自分で自分の命を奪う、ということ

2019.05.19 Sunday 05:17
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    ボクは二十代の頃、廃人のような状態だった。数秒に一度、『死にたい』と思った。

     

    あれが『自殺』に繋がらなかったのは、今となっては、自分に感謝したいこと、だ。

     

    どんなに辛く苦しくても、それは『自分で自分の命を奪うこと』に他ならないから。

     

     

    ボクの左手首の一番太い血管の所を十字に横切る『傷跡』がある。『自殺未遂』か。

     

    自分では殆ど記憶にないが、何十年経った今でも、『跡』は残ったまま、消えない。

     

    当時は、相当に切羽詰まっていた。あの頃の苦しみは、自分でも思い出せないのだ。

     

     

    あの地獄のような日々から『生還』したのか。自分で抜け出したのか。記憶にない。

     

    それくらいに、『生きるか死ぬか』だけがすべてだった。そこを経てからの、今だ。

     

    そう簡単に自滅したりはしない。『死にたい』=『自殺』には直結しないのである。

     

     

     

    ボクの中では、『自殺』というものが鮮烈な記憶の中にある。有名人によるそれだ。

     

    鮮烈な最初の記憶は、『三島由紀夫』だ。小学生だったボクにも衝撃に感じられた。

     

    その頃は理解もしていなかったが、叫び演説する姿はテレビ画面の中で強烈だった。

     

     

    その後も『田宮二郎』『沖雅也』『岡田有希子』、有名人の自殺の度、胸が痛んだ。

     

    作家として影響を与えた三島だが、切腹との強烈な死に方しかボクには印象がない。

     

    その人に『何があったのか』は、まったく残らない。それくらい自殺は衝撃なのだ。

     

     

    世界の三島と呼ばれても、ボクは文庫本を2冊読んだけれど、その衝撃を越えない。

     

    彼らが有名だったから話題になったが、今この瞬間もどこかで誰かが、と思うのだ。

     

    人知れずに、命が簡単に奪われる。誰が奪うのか。他者だろうと誰だろうと殺人だ。

     

     

     

    ボクは10年近く前、鬱に関連したブログで同じような境遇の人と多く知り合った。

     

    その中で、二人。自ら命を絶った。通信でしか交流していないが、ショックだった。

     

    一人は同年代の男性。音楽好きが共通していたのだが、ボクには阻止出来なかった。

     

     

    どこの誰だか素性を知らない。それが『ネットの繋がり』だとボクの中で確信した。

     

    何度も自殺を仄めかすが、ボクには相応しい言葉が見つからない。止めようがない。

     

    自分の無力を思い知ったし、『ネット』の在り方を再確認するきっかけにもなった。

     

     

    もう一人は20代半ばの女性。『希死念慮』の強い人だった。他人に成す術はない。

     

    東京では、年中『人身事故』で電車が止まることが日常だ。殆どが『飛び込み』だ。

     

    ボクも通勤する際、自分の乗った電車が二回それに遭った。線路脇のブルーシート。

     

     

     

    ともあれ、人は『そのような人』を簡単に忘れられる。電車が止まって文句も言う。

     

    それに関して、ボクがどうこう言うのも違う気がする。でも、ボクは胸が痛むのだ。

     

    岡田有希子さんは、ボクが病気で苦しんでいる最中、18歳の人気アイドルだった。

     

     

    あのショックは、今でも強烈な記憶として消えない。ビルから飛び降りたのだから。

     

    直後の凄惨な遺体の写真を週刊誌が掲載した。ボクは愚かにもそれを見てしまった。

     

    花壇の前で横たわる頭部は割れて脳が見えていた。そんな無慈悲が人の商売なのか。

     

     

    戦場写真と違う日常の場でのこと。ボクはそれ以来、週刊誌類は一切、見ていない。

     

    三島の時とはまったく違う、『人の命』の儚さを感じるとても大きな出来事だった。

     

    多分、ボクはその時のショックの大きさ故に、命の尊さにとても敏感になったのだ。

     

     

    人の死が、人の生命を教えてくれる。どんなに辛く苦しくても死なない自分になる。

     

     

    命あるもの、いつかは死ぬ。それがいつか。突然の場合も、必然の場合も、死は死。

     

     

    受け容れ難いものもあれば、往生の場合もある。いずれも抗えないものなのだろう。

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    人は、無知で愚かだと自戒すること

    2019.05.09 Thursday 07:39
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      またしても、身勝手な人によって、尊い命が奪われた。

       

      日常の邪魔でしかないテレビを見ないので、

       

      その事件をたった今、知った。

       

       

      これは、『事故』ではなく、『事件』なのだと人は知ること。

       

      車は、『便利なもの』ではなく、『爽快感を求めるもの』でもない。

       

      利用する際はに便利ではあるし、乗り物として爽快感を得られもする。

       

       

      当たり前のように、行き交う『鉄の塊』であって日常の光景の一部。

       

      だが、利用する人の意識が常に試される『心を写す』物体でもある。

       

      簡単に『殺人を犯す』凶器になり、当たり前の日常を壊せてしまう。

       

       

      それを人は忘れられる、傲慢さをいつ身につけたのか。

       

      ほんの少しの違いで、少しの油断で誰でも起こし得る。

       

      その『過ち』を軽んじていないだろうか。

       

       

       

      危険の潜む場所や行為に対して、警察や地方公務員たちは、

       

      どれ程の危機感を持って、真摯に職務に従事しているのか。

       

      このような事が起きてから、では、『遅過ぎる』と感じる。

       

       

      事が起きる可能性がある事例を未然に防げることは、無限にある。

       

      それを怠る、言い訳をする、法律のせいにしたりもする。

       

      ある意味では権力をかざしつつも、権限を持つ組織の意識は別だ。

       

       

      今回は、不運にも交差点にガードレールが設置されていなかった。

       

      未然に防げる対策を怠って、いつでも事が起きてから動く公務員たち。

       

      警察も地方公務員も、ある意味、事件に加担し兼ねない責任ある職務。

       

       

      その責任を担った人たちの努力など、知る由もない。

       

      ただ、日々起きる、目にする、『現実』が示すのみ。

       

      法律を定めるのも、裁くのも、裁かれるのも、人だ。

       

       

      土地の所有権利、自治体の財源力、整備など、問題はあるだろう。

       

      だが、それらを言い訳に、努力を口にしてはいけないように思う。

       

      そのような『利害関係』が障壁になっていることこそ、由々しい。

       

       

      どんなことでも、誰でも、加害者にも、被害者にも、なり得る。

       

      それを平気で忘れて、快楽に興じる事が出来たりもするのが人。

       

      先の池袋の事件で加害者側を『差別する』忖度が出来るのも人。

       

       

      すべては、その『意識の甘さ』に尽きる気がする。

       

      車を利用する人も、それを取り締まる権限を持った警察も。

       

      それらの橋渡しになるべく職務の、地方公務員たちも。

       

       

      何を訴えても、一庶民の言葉は『無力』なのだ。

       

      人は、一人では『何も出来ない』現実を散々思い知った。

       

      どんなに誠実に、どんな正義を持ってしても、

       

      他人の『意識の甘さ』を制御することなど不可能なのだ。

       

       

      先日の池袋で妻子を亡くした方の切実な言葉も、

       

      その時響いても、後に忘れられるようでは無力だ。

       

      現に、次々起きる事に上書きされてしまうだろう。

       

       

       

      何より、『人は人を簡単に傷つける』生き物である。

       

      命を奪うことも、心に消えない傷を負わせることも。

       

      その『重み』に対して『無知』な自分と対峙することを心掛けたい。

       

       

      利己的な快楽や他者を思いやる想像を捨てられる愚かさを知ること。

       

      このような事件がすぐに風化する、命の尊さを軽んじる愚かさを自戒すること。

       

      謙虚に、まず自分自身に問いかけてみること。

       

       

      自分も、身勝手な人間による『車の事故の被害者』として、

       

      一生消えることのない、心の枷を外せないでいる。

       

      生きている内は、『それ』から逃げることも出来ないのだ。

       

      被害者の苦しみは、他者に『理解を求める』ことが不可能なのだ。

       

      自分は衝突された瞬間、気絶したが、そのまま戻らなかったら、

       

      今、存在していないので、生かされている間は模索は続くのだ。

       

       

       

      人は、『慣れ』という、自分勝手な権利をいつしか手にしている。

       

      その危険を今一度、それぞれが省みる機会を見過ごせるのも罪だ。

       

      知らず知らずに、どこかで誰かに対して、犯している罪。

       

      事の大小ではない。

       

      事が大きければ、とか。事が些細なもの、とか。

       

      それを測るのは、個人じゃない。

       

      覆しようのない『現実』なのだ。

       

       

      誰がどんなに『声』をあげても、世の中は少しも変わらない。

       

      そんな『声をあげる人』を『変人』扱いもし兼ねない世の中。

       

      人は、なぜこうまでも『無関心』な生き物になったのだろう。

       

       

      自分への戒めとして、自分の苦しみに捕らわれている罪を知る。

       

       

      どんなに悲しんでも、冥福を祈っても、奪われた命は戻らない。

       

       

      残され、人生を狂わされた人の、その苦しみがどれ程のものか。

       

       

      他人は知らない。知ることなど出来ない。知らないでいられる。

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      嘘と、上辺だけの、実りのない人生

      2019.05.05 Sunday 09:19
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        必死で生きようとしている。

         

        頑なに死なないようにして。

         

        それでも、今生、いいことも実りもない。

         

         

        埃を寄せ集めても、指先ですら摘めない。

         

        そんな『チリすら残らない』人生だった。

         

        幸せな片想いをしたなんて、ただの綺麗事。

         

        実際は、『何もない』のだ。

         

         

        空っぽ。

         

        空虚。

         

        空々しく、虚しい。

         

         

         

        もらった言葉は、罪のない嘘と、上辺の体裁だけ。

         

        放られた言葉は、侮辱と冒涜、身勝手な主張だけ。

         

        そしてみんな、どこかへいなくなった。

         

        中身のない人生でした。

         

         

        空っぽの中身は、他者には見えない、苦痛と苦悩と不安だらけ。

         

        自分を判って欲しいなどと、サラサラ思わない。

         

        他人を『判る』なんて、互いの溝と誤解を生む。

         

        浮かれ騒ぐ、縁もゆかりもない人たちに翻弄され、

         

        自分が勝手に心を乱し、苦しみを抱え込み、

         

        その苦しみが腐敗して、すえた匂いのする暮らし。

         

         

        幸せだったり、恵まれていたり、それなりに満足している。

         

        そんな人が世間で極端に目立っているだけのこと。

         

        闇に葬り去られた人は、葬られたので知られることもない。

         

         

         

        複雑に錯綜した、社会問題を無視して、

         

        自分のことだけにかまけられる、偏り。

         

        個では無力。それぞれが寄り添えない。

         

        それが人なら、

         

        もう、人は誰も信じられない。

         

        いや、信じない自分になろう。

         

        信じようが、信じまいが、己に課せられた問題。

         

         

        『愛こそすべて』なんて、理想論、絵空事のまま。

         

        どこまでも人は醜悪な利己的生物になれるようだ。

         

        モラル低下を加速させる根深い問題を放置出来る。

         

         

        ほうら、それらと向き合う方が怪我をする不条理。

         

        いい人だとか、優しいとか、体裁よく言われても、

         

        真摯に生きようとも、それらは何ももたらさない。

         

        自分は、いい人でも、優しくもなかったらしい。

         

         

        その証が、きっと死に方で示されるだろう。

         

        でも、その死など、誰も興味ないし、知れもしない。

         

        闇では惜しまれる死など、存在すらしない。

         

         

        誰にも知れずに、最初からいなかったように、消えてなくなるだけ。

         

         

        例えば、孤独死を『可哀相』とか『哀れ』と捉えるのは思い上がり。

         

         

        恵まれた人間の『優越感』や『驕り』でしかないことに気付かない。

         

         

        そこでは『慈悲』も『想い』もない『無関心』との特権が手に入る。

         

         

        死は死でしかない。慈悲のない人程、自分の死を恐れているようだ。

         

         

        知らない。気付かない。見なかったことにする。それらの、罪と罰。

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        ショーケンが、死んじゃったよ

        2019.03.29 Friday 02:35
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          ショーケンが、死んじゃったんだってよ。

           

          闘病を一切隠して、突然いなくなっちゃった。

           

           

          人は、いつかは死ぬ。

           

           

          自分もそれが近づいていることを感じている。

           

           

          具体的な病気などは判明しない。

           

          年々激しさを増す耳鳴りも原因不明のままだ。

           

          治療法もないまま、苦しみは増すばかり。

           

          それに追従して、色々と不具合が増す一方だ。

           

          どんなに苦しくても、どんなに調子悪くても、

           

          病院でどれだけ検査しても、

           

          『異常はない』

           

          『疲労とストレスの蓄積』

           

          と言われる。

           

          もう気力も体力もお金もない。

           

           

           

           

           

          昨年末に久しぶりに見たショーケンは、驚くくらいに痩せていた。

           

           

          今思えば、自分でも『死』を受け入れていたように穏やかだった。

           

           

          でも、あの、ショーケンが本当に死んじゃうだね。

           

           

          信じられないし、実感が湧かないから、悲しみも。

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          あの日のことは、ずっと忘れない

          2019.03.11 Monday 06:55
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            3月11日。

             

            あれから、8年。まだ8年。もう8年。

             

            この日だけでなく、ボクは一年を通して、何度も思い出す。

             

            忘れられないし、忘れない。

             

             

            ボクは会社勤めでの鬱病悪化から少しづつ回復しつつあった。

             

            でも、その日のボクは調子が悪く、朝から軽い吐き気があった。

             

            その瞬間にも、トイレの中にいた。

             

             

            妙にフラフラする。

             

            めまい、か?と思ったら、大きい揺れを全身で感じた。

             

            慌ててトイレから出ると、父と母も驚いてて、すぐに皆で家から出た。

             

             

            駐車してある車も激しく揺れる。電柱も揺れる。

             

            あのような光景は、かつて見たことがなかった。


            離れた東京でも帰宅困難者で大騒ぎになっていた。

             

            例えようのない『不安感』に襲われ、ボクはその日から鬱が悪化した。

             

             

            あの日、自然の脅威、恐怖をテレビでは一日中、映像で流していた。

             

            建物が大きな激流に飲み込まれて、車がおもちゃのように流される。

             

            恐怖におののく人の叫び声。

             

            絶望感に打ちひしがれる、声にならない声。

             

            それが耳に脳裏に焼き付いて消えない。

             

             

            あの日のことは、ずっと忘れない。忘れられない。

             

             

            その後、数ヶ月は東京でも尋常じゃない状態が続いた。

             

            コンビニやスーパーから色々な食品が消える。

             

            ガソリンスタンドに連日、長蛇の列が出来る。

             

            遠く離れた東京でも日常を取り戻せないでいた。

             

             

             

            ボクは、関西で起きた『阪神淡路大震災』の時には、会社で一番多忙だった。

             

            連日、何ヶ月も、終電間際まで働き、休日も出勤したり、

             

            作業と締め切りに追われて精神的にも肉体的にもかなり追い詰められていた。

             

             

            やるべき仕事はきちんとやるが、薄給で残業代ナシの会社に対する不満は最高潮だ。

             

            多忙さ極めるのは、ほんの2、3人だけ、他の数十名は定時で上がっていたのだし。

             

            そんな中で、会社から『クライアントの大阪支店も被災したから』と寄付を求められた。

             

             

            ボクは、会社に対する『不満』と『不信感』から、その寄付を拒否した。

             

            なぜ、こんな割りに合わない報酬で貧乏な社員から金を徴収するのか、と。

             

            社長や幹部は金持ちなんだから、彼らが自腹で何とかしてくれ、と。

             

            それは『震災』に対してではなく、会社に対しての愚かなる抵抗だった。

             

            その日から、ボクは『変わり者』『冷たい人』との目を向けられるようになった。

             

             

            疎外されるのは気にしなかったが、その後ずっと『そのこと』でボクは苦しんだ。

             

            寄付を拒否した、被災された方々に申し訳ない気持ちと自分の傲慢さに苛まれた。

             

            そのような『嫌な記憶』は消えはしないし、自分の中で真摯に受け止める事実だ。

             

            東北で、熊本で、日本中で災害が起きる度に、ボクは心が痛む。

             

             

            それは、『自己中心的な自分』と『被災された方々の気持ちを知り得ない』こと。

             

            多分、今も苦しみから逃れられない人は数知れないだろう。

             

            仮設住宅で、不安な日々を送っている人。

             

            移住を余儀なくされて、知らない土地で暮らしている人。

             

            益々情報は途絶える。政府も復興に何をやっているのか。

             

            報道もなくなる。被災者と被災地の今は何も伝わらない。

             

             

            それでも、ボク個人は、忘れないし、忘れられないのだ。

             

            ボクはこうして自宅で何不自由なく暮らせているからだ。

             

             

             

            消えることのない苦しみが少しでも癒えますように。

             

             

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            なぜ心は痛まない、のだろうか

            2019.02.01 Friday 07:38
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              簡単に人を殺める。

               

              そんなニュースを毎日のように聞いている気がする。

               

              親が幼い我が子を。

               

              実際に会ったことない、通信だけで知り合った人を。

               

               

              人が人を貶める。

               

              なぜ『心は痛まない』のだろうか?

               

              痛みを感じない、それを『心』と呼べるのだろうか?

               

               

              例えば、『人は人を傷つける』生き物だ。

               

              それは意図的であれ、無意識であれ、起こり得る。

               

              それらを前提に日頃、自らの行いから『何かを学ぶ』こと。

               

              謙虚な意識で『自己懐疑の念』や『自己対峙』をすること。

               

               

              利己的に自分の欲にかまけていると、見失いがちなもの。

               

              それらをどこかに置き去りにして、忘れてしまえるのか。

               

              ボクには判らない。

               

               

              ボクは一度だけ、小学生の時に人の頬を叩いてしまったことがある。

               

              その時、自分の心に痛みを感じた。

               

              叩かれた人の頬や心の方が痛かったであろう、と自責の念にかられた。

               

              その時、素直に謝ることが出来なかったことが自分の中で今も息づいている。

               

              その反省を抱えたまま、忘れられない。

               

               

              だからこそ、今の時代の生き方が見えてこない。

               

              通信ありき、が当たり前になった。

               

              近所付き合いや街の連携が薄れた。

               

              何事も合理的に、利便性を重視すれば、損なわれるものはある。

               

              子供の命を守れなかった『公務員の怠慢』はまた別問題になる。

               

               

              問題を複眼的に俯瞰で社会全体を見る客観性を身につけること。

               

              それを自分はどれだけ出来ているのだろうか、などと思うのだ。

               

               

              富裕層がより裕福に、貧困層がより困窮する社会へと加速する。

               

              高齢者や貧困な人が『損』するような仕組みにする政治家たち。

               

              あらゆる手段を使って人を欺くことに怯える目に見えない世界。

               

              課題をお座なりにしたまま、急いで人はどこへ向かおうとしているのか。

               

               

              簡単に『人を殺める』『人を欺く』ことが出来てしまえる。

               

              あらゆる社会問題に『心のあり方』が提示されている現代。

               

              それぞれが真摯に『言葉』『声』に耳を傾け、模索をする。


              人と人が面と向き合うことの大切さを今一度、見つめ直す。

               

              そんな切実な警鐘にも感じる。

               

              このままでは、心穏やかな日常など『過去の寓話』になってしまう。

               

               

              これは、誰かに向かって何かを訴えることではない。

               

              まさに、自分自身への確認であり、戒めでもある。

               

               

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              健康寿命、って際どい言葉だ

              2018.10.04 Thursday 09:50
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                最近、よく耳にするようになった『健康寿命』って言葉は、個人的にあまり好きではない。

                 

                ある意味、繊細で、際どい言葉だと思う。ボクはそう安易に使えない。

                 

                その『健康寿命』とは、『健康で日常生活を送れる状態』でいられるか、どうかだ。

                 

                乱暴な言い方をすれば、『介護を受ける人』は『健康寿命を終えている』と捉えられる。

                 

                厚生労働省などは『健康寿命の延伸と健康格差の縮小』を目標に掲げている。

                 

                でも、そんなに簡単な問題ではないような気がするし、表面をザックリ切り取っているようだ。

                 

                父は、病に倒れてから、入退院を繰り返し、最後には延命措置までして死んだ。

                 

                その間、10年近く、家族は看病やら病院などとの関わりに奔走しなければならなかった。

                 

                単純に『経済的余裕』があれば、もっと負担は減っただろうし、寿命自体も変わっただろう。

                 

                日本において『安楽死』は認められていない。この議論にも様々な見解がある。

                 

                でも、父は病院のベッドの上で『苦しみ続ける』ことを拒み、見ている方も辛かった。

                 

                声を振り絞り、『もうこの機械を全部外して楽にしてくれ』とずっと言っていた。

                 

                社会に経済格差があるのは当然であり、それをどうこう言っても始まらない。

                 

                だが、そこには、繊細で、表面化しない問題がたくさん孕んでいることを経験した。

                 

                父の看病の負担で、母も病気になり、半年以上入院していたことにより、

                 

                それまでとは『別人』のように筋力が衰え、病気が回復安定してからも寝たきりだった。

                 

                要介護4というかなり重い介護度を認定され、それはそのまま家族にのしかかった。

                 

                家族と言っても、ほぼボク一人に、だ。

                 

                お金は掛かるし、負担も掛かる。経済的に余裕がないなら、『介護』は想像を絶する問題になる。

                 

                幸い、本人に生きる意志があり、懸命にリハビリをして、介護度も下がって行った。

                 

                母は、元々何十年も病気を抱えて、通院を続けていた。肉体的に丈夫とは言えない。

                 

                その人が、経済的負担を出来るだけ背負わないようにすれば、肉体的精神的に負担を追う。

                 

                問題は、そう単純な仕組みではない。負の連鎖、などと有り体な言葉で済ませたくはない。

                 

                今でも、様々な負担は『負債』のように日々、積もって行く一方だ。

                 

                この暮らしに『出口』は見つからない。『楽をしたい』などの発想も生まれない。

                 

                それを一人で請け負っていると、『自分はいつ死んでもいい』との覚悟が出来る。

                 

                未婚で、子供もいない。なら、自分が『健康寿命』を終えた時が今生のお終いだ。

                 

                それを日々、痛切に感じながら、生きている。お終いを迎えるまでは生きている。

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                生命に、愛しさに、感謝をする

                2018.06.06 Wednesday 17:27
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                  ボクは子供の頃から『生き物』に興味があった。興味の根源は、多分『生命』だったと思うのだ。

                   

                  一体、『命』って何だ?との漠然とした疑問から、あらゆる形態の違う生命に興味を持っていた。

                   

                  まあ、昭和の子供の最初に通る道。それは、『昆虫』である。あの頃は数多の虫が存在していた。

                   

                   

                  夏の季節。網戸には無数の虫がたかっていた。中には、カブトムシもクワガタも自然に混在した。

                   

                  今時のように『生き物を買う』という発想がなかった。身の回りで、無数の生命と共存していた。

                   

                  そのせいか否か、ボクは未だに『ペット』という感覚がない。生き物との共存。ギブ&テイクだ。

                   

                   

                  十数年前に、『アニマルセラピー』なる都合のいい言い訳の元、ボクは生き物を飼い出したのだ。

                   

                  まずは、『熱帯魚』に始まり、やがて『ハムスター』に及ぶ。で、今は『鳥』と共生をしている。

                   

                  独身。交友関係なし。となると、『懐く』生き物が恋しくなる。これは、人の傲慢な欲望になる。

                   

                   

                   

                  人間も含め、生き物との共存はそう容易くない。『癒しが欲しい』とか『欲望』で成り立たない。

                   

                  そこには『命』の営みがあるのだから。それは自分の欲や損得だけでどうにかなることではない。

                   

                  それを生きている間に、どれだけ知り得るだろうか。誰も教えてくれない。見なければ済む話だ。

                   

                   

                  一昨年の暮れに、ボクはつがいの『カナリア』と生活を始めた。見た目も鳴き声も、綺麗である。

                   

                  だが、彼らにも生命の営みがある。翌年の春に、卵を3つ産んだ。その内、一つだけ雛が孵った。

                   

                  だが、翌朝、その雛は巣から落ち、ゲージの下に横たわっていた。微かに動いている様子だった。

                   

                   

                  ボクは、その子をまた巣に戻したが、1時間後にはまたゲージの下に。もうかなり弱った状態だ。

                   

                  色々調べたら『育つ見込みのない未熟な子は親が巣から落とし、育てない』ことがあると知った。

                   

                  その日の内に、ボクはその子を育てることにした。ヒーターで温めた大き目なガラスケースの中。

                   

                   

                   

                  最初は白湯をくちばしに少しずつ垂らす。徐々にそれを飲むようになる。次第に動くようになる。

                   

                  それからは、2時間置きに、湯で溶かした雛用の餌をさし餌する。やっと生きている感じだった。

                   

                  自分で餌を食べられるようになるまで、それを毎日続けた。小さいけれど『生命』の尊さを知る。

                   

                   

                  日毎に元気になり、産毛もなかった体に体毛が生え始め、やがてやっと鳥らしい姿になっていく。

                   

                  未熟児。自分に重ねることはなかった。ただ、せっかく生まれてきたのだから育って欲しかった。

                   

                  恐らく、通常の子よりも成長はかなり遅かっただろう。でも、今では仲の良い相棒のようである。

                   

                   

                  本来、カナリアは神経過敏で警戒心が強く、人に懐くことはない。この子の親は未だ、懐かない。

                   

                  だが、懐く懐かないに関わらず、生命の神秘を感じる経験だった。その『生命』がとても愛しい。

                   

                  命は、生まれた瞬間から死に向かっている。生き続けることは大変なこと。だから、愛しいのだ。

                   

                   

                  性別不明で名無しだったが、『ピーピー』鳴いていたので母が勝手に『ピータン』と呼んでいた。

                   

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                  命を繋げられなかった、ということ

                  2017.01.05 Thursday 08:51
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                    ここ数年の正月は、実に質素で、簡素で、特別なことはせずに過ごしている。

                     

                    かつて、父が生きていた頃には、兄弟家族を含めて、大人数で賑わっていた。

                     

                    だが、どこか『儀礼的』な感じはしていた。それが『楽しい』とは思えない。

                     

                     

                    ならば、今ある状態のまま、無理せず、出来るだけ『穏やか』に過ごしたい。

                     

                    兄には子供が3人いて、すでに孫も2人いる。羨んでいたのは事実だと思う。

                     

                    姪っ子や甥っ子が小さい頃には可愛がったが、彼らが大人になれば、他人だ。

                     

                     

                    他人という捉え方は、『排他的』な気持ちから来るものではない。多分そう。

                     

                    時代は変わる。昔みたいに、親族一同、繋がりがある。なんて、そうはない。

                     

                    年に片手でも余るくらいしか会わないと、日常ではない関係になるのである。

                     

                     

                    家族だろうが、知人だろうが、『馴れ合い』は好きではない。もう出来ない。

                     

                    そこに『気持ち』がないのならば、むしろ、さっぱり繋がりがない方が潔い。

                     

                    用意された『愛想』なら、こちらも心からの『気持ち』がないのならば、だ。

                     

                     

                    人が好きで、人ときちんと向き合いたいからこそ、曖昧な探りなどいらない。

                     

                    会った瞬間に、『笑顔』で向き合える人でなければ、無理をしたくないのだ。

                     

                    もう、そういう年齢になったと思う。自ら関係を断つのではない。肯定的に。

                     

                     

                    そこで、ボク自身は、『家族』を持たなかった。或は、持てなかった。必然。

                     

                    常に病に苛まれる人間に、家族を持つ資質はない。必然的に今こうしている。

                     

                    ボクは『命』を繋げなかった。母との二人だけの正月は、ありがたいことだ。

                     

                     

                    いずれ一人になるのだから、二人の方がいい。それに感謝せずにいられない。

                     

                    昨年末にボクの暮らしに加わった『カナリア』が、大晦日に卵を二つ生んだ。

                     

                    本人(メス親)もまだ1歳にもならないのに、毎日、ずっと卵を温めている。

                     

                     

                    現実的な話、『無精卵』なら、ヒナは孵らない。でも、彼女は、温め続ける。

                     

                    ボクは日々、それに感動している。遺伝子云々で片付けられないことと思う。

                     

                    どんな『命』であろうと、尊いことに変わりない。命のある情景に心が動く。

                     

                     

                    ボクは、自ら心を動かし、『キレイ事』で日常を済まさないようにしている。

                     

                     

                     

                     

                     

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                    生きることは、死と隣り合わせ

                    2016.12.27 Tuesday 05:25
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                      昨日、英国歌手の『ジョージ・マイケル』が死んだとのニュースを聞いた。

                       

                      享年53歳。ボクよりも年下だ。若いと言えば、若い。江戸時代なら寿命。

                       

                      だが、ここ数年、毎年。有名なミュージシャンの死のニュースが多いのだ。

                       

                       

                      昨年も多くの人が死んだ。今年も多くの人が死んだ。ある意味、当然の話。

                       

                      生とし生けいる物、皆死ぬ。生命が誕生した瞬間から、死に向けて生きる。

                       

                      また、生は、常に『死』と隣り合わせだ。命は、一瞬で絶えることがある。

                       

                       

                      ボク自身、50を過ぎた頃から、死を意識している。死の準備をしている。

                       

                      いつ、どこで、どうなるか。誰にも、何も、判らない。保証などないのだ。

                       

                      ボクは、それを二十歳前に大事故を経験した時、まさしく、切実に感じた。

                       

                       

                      ちょっとズレていたら、死んでいても不思議ではない。たまたま助かった。

                       

                      子供の頃から病気と共に生きていると、『命』について考える機会が多い。

                       

                      時には、精神世界に迷い込んだり、宗教について模索したり、迷走もした。

                       

                       

                      人は『弱った部分』を餌に、『救い』へと呼び寄せる。藁をもすがらせる。

                       

                      だが、ボクは、どれにも頼ることを拒んだ。頼る内は救われない気がした。

                       

                      体は、宇宙のように、あらゆるバランスを以て常に『命』を維持している。

                       

                       

                      ここ数年、あらゆる体の不調に悩まされ続け、もうこれ以上は勘弁を願う。

                       

                      日々、不安を抱えながら生きることは、ある意味、拷問にさえ感じられる。

                       

                      いっそ、楽にしてくれ。などと投げやりにもなるが、結局、必至に生きる。

                       

                       

                      いずれ、必ず、死ぬのだから。その瞬間までは、必至に生きてやる、とね。

                       

                       

                      プリンスなど、同世代の人が亡くなる。彼もいい味が出てきた矢先だった。

                       

                       

                      ジョージは低迷を続けたまま逝った。彼の声は絶品だ。特に、バラードが。

                       

                       

                       

                      低迷する時期に、名曲をジャズ風味で唄ったアルバムは魅力に溢れている。

                       

                       

                       

                       

                       

                      合掌。そして、感謝。

                       

                       

                       

                       

                       

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