私利私欲にまみれた地獄絵図を見せられ続けられても。

         

        どうもこうもない。こっちはなけなしの血税を払っているんだ。きちんと仕事をしてくれ。

         

        などと言った所でやはりどこにも届きやしない。虚しく、そこら辺の地面に転がるだけだ。

         

         

         

        まあ、それはそれ。自分は自分の暮らしを死守することで精一杯だ。戯けている暇はない。

         

        暇を割いて戯けてしまうのだ。あらゆる『情緒』『風情』が死滅し続けるのに無能なのだ。

         

        東京はオリンピックとやらに向けて、あーだの、こーだの。揉めつつ、金を散財している。

         

         

        需要から外れた東京郊外の街は、寂れて行くと同時に、治安も悪化しつつあるようである。

         

        更には、いつでもどこでも『工事』ばかりしている割りには何も良くなったりしていない。

         

        道路拡張など無理矢理な『修正』で、住み慣れる暇もない程に、街は趣きない別物になる。

         

         

        日々刻々、心は乾燥する。都に借金までして作り変えた駅前は、うらぶれたまま、死に体。

         

        この街に住み続けることが心地悪くても、今更住処を移すような財力も体力も気力もない。

         

        役所も市議も市長も何をお仕事しているのか、まったく見えてこなくても、納税するのみ。

         

         

         

        まあ、幾ら嘆いたからと言って何も変わりゃしない。のどかな風景もなく、土埃舞うのみ。

         

        その昔、街にも人にも『風情』というものが存在していた事実が血や肉となり心にはある。

         

        もはや『風情』なんて死語になりつつある。繋がりを遮断する『合理化』に葬り去られる。

         

         

        単なるノスタルジーで言う程に哀れはない。昔、あの人は凄かった的な茶番に終わるだけ。

         

        だが、不便でも不都合でも、この『足』で歩いた道には、『風景』があり、『人』がいた。

         

        そこには、温かな『挨拶』があり、『笑顔』があり、『思いやり』『心遣い』が存在した。

         

         

        昨今、桜の下では『モラル』を捨て去った人達の狂乱を世間も煽りたるだけで責任放棄だ。

         

        心から『この街もお前も好きだ』なんて、誠意を失わずに口にすることが出来るだろうか。

         

        単なる『感傷』で済ませれば、それでお終いです。言い訳や逃げ道の選択肢が増えるだけ。

         


        などと、ボクの中から戯言が尽きないのはなぜか。単なる『井の中の蛙』に過ぎないのか。

         

         

        すぐにキレて、簡単に命を奪える。そんな人が増殖する社会で健全に暮らせると思えない。

         

         

        でも『風情』を決して忘れはしない。確かに存在していた『それ』を自らの心で育むのみ。

         

         

         

        暖かな木洩れ陽のように、人も街もお互いの『温もり』で、心の柔らかさを共有し合える。

         

         

         

        例えば、こんな歌がふと街で流れていて、足を止めることなど、もうないような気がする。

         

         

         

         

        唄は時代の象徴か。これらの唄は『ゆったり』している。現代はバラードすら忙しく思う。

         

         

         

         

         

        これらを『ノスタルジアごっこ』で終わらせることは独り言ち。でも生きた心地がしない。

         

        豊かそうで、こんなに不自由で窮屈で、閉塞感で息苦しい社会を、誰が望んだのだろうか。

         

        望むも望まざるも、こうなってしまったのなら、その中で自分とせめぎ合うしかないのだ。

         

         

         

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        ただ、愛しい想いだけでいい

        2018.04.18 Wednesday 12:47
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          今日が何年の何月何日なのか。

           

          何曜日?

           

          曜日って何だ? 季節って何だ?

           

           

          と『私は誰?ここはどこ?』的な冗句とは一線を画す確認だ。

           

          この確認が自分の暮らしにおいてまず最初に行う行為になる。

           

          睡眠もままならず、日常の流れなどというものは存在しない。

           

           

          ので、例えば、迂闊にも床でうたた寝などしてしまったなら、

           

          ふっと起き上がった時に、

           

          『今は、いつ?』『朝?』『夕方?』と戸惑いつつ、

           

          続いて、『えっ、何?』『寒いの? 暑いの?』となる。

           

           

          これは、別にどうでもいい話だ。

           

          本当に、どうでもいい。

           

           

          冗句でも気が触れた訳でもない。

           

          ただの、ありのままの、現実だ。

           

           

          それは、一個人が、勝手に日々の中で、思うこと。

           

           

          当たり前のことって、ものすごくありがたいって思うこと。

           

           

           

          ここ数ヶ月、季節も曜日も、自分が生きていることすら、判らなくなりつつある。

           

          おや、これは『死後の世界か?』と思うこともある。

           

          冗談やボケて言えることじゃない。

           

           

          どうせ、誰も聞いちゃいないのだから、戯けたことは血反吐が出るまで吐いてしまった方がいい。

           

           

          トイレの便器に突っ伏して、意識が朦朧としながら、酸っぱい胃液を吐く。

           

          それが、数時間前のこと、だったような気がする。

           

          気がする程度のことではないので、自分の中では、これも『どうでもいいこと』である。

           

           

          とりあえず、今、昼食を食べ終えたところだ。

           

          昼食?だったはずだ、多分。

           

          腹が減るとか、時間だから、とかは、便宜的な問題だ。

           

           

          すでに『そのようなことをする』時間には、そのような用意をしているのが生活。

           

           

          そして、それを終えて、終わりのない時空を彷徨い、その後に用意されていることに向かう。

           

           

          唐突に、人なんか、信用できるか? と思う。

           

          とりあえず、やさぐれつつも自分はまだ死んでいないことを自分が意思を持っていることで知る。

           

           

           

           

          これまた、唐突すぎる話。

           

           

           

           

          ボクは今、恋をしている。

           

          でも、逢えたりはしない。

           

          今後、会える保証もない。

           

          でも、恋する、逢えない人を想い、エネルギー補給をすることはいくらでも出来る。

           

           

          人は、人を想える。

           

          それによって、自分の中の生命に力を宿せる。

           

           

          素晴らしいことじゃないか。

           

          それだけで、ボクは、まだ生きようとしているのだ。

           

           

          何も期待などしちゃいない。

           

          何も望んだりしちゃいない。

           

          ただ、愛しいだけで、いい。

           

           

          その人が、この同じ空の下、

           

          存在してくれるから嬉しい。

           

          幸せでいてくれたなら尚更。

           

           

          恋は、愛に昇華できるのだ。

           

          想いは想う方の勝手だから、

           

          すべては柔らかく慎ましく。

           

           

          ちなみに、恋は水色なの?

           

          いやいや、ピンク色、だろ。

           

          あの人を想い、生きてみる。

           

           

           

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          生きることに休息は許されない

          2018.04.16 Monday 05:54
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            月曜日は、母がデイサービスに行く日で、一週間で唯一休息が許される日である。

             

            だが、実際には、休息などない。やることだらけで休息の仕方を失ってしまった。

             

            体調も年中無休で絶不調。耳鳴りは5年以上、365日、1秒も止むことはない。

             

             

            日常って何なのか。毎日同じ絵を見せられているかのような日々が日常になった。

             

            毎晩、恒例の悪夢にうなされ目覚めると耳鳴りが激烈に頭蓋骨内で爆裂している。

             

            まあ、気が狂いそうになる。でも、もう5年も続けているとそれが日常の一部だ。

             

             

            便宜的に日常という言葉を使い。自分の中で無理にでも納得させていかないとね。

             

            生きていられないのだ。何しろ、休息などないのだから。睡眠が休息にならない。

             

            まさに睡眠負債でとっくに自己破産しているだろう。体も心も。生活にならない。

             

             

            もう思い出せないくらいに、『どこか』に行っていない。旅行も行楽も、無縁だ。

             

            楽しいこと。思い出せない。そんな暇ない。そんな余裕ない。ナイナイ尽くしだ。

             

            これは、嘆きじゃない。嘆いても意味がない。見失わないための自己対峙である。

             

             

            社会のせいや何かのせいにするのは実に簡単なこと。自分を棚にあげられるのだ。

             

            だが、現実として、介護や貧困という問題はこれから更に根深い問題になること。

             

            政治家さんは、お金があるらしく、その辺のことには疎く、都合よく改定をする。

             

             

            なんて、戯言を吐露して、今日も1日が始まって、まだボクは生きているようだ。

             

            戯言を吐露するのもここしかないので、1年以上、溜めに溜め込んでいただろう。

             

            だが、もう吐くものもない。胃液しか出ないのだ。なので、とりあえず黙ろうか。

             

             

             

             

             

            category:試練 | by:hallysmilecomments(0) | - | -

            愛することで、生きていられる

            2018.04.14 Saturday 05:05
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              やっぱり、ボクはギターをこよなく愛している。としみじみ心の奥底から思ってやまない。

               

              今は、時間も気力も体力もなく、数カ月に1度くらいしかギターを弾いていないから尚更。

               

               

              昨年の夏。20年以上前に買ったあるギターを売ることにした。今の自分に相応しくない。

               

              当時は、溺愛する程の存在であった。だが、時間を重ねた今嗜好する音楽には似合わない。

               

               

              出逢いがあれば別れもある。その価値が判る人、それを望んでいる人の元に向かうべきだ。

               

              何軒か楽器屋を回っていたら、そのギターの価値を判る人がいた。その人自身が欲しいと。

               

               

              予想以上に高額で売れた。お互いに喜び、ボクは店内を漠然と見た。そこにはあったのだ。

               

              新たな出逢いが。予てより気になっていた。色も木目も最高。しかも新古品で格安だった。

               

               

              帰路でそのギターがボクの手にあることは必然であった。ボクはその出逢いに感謝をした。

               

              見た目は美しい。音色は十分ではない。後は自分で弾きながら、音を磨くことだと思える。

               

               

              ふと気づけば、子供の頃に恋い焦がれて憧れていたギター達が、ボクの部屋に揃っている。

               

              なんてことだ。それまでに何台のギターを手放したか。彼らには申し訳ないがそれも縁だ。

               

               

              そんな訳で、最後の1台を手にはしたものの、二日くらいでケースの中で眠ることになる。

               

              最初にきちんと弾いたのは昨年末。2度目は、つい先日。今の暮らしでは、やむを得ない。

               

               

              到底満足のいく演奏など出来ないが、ボクはギターを愛している。お陰で生きていられる。

               

              自分の理想とする演奏は死ぬまで出来ないだろう。弾き続けることで愛を育み生きるのだ。

               

               

               

              これが昨年末の演奏だ。心身ともに疲れ切っていた。そんな自分が音に具現化されている。

               

               

               

               

               

              これがつい最近の演奏だ。少しだけ頑張った。頑張った分、力み過ぎているのが難点だ。

               

               

               

               

              子供の頃、透明の下敷きの中に忍ばせた、カタログを穴があくほどに見惚れたギター達。

               

              Gibson Lespaul、Gibson ES-335、Fender Stratocaster、Fender Telecaster、

              PRS Santana Model、

              Martin HD-28、Martin OOO-28 Golden Era、Gibson Hamming Bird、

               

              彼らの存在が、今まで生きる糧や活力になっていることには感謝してもし尽くせない。

               

               

               

              category:ギター | by:hallysmilecomments(2) | - | -

              暮らしの中における、物との関係

              2018.04.13 Friday 04:55
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                先日、テレビの情報番組を見ていたら、『物を持たない生活』が若者を中心に増えているらしい。

                 

                いわゆる『シェアリング』で物を賄う暮らしが、彼らの理想とやら。ふ〜ん。そうなんだと思う。

                 

                別にそれに対しては、何の感想も関心もない。まさに、ふ〜ん。でおしまいです。それ以上ない。

                 

                 

                だだでさえ、若者の車離れが加速している中、彼らの発想を活かすのが『カーシェアリング』だ。

                 

                車以外にも、家具、その他あらゆる物を『借りる』=『物を持たない』暮らしが理想の生活とな。

                 

                引越しをしたり、部屋の模様替えをする度に家具も違うものを借りる。合理的な考えなのだろう。

                 

                 

                 

                世間では、もはや『断捨離』という言葉は、違和感なく浸透している。それはそれで、他人の話。

                 

                ボクは、『断捨離』という概念が好きではない。『いい、悪い』でなく『好きか否か』で捉える。

                 

                社会全体を俯瞰で捉えても、『いい、悪い』なんて判断基準は実に曖昧で不確実なものに思える。

                 

                 

                だから、ボクは映画だって、音楽だって、考え方だって、何事も『好きかどうか』で捉えている。

                 

                それは、個人の自由であって、他人を貶めたり欺いたりはしない。だが、『いい、悪い』は違う。

                 

                世の中に『道徳』とか『常識』というものがあるとするなら、『いい、悪い』の線引きがどこか。

                 

                 

                それらにおける線引き程に、曖昧でいい加減なものはない。宗教然り、差別や倫理観にまで至る。

                 

                そんな大それた物言いは自分には出来ない。したくない。だからこそ、分別は弁えることが必要。

                 

                自分と他人。自分と物。自分と事象。自分と関わりを持つ『対象』との間に生まれる『関係』だ。

                 

                 

                その関係から生じた『疑問』などと誠実かつ真摯に向き合うことは『自己対峙、確認』に繋がる。

                 

                ボクの中で、合理的は発想は、それらをごっそり捨ててしまえる<怖いもの>にも思えてしまう。

                 

                人の中の、あらゆる『関係』の合理的な発想がどこへ向かうのかがまったく見えないことの怖さ。

                 

                 

                 

                そのシェアリングは、服にも及んでいて、『スマホをポチッとすれば、ほら便利』となるらしい。

                 

                そんな暮らしをしている人の部屋が画面に映されたら、まさに生活感のない洒落た空間であった。

                 

                クロゼットも必要ないし、家具はオシャレだし、物は極力ない。映画のセットみたいで味気ない。

                 

                 

                まあ、それで満足している人のことをどうこう言うつもりはさらさらない。まさにその人の自由。

                 

                だから、ボクの感想も実に陳腐なのだ。ただ、このような商売はこの先増えるだろうなと思った。

                 

                人は、どこへ向かっているのか。ボクが追求することではない。ただ違和感一杯でザワザワした。

                 

                 

                ボク個人は、物を大切にしているとその向こうに造り手の人の存在を感じたり、感謝したりする。

                 

                物を持たず、何事も人工知能に頼る、近未来の暮らしを想像する。SFではなく、ホラーに思える。

                 

                あらゆる選択は個人に委ねられている。選択の連続が暮らしの輪郭をより鮮明にしないだろうか。

                 

                 

                 

                 

                category:生活 | by:hallysmilecomments(0) | - | -

                別れも出逢いも、なすがまま

                2018.04.12 Thursday 13:06
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                  ボクは、人との関係における柔軟性に乏しい。資質なのか。人を見る目がないのか。

                   

                  何十年も自分を生きてきて未だによく分からない。もはや、あるがままなすがまま。

                   

                   

                  父が病に倒れてから10年余。死んでから5年。母の介護に携わってから5年が過ぎた。

                   

                  その間には想定外のことばかり起きて、必死に受け入れつつ、今もこうして生きている。

                   

                   

                  だが、この10年で、ボクは古くからの友人というものをすべて失った。

                   

                  母の介護に没頭する怒涛の日々の中、ほぼ、人との関わりはゼロに近い。

                   

                  誰とも会話をしない日が3日くらい続いて気づかなくても違和感もない。

                   

                   

                  物の道理は抜きにして、人との関係を築く、継続する、維持するには努力が必要だ。

                   

                  自分の問題、相手の問題。それが正しかろうが間違っていようが、受け入れること。

                   

                  世の中から、理不尽なことはたぶんなくならない。狼狽えている猶予などないのだ。

                   

                   

                  猜疑心などというものを一旦持ったなら、何も信じられなくなるし、縛られるもの。

                   

                  道理や誠意や筋など捨て去ってしまえたなら、「何も考えない」心が増殖するだけ。

                   

                  歴史の勉強をしても、その背景や成り立ちなどに目を向けないと学習にはならない。

                   

                   

                  どう捉えても理に適わない、腑に落ちないこと。などでボクは多くの友人を失った。

                   

                  凄まじい暴言を吐かれて縁を切られたり、納得出来ないまま、音信不通になったり。

                   

                  それはいい気分はしない。こちらから関係を遮断したこともある、因果応報なのか。

                   

                   

                  ともあれ、いい年齢になって、家庭も持たず、子も持たず、生涯孤独を邁進している。

                   

                  今は親のご加護が許されているが、母が死ねば、即、生活の道は絶たれること必死だ。

                   

                  でも、それが何だ。父が倒れたのきっかけに「死の準備」もどきを模索しているのだ。

                   

                   

                  今更ジタバタしても始まらない。如実に「誰も他人のことなど考えない」と実感する。

                   

                  自分を守り、なりふり構わず自分の心のテリトリーを死守しようと必死に生きている。

                   

                  などと、乱暴に傍観するのだ。決めつけてはいない。そこに答えなどないのだろうし。

                   

                   

                  いつでもどこでも、一緒にいて「心地悪い」「会話に無理がある」人が友人だろうか。

                   

                  都合のいい時だけ利用されて、何だか騙されたような気分になる人を好きになれるか。

                   

                  そういう類の人がボクの周りには多かった。常に違和感を抱きつつ孤独を恐れていた。

                   

                   

                  トラウマなどと大袈裟に捉える必要はない。ただ、一緒にいて幸福ではなかったのだ。

                   

                   

                  本当に大切な人はやむを得ない形で疎遠になった。それは、ボクに人徳がないせいだ。

                   

                   

                  そうして、今日も声を発することなく、自分という存在に違和感を抱くだけの終日だ。

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                  category:雑感 | by:hallysmilecomments(0) | - | -

                  現代社会を生きるしか術はない

                  2018.04.11 Wednesday 09:33
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                    長らく、ここブログを放置していた。或いは、距離を置いていた。言葉は拙い。理屈は所詮、何処へもいかない。
                     

                    単に、現代の通信社会に疲弊して、出来る限り「そこ」から離れた場所に逃げ、触れないようにしていただけだ。

                     

                    辞めるのは実に簡単なことだと思った。時間を経ても、そこに何も見出せなかったと暫定的に気づいてしまった。

                     

                     

                    今この瞬間。この時代に生きるということにおいて、もはや「通信ありき」の社会から逃れられないようである。

                     

                     

                    昨年末に10年間使い果たした携帯電話が壊れた。いわゆる「ガラケー」だ。ほぼ、生活で機能していなかったのに。

                     

                    それに依存しないにしても、現在の社会生活では、最低でも携帯電話を持たなければ多くも支障があることを知った。

                     

                    ので、止む得ず新しいものに変えた。迷うことなく、「スマートフォン」ではなく、在庫希少な「ガラケー」である。

                     

                     

                    ささやかな抵抗なのか。無駄な、意固地な発想なのか。そんなことは、自分にとってはどうでもいいことだ。

                     

                    ともあれ、経済的にも、生活においても、自分には「スマホ」は持てないのだ。もはや、アレルギー状態だ。

                     

                    心も体も拒否をするのなら、花粉同様、ない方がいい。なくても全く困らないのだから、選択肢は単純明快。

                     

                     

                    ボクに順応性がないことは子供の頃から身を以て体験しているが、これは努力とかでどうにかなるものでない。

                     

                    現代社会における様々なアレルギー反応に即効性のある手管はない。色々模索を繰り返したが、今の所はない。

                     

                    例えば、「ツイッター」「インスタグラム」を筆頭に「シェア」など、その言葉だけで拒否反応を起こすのだ。

                     

                     

                    ラジオをつければ、「ミュージック・シェア」と連呼している。吐き気がする。「シェア」って何なんだろう。

                     

                    無作為に放たれる「それ」に対し、「別にシェアしてもらいたくない」とラジオを消せば済む話ではないのだ。

                     

                    なのに、いかにも「不自由」な具合に、「そういうものだから」との概念で、全否定され、疎外、排除される。

                     

                     

                    これは、如何ともし難い「こちら側の問題」であり、現代社会やそのあり方を否定しても 何の意味もない。

                     

                     

                    目に見えない、手で触れることの出来ない、デジタル・データが錯綜する生活に翻弄され続けることは至難。

                     

                    いきなり、何の前触れもなく、パソコンが不具合を起こしても、自分はただ疲弊するだけで為す術すら無い。

                     

                    そんなことが日々繰り返されると、生活に支障をきたす。だからと言って、「通信は使わない」で済まない。

                     

                     

                    コンピュータや通信社会に順応できずに、それを忌み嫌うのは個人の問題であるが、社会環境は変わらない。

                     

                    ならば、現代社会を生き抜く術を俯瞰で捉えつつ、翻弄されず、心乱されず、自分の立ち位置を確認するのみ。

                     

                    あらゆる「想像」と「創造」を総動員して、自分を生きるしか無いのだ。誰かが助けてくれることはないのだ。

                     

                     

                    自分を生きるのは自分しかいない、のだから。

                     

                     




                     

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                    現実は、容赦なく残酷である

                    2017.02.19 Sunday 17:27
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                      人は、言葉を放つ生き物だ。

                       

                      声だけで、身動きだけで、無防備にすべてを示せたりしない。

                       

                      それぞれに『自分の価値観』とやらで、言いたいことを言う。

                       

                       

                      日々、そこかしこで、声高に誰もが好き放題を言い放つ。

                       

                      言葉は、心の公害のごとく、受動喫煙させられるようだ。

                       

                      吸う自由はあっても、吸わない自由は許されない世界だ。

                       

                       

                      例えば、簡単に『努力は必ず報われる』なんて断定出来たりもする。

                       

                      それが、その言葉が、すべての人の『救い』になるなんてないのだ。

                       

                      むしろ、それが心を掻き毟り、深い傷跡をつけることだって出来る。

                       

                       

                      人は、言葉を持つ故、それを『愛』にも、『凶器』にも操れるのだ。

                       

                      努力がすべて報われるのなら、みんな幸せになっているんじゃない。

                       

                      それを『ポジティブ』とでも言うのかい。

                       

                       

                      随分と都合がいいんだよね。

                       

                      何を以って、『前向き』だの『後ろ向き』だの、判断するんだい。

                       

                      その基準は、誰が決めるの。

                       

                       

                      この世では、生きている間に経験することなどたかが知れている。

                       

                      自分一人を生きただけ、生きているだけで、『何かを言う』のだ。

                       

                      そりゃ、都合がいいものだ。知らないことは、知らないまま、だ。

                       

                       

                      自分が知らないことがあることすら『知らない』のだから、

                       

                      言いたいことなんて、幾らでも言いたいだけ言えるようだ。

                       

                      乱暴に言い放たれた言葉の洪水の中で人々が溺れようと知らん顔。

                       

                       

                      現実は、容赦なく、残酷なものだ。

                       

                      受け入れたくない、なんてぬるいことなど言うまい。

                       

                      だから、もう黙った方が賢明かもしれない。

                       

                       

                      自分がバカに思えてくるだけだからね。

                       

                      黙りましょ。隠れましょ。いっそ逃げちゃいましょ。

                       

                      人に指さされようとも、構いやしない。

                       

                       

                      もう、疲れて果ててしまって、お終いにも出来ないまま、この始末。

                       

                      自分で自分を強制終了出来るボタンはないものか。

                       

                      生身の生き物である人間には、それが出来ないなんて皮肉なものだ。

                       

                       

                      ここまで堕ちたのなら、潔く自ら幕引きすればいいだけの話なのだ。

                       

                       

                      残酷な現実を受け入れ、実態のない過去などいっそ捨ててしまおう。

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

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