エレニ・カラインドルーを聴いている

2019.01.26 Saturday 04:33
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    ここ数週間、毎晩夜中の2時頃、『エレニ・カラインドルー』を聴いている。

     

    作曲家であり、ピアニストである彼女の2013年の作品。

     

    もう1枚。1990年のアルバムも持っているはずだが、所在が不明なまま。

     

     

    ギリシャ出身で、映画監督『テオ・アンゲロプロス』の作品に携わっている。

     

    オリジナル作品も映画音楽も一貫して、音が澄み切っていて、とても優しい。

     

    当然、聴く人によって印象は違うだろう。この美しさを悲しいとか退屈とか。

     

     

    ただ弦楽器や管楽器が主なだけで、どこかに振り分けるのは納得がいかない。

     

    ただ『エレニ・カラインドルー』の音楽でいい。

     

     

    とっても静謐で、心の奥まで染み込んで来る音。

     

     

    ボクの敬愛する人がソリスト達が参加している。

     

    一人は、サックス奏者の『ヤン・ガルバレク』。

     

    一人は、ヴィオラ奏者の『キム・カシュカシアン』。

     

     

    ヤンの売り場はジャズで、キムの売り場はクラッシック。

     

    ボクは、この二人が共演しているアルバムも持っている。

     

    ヤンのサックスとキムのヴィオラに、ドラムスの『マヌ・カッチェ』のトリオ。

     

    マヌは主にロック畑でスティングのバンドにいたりした。

     

    でも、彼の本質はアフリカにあり、主なる音楽ジャンルはジャズだ。

     

    もう、こういう話はうんざりする。

     

     

    どうでもいいことなのだ。

     

    ヤンのアルバムは数十枚、キムのアルバムもマヌのアルバムも何枚か持っている。

     

     

    で、この『エレニ・カラインドルー』が素晴らしいのだ。

     

    重厚でありながらも、重苦しくはない。流れる川のよう。

     

    今、愛聴しているのはライブ録音でありながら、観客の音は一切ない。

     

     

    なので、音楽だけを純粋に聴けるので、ありがたい。

     

    毎晩、夜中の1〜3時頃にボクは苦しむ。毎晩の事。

     

    激しい耳鳴りに苛まれ、来るのか判らない朝を待つ。

     

     

    その暗闇の中で聴く『エレニ・カラインドルー』は救いになっている。

     

     

    これが、このアルバムの最初の曲だ。ヤンのサックスは、いつでもヤンなのだ。

     

     

     

    そう、もう1枚はこれだ。ボクの部屋のどこかにあるのに、聴けずにいるなんて。

     

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    とりあえず扉を開けて外に出て見る

    2019.01.24 Thursday 13:57
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      その昔、『銀色夏生』という詩人のような作家のような人の本を持っていた。

       

      デビュー前の『森高千里』がその本の挿入写真のモデルになっていたから相当前だ。

       

      角川文庫。薬師丸ひろ子や原田知世などを輩出した角川春樹が社長の頃の本。

       

       

      その中の一冊に『とりあえず扉を開けて外に出てみよう』みたいなタイトルがあった。

       

      それを思い出して、最近ボクはたまに思い切って、家の扉を開けて外に出てみている。

       

      前もって出掛ける予定があると、『予期不安』を起こしてしまうのが常だ。

       

       

      前日から下痢や吐き気、時には動悸やめまい、嘔吐にまで及ぶことがある。

       

      ので、『扉を開けて外に出る』から先、『何処かへ行く』のは勇気がいる。

       

      それでも、もうすでに何十年もそのパニック症状とは自分なりに付き合っている。

       

       

       

      まあ、いっか。で、『とりあえず、外に出てみる』のだ。

       

      それで、ダメならダメでいいじゃないか。とすればいい。

       

      ダメだったからって、いちいち落ち込んだりしないよう。

       

       

      自分を生きているのなら、創造と工夫は自ずと生まれる。

       

      ずっと苦しみ続けているだけでは、少しも前に進めない。

       

       

      で、先日、母がデイサービスでいない時に思い立って実行してみた。

       

      下痢や吐き気はあったが、電車にも乗れたし、症状は鎮静した。

       

      久しぶりに、某街にある『タワーレコード』に行ってみた。

       

       

      すると、『出逢い』があるのだ。能動的に動けば何かある。

       

       

      ボクの、乾涸びていた魂が、『音楽』を渇望していたのだ。

       

       

      30年以上前に愛聴していたジャズのアルバムが再発されているのを発見した。

       

      こういう類はネットではなかなか知り得ない。情報に頼るだけではダメなのだ。

       

      いつの間にか再発されていて、気付いた時にはすでに廃盤になっていたりする。

       

       

      しかも、そういうジャズなどの再発は廉価で、その時買ったのも1080円だった。

       

      何十年振りだろう。レコードは奥にしまってあり、探すだけで一苦労な状態のまま。

       

      自分の足で歩いて、端から目を配り、無駄があっても、それを含めての探索なのだ。

       

       

       

      で、1980年代のその作品は、その時代の匂いがした。

       

      比べることは無粋であり、今の時代がどうこうじゃない。

       

      だが、明らかに『今はない』匂いが確実にそこあるのだ。

       

       

      凄まじい『勢い』があり、分厚くも柔軟で、力強くも暖かで、聴く度に新鮮だ。

       

      ボクは、その『ジョージ・アダムス&ドン・ピューレン・カルテット』に聴き惚れた。

       

      勝手な思い込みだが、今時の音楽は軟弱な『ヒップポップ』の影響力が強いと感じる。

       

      それらにまだ侵食される以前の『ジャズ』を久しぶりに体感し、そこに『詩』をみた。

       

       

      表現において、『いい、悪い』じゃなくて、『好きか、どうか』がボクの中での指針。

       

      偉そうに批評やうんちくを垂れても虚しいだけ。黙って、自分の『好き』を愛すのみ。

       

      という具合で、ボクは、もうすっかり忘れかけていた『あの頃の匂い』を感じたのだ。

       

       

      その時ボクが買ったのは、このライブ盤。珍しくギターのジョンスコがゲスト参加だ。

       

       

      ジョージ・アダムスの表現には幅と奥行きがあり、バラードもただ甘いだけじゃない。

       

       

      日本で開催されていた『マウント・フジ』の常連だった頃。深夜テレビで観たのだ。

       

       

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      自分を生きる楽しみ方を知ること

      2018.10.08 Monday 03:53
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        極論を言ってしまえば、生命を維持することより、それを絶つことは遥かに安易なことでもある。

         

        誤解を招きかねないとしても、自殺というあり方は、自分による『人を殺める』行為とも言える。

         

        例えば、家庭環境、住居環境、労働環境、経済状況、様々な要素により、人は平等になり得ない。

         

         

        自分が自分を生きることを謙虚に受け止めて、あらゆる生命に感謝の気持ちを持つことの大切さ。

         

        卑屈になって、やさぐれることは楽な選択でもある。他人を羨むことも、何の慰みにはならない。

         

        言葉は稚拙で、表現は受け手側の解釈でどうにでも代わり得る。自己懐疑の念を持つ勇気も必要。

         

         

        そこで、だ。ボクは自分を生きることにおいては、実に下手ばかりやってきた。未だ改善しない。

         

        半世紀以上も生きてきて、それを実感するのはどうしたものか。愚かさにも程があるように思う。

         

        相田みつをの言葉をお借りして『人間だもの』で簡単に済ませてはいけない気がする。そう思う。

         

         

         

        ボクは音楽をこよなく愛している。音楽によって生かされてきたことは否めないだろうと感じる。

         

        好きだからこそ、相対する『嫌い』なものもある。世の中の音楽すべてを愛している訳じゃない。

         

        そこが凡人たる所以である。自ら『不快』に感じるものに反応することは愚かな生き方の象徴だ。

         

         

        先日、ある8歳の女性の存在を知った。『天才少女ドラマー』として、話題になっていたらしい。

         

        音楽において、ボクはリズムに生理的に反応する。生身の人間によるグルーヴは幸福を左右する。

         

        ので、話題になっているその少女の動画を観たのだ。言葉は無粋だ。『素晴らしい』しか、ない。

         

         

        持って生まれた資質は如何ともし難い。努力では得られない。それをその少女は最大限に活かす。

         

        しかも、それにより『自分を生きることを楽しむ』のを具現しているのだ。全身で表現している。

         

        技術や理論などは黙るしかない。観ている、聴いているボクをも幸せにする生き方に感謝をする。

         

         

        この演奏を本家ツェッペリンのロバート・プラントが絶賛したことによって話題になったそうだ。

         

         

         

        このドラマーの最大の魅力は、グルーヴの渦の中で溺れずに、自らが喜び楽しんでいることだろう。

         

         

         

        シンプルこそ、絶妙な『間』が試されると個人的に思うのだが、それさえ踊るように楽しんでいる。

         

         

         

        ボクは音楽に出会い『自分を楽しむ』ようになった。他人に迷惑を掛けないよう楽しむのが理想だ。

         

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        肌に馴染む、シャツの心地良さ

        2018.05.21 Monday 12:30
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          どんなにオシャレな服でも、自分には相応しくないものがある。単純に似合わないとか。

           

          結局、タンスの奥から引っ張り出した『着慣れた』少しヨレたシャツが心地良かったり。

           

          分相応とかではなく、『自分の感じる心地良さ』って誰にでもあるような気がするのだ。

           

           

          これは、服の話だけでない。『肌に馴染む』=『心地良さ』=『心の感じ方』でもある。

           

          ここ数年、ボクもそれなりにいい年齢になって、『馴染む』ことの大切さを感じている。

           

          服に関しては、高校生の頃からほぼ着る物には一貫性がある。柄も色も好みがブレない。

           

           

          少し視点を変えれば、時代に左右される『流行、廃り』からは、常に距離を置いている。

           

          それは、趣味にも共通しているようなことを最近、感じるのだ。音楽や映画や書物など。

           

          特に、音楽においては、好みの視野が広がる一方で、草の根分けて、常に探索し続ける。

           

           

           

          ボクは、洋楽も邦楽も分け隔てなく好み、高校生の頃にはジャズにのめり込んで行った。

           

          そこからは、芋ずる式に『出るわ、出るわ』の大騒ぎ。新しい地平にはまた新たな発見。

           

          そんな具合で、ジャンルを越え世界中を音楽で旅する。魅力的な人や音にあふれている。

           

           

          アフリカ。中国。インド。中近東。南米。ヨーロッパ。民族衣裳のような『肌の質感』。

           

          クラッシックも現代音楽も民族音楽も、根っこは一緒だ。『心で心地良く感じるか』だ。

           

          時代の変遷は目紛しく、音楽も様変わりした。そこには、根っこのない弱いものもある。

           

           

          それらは、いつでもどこも同じような選曲をするラジオで垂れ流しされ、そのまま放置。

           

          ならば、自分で探すしかない。やはり最終的に『心地イイ』のは、『肌に馴染む』もの。

           

          ベテランの過去に魅せられた現役の人が多い気がする。今の音楽は先細りの刹那的商売。

           

           

           

          ここ十数年、長らくレーベルとの契約がなかったベテランの新作に触れることが増えた。

           

          それを『ノスタルジア』で片付けるのは惜しい。単なる懐古ではなく、実力が衰えない。

           

          凄い人は『素晴らしい』のだ。その人が積み重ねた経験が活かされているのだから、だ。

           

           

          年齢にすれば、60〜70代。1970年代前後に活躍し、今でも、現役感バリバリだ。

           

          中には、『昔の名前で出ています』的な、『過去の焼き直し』で同窓会に甘んじる人も。

           

          その中で『本物』を提示されると、ただ『脱帽』するしかない。過去でなく、今なのだ。

           

           

          つい昨日届いた。『ダニー・コーチマー』という人の約40年振りの新作は素晴らしい。

           

          半世紀近く、苦楽を共にした仲間たちがバックアップする。皆それぞれに魅力的なまま。

           

          リー・スクラーのベース。ラス・カンケルのドラム。もう、唸るしかない鉄壁のリズム。

           

           

           

          まさに『肌に馴染む』音であふれている。コンピュータ類を一切排除した生演奏の極意。

           

          人に心地良さをもたらす『揺らぎ』が満載だ。ギターの音に『嘘』はなく、歌っている。

           

          もうボクは、その音に身を委ねるだけだ。今は、刺激よりも心地良さが必要なのである。

           

           

          新しいシャツも気分転換に着る。それでも、肌に馴染んだ少しヨレたシャツは心地イイ。

           

           

          ただ、新しいシャツは、素材も悪く、すぐに役に立たなくなる場合が多いのは否めない。

           

           

          これは、今回の新作のメンバーによる最近のライブ。音は劣悪だが、間は、肌に馴染む。

           

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          Carolina Chocolate Drops

          2017.02.15 Wednesday 10:50
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            音楽に『ジャンル』があるのは、なぜだろうか。なぜ類で分けるのだ。

             

            全く興味ない、かの『グラミー賞』でも、ジャンル分けがされている。

             

            何が違うのか。分類しないと、いけないのか。ボクにはよく判らない。

             

             

            これはロックで、これはポップス。これはブルースで、これはジャズ。

             

            ロックのようなジャズもあるし、ゴスペルのようなカントリーもある。

             

            それらをどこかで線引きして分けるのは、人間様の商売の匂いがする。

             

             

            ボクは最近、そのジャンル分けで言えば、『カントリー』を良く聴く。

             

            別にカントリーとしてじゃなくて、『それら』が心に響くだけなのだ。

             

            一般的に、『カントリー』は『ダサイ』とされているのも、解せない。

             

             

            そんな中でも、気付けば、黒人による『その系統の音楽』が多いのである。

             

            数年前にラジオで一聴して聞き惚れた『リアノン・ギデンズ』という女性。

             

            彼女は黒人だとか、若いとか、その類いの概念は無用なまでに素晴らしい。

             

             

            魅力的な歌い手であり、複数の楽器の使い手としても有能だが、無名に近い。

             

            ソロ・アルバムから、Carolina Cholate drops、というグループに辿り着く。

             

            メンバーはすべて黒人で、多数の楽器を奏で歌い紡ぐ音には、奥行きがある。

             

             

            彼らの音楽は、カントリーでありながら、ブルースやゴスペルの要素も多い。

             

            もはや彼らに限らず、表現をカテゴリーで括る意味が無粋に感じるてしまう。

             

            有能なプロデューサーが、その筋には多く、競演するミュージシャンも多い。

             

             

            昨今、ラジオから流れて来る『ジャンク』な音は、胸焼けして受け付けない。

             

            薄っぺらく、中身もスカスカで、何より生演奏の楽器による音がほぼセロだ。

             

            人による、体温のある、魂に直に届く『エヴァーグリーン』とは程遠いのだ。

             

             

            ガムのように、すぐに味がなくなる『使い捨て』は、何物に置いても不要だ。

             

            よく言う『断捨離』の真意は何か。長い間、慣れ親しむ味わいの希薄のよう。

             

            心から大切にしたい物は、捨てるに至らない。音楽も同様に、飽きはしない。

             

             

            生活の中で、このような奥行きのある音楽に触れることは『糧』になるのだ。

             

            アメリカの闇は根深いようだが、表現で、ルーツを大切にする人材も豊富だ。

             

            彼らの表現する音は、『温故知新』と『探求』のいい具合な『融合』になる。

             

             

             

             

             

             

             

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            どっち派、という発想って何だろうか

            2017.01.29 Sunday 11:14
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              学生時代、『ビートルズ派』だ『ストーンズ派』だとか言う奴らがいた。

               

              そういう人を横目に、ボクには、その発想そのものがよく判らなかった。

               

              いいものはいい。好きなものは好き。実にシンプルなことじゃないのか。

               

               

              テレビでこれを言う人も『おや』だった。おい恥ずかしくないのかよと。

               

              共に『笑っていいとも』のテレフォンのゲスト。したり顔がカッコ悪い。

               

              いい年齢の大人がメディアを通して、無差別に断言を放つのは見苦しい。

               

               

              世良公則は、『ビートルズなんて軟弱だ』『ストーンズこそロック』と。

               

              更に細分化したのは、秋野暢子。『私は断然ジョン派』とドヤ顔で言う。

               

              要して『ポールって音楽家じゃなくて、金儲け主義だし』って発想は何。

               

               

              ボクはビートルズが好きだが、ストーンズだって好きだ。どっちも好き。

               

              ポールにはポールの魅力があり、ジョンにはジョンの魅力があると思う。

               

              それを『狭い了見』で、ある種の自己肯定の為、他者を否定するのかい。

               

               

              今までに色々な『何々派』を聞く度に、『あっそう』と聞き流してきた。

               

              やれ『マック派』だの、『ウィンドウズ派』だの。様々な分野にわたる。

               

              それぞれの良さがあるものを、敢えて『どっち』なんて愚かしいことだ。

               

               

              視野の狭さ。許容範囲の狭さ。それは、『想像力の乏しさ』にも感じる。

               

              極端に好みが偏る人。問題は『極端』なこと。好き嫌いは個人の自由だ。

               

              何事も極端に偏ることは、『軋轢』『衝突』を生むだけで不毛に思える。

               

               

              最近すごく不快に感じていることは、『言いたい放題』の野放し状態だ。

               

              世間的に影響力の大きい人が、メディアを中心に個人的意見を放ち過ぎ。

               

              かの大統領然り、文化人とやら、芸能人、コメンテーター等種々雑多だ。

               

               

              それに準ずる形で、『どっち派』も主張しなければいけないのだろうか。

               

               

              ボクも嫌いな音楽はある。それは単に個人的問題であり、主張ではない。

               

               

              それを好きな人を否定して満足などしない。『お好きにどうぞ』でいい。

               

               

              ともあれ、了見狭い発想を示して、『人生、面白いのかしらん』と思う。

               

               

              人がどうあれ、こちらが意見する問題じゃない。利害関係は穏便にする。

               

               

              音楽に関しては、一緒にバンドとか組んだりする場合は実に厄介である。

               

               

               

               

               

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              東京にも、ブルースが残っていた

              2016.12.25 Sunday 09:11
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                すっかり『日本からブルースは消え去った』とボクは勝手に思っていた。

                 

                巷に溢れる唄からは、『ブルース臭』がまったくしなくなったのである。

                 

                あの『殿様バッタ』みたいに、お目に掛かることも出来ないのだろうと。

                 

                 

                かの『Jソウル』さんは、自己肯定的に『ソウル抜き』した具合である。

                 

                受け手の『ソウル』なんて、見事に『無視』してしまえる、と思わせる。

                 

                日本人として、『J』と名乗られるのは少々違和感があるのは否めない。

                 

                 

                かの『ゲス』さんも、音楽云々以前に、『魂』の未熟さを露呈している。

                 

                音には、その人と成りが反映されるということ。年齢からすれば、当然。

                 

                彼の音にも、『ブルース』は皆無だ。音楽のいい悪いは、また別問題だ。

                 

                 

                 

                遡ること。ブルース、ジャズ、R&B、フォーク、ロック。音楽の変遷。

                 

                西洋音楽とアフリカン音楽の融合から庶民の音楽が誕生したように思う。

                 

                貴族のための総称としてのクラッシック音楽と民族音楽をミックスする。

                 

                 

                アメリカへと強制的に奴隷として連れて来られ、黒人が迫害された歴史。

                 

                彼らの苦しみを少しでも癒すものが、音楽だったと想像する。生命の源。

                 

                西洋の楽器を使って、『五音音階』を主体としたメロディを奏でること。

                 

                 

                そこからジャズやブルースが生まれ、必然『ブルーノート』も生まれた。

                 

                独特の哀愁を帯びる、いわゆる『ペンタトニック・スケール』の賜物だ。

                 

                アフリカからアジアへ通じる『民族音楽』が大衆音楽の起源なのだろう。

                 

                 

                日本人の根底にある『侘び寂び』に通じるものに惹かれるのは、必然だ。

                 

                それが、ブルースであり、ソウルだったようにボクの中では捉えている。

                 

                それがここ十数年で、ごっそり『日本の音楽から消え去った』気がする。

                 

                 

                 

                少し前にラジオを聴いていて、小林克也氏が似たような発言をしていた。

                 

                チャート番組で『最近の日本の若者の音楽にはブルース要素がない』と。

                 

                要して『ブルースの存在なしに音楽体験してきたのかなあ』のような話。

                 

                 

                想像してみるに、育ってきた環境が劇的な変化を続けてきたせいなのか。

                 

                過去の音楽遺産に触れることなく、音楽を生むとこうなる、のだろうか。

                 

                穿った見方をすれば、合点が行く。CD媒体が売れないのも当然である。

                 

                 

                憶測で言うのも無責任だが、韓国の音楽事情にも共通するように思える。

                 

                韓国が民主化されたのはほんの数十年前で、そこから大衆音楽が始まる。

                 

                ヒップポップ全盛以降の影響が強く、流行る音は今時の日本と酷似する。

                 

                 

                 

                そうなると、もう日本の音楽業界に望むものはなくなるように危惧する。

                 

                かつて、欧米の音楽に痺れ、楽器を手にする若者の勢いは凄まじかった。

                 

                それは、ブルース、ソウル、ファンク、フォーク、ロック等、渾然一体。

                 

                 

                すっかり昔話になる程に、遠い記憶だ。おっさん、カビが生えているよ。

                 

                と言われていい訳もない。そう、ボクはおっさんである。でもいいのだ。

                 

                ただ個人的に、日本の音楽、どうした?とブルースを探してしまうのだ。

                 

                 

                 

                現在も尚、幅広いアメリカの音楽には、ブルースが根付いているようだ。

                 

                新しい作品の中でも『カントリー』気質は根強い。日常の中に寄り添う。


                ブルースやフォーク、ロックの痕跡がラジオとして暮らしにあるようだ。

                 

                 

                古く『ロバート・ジョンソン』から『レッドベリー』まで俯瞰で眺める。

                 

                そこに『ブルース』『フォーク』といったカテゴライズは邪道に思える。

                 

                共にギター1本と『唄』があるだけ。『人』がいるだけの表現力の深さ。

                 

                 

                日本の『五音音階』である『民謡』は日本人の暮らしに寄り添ってない。

                 

                そこから派生した『演歌』は形骸化したようだ。『流行歌』然りである。

                 

                日本の音楽史は、生活と結びつきが薄い。俯瞰で眺めることすら不可能。

                 

                 

                 

                やはり日本の文化は、刹那的に『無駄を排除』する傾向が強い気がする。

                 

                ボクの嫌いなグーグルのCMがその典型にも思える。『手軽さ』の行方。

                 

                何でも『他者』に頼り、『用意』してもらえる、『自己の排除』なのか。

                 

                 

                ボクによるスゴい偏見だ。所詮、人は、自分の中で模索を続けしかない。

                 

                どこかにもう見ることはないと思っていた『殿様バッタ』もいるだろう。

                 

                実際に、先日、今の日本の若者によるブルースを聴いたような気がする。

                 

                 

                諦めた、その時点で、すべては終わる。自分の中の偏見も捨てなければ。

                 

                ここ数年、久しぶりにギターを手にすると、ついブルースを弾いている。

                 

                もはや、心の渇きが欲しているよう。ブルースはオアシスなのだろうか。

                 

                 

                ともあれ、東京にもまだブルースはあったのだ。見過ごしているだけだ。

                 

                 

                 

                彼女には数年前にラジオから流れてきた瞬間『ブルース』を感じたのだ。

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                彼女のファーストミニアルバムを買ったが、期待した程でなかったのも事実。

                 

                まだ二十歳そこそこ。足りないくらいで丁度いい。ブルースに完成などない。

                 

                この先、どう変化し続けるか。それを楽しみにしてみるのも悪くないだろう。

                 

                 

                 

                 

                 

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                可能性を活かすも殺すも、自分次第

                2016.12.03 Saturday 09:39
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                  ボクはすっかり、今の音楽に興味が失せている。それは、失望とは違う。

                   

                  受け入れられないものが多過ぎ。ボクの許容が足りないのかは判らない。

                   

                  ただ、半世紀近く、あらゆる音楽を聴いてきて、五感に響かないだけだ。

                   

                   

                  それでも、未だ『可能性』は間口が狭くとも、活かすことは自分次第だ。

                   

                  簡単に『希望』とか、貧しい語彙で片付けたくない。と常々想っている。

                   

                  経験から草の根掻き分けて自ら探せば、そこに『宝』があると確信する。

                   

                   

                   

                  ボクは、高校から大学における数年間は、音楽への探求が尽きなかった。

                   

                  バイクに股がり、吉祥寺などの、マニアックなレコード屋に入り浸った。

                   

                  端から端まで、棚からレコードを引き出し、心の壁を震わす連続だった。

                   

                   

                  現在のように、パソコンもスマホもない中、情報の垂れ流しもなかった。

                   

                  ラジオや人づてに聞く以外、自分の足で探すことが確実な手段であった。

                   

                  常にアンテナを張って、自分の判断が試された。その過程も音楽だった。

                   

                   

                   

                  家に戻って、レコードに針を落とす瞬間は、ゾクっとする。意識覚醒だ。

                   

                  後頭部をハンマーで殴られる程の衝撃を受けたり、肩透かし食らったり。

                   

                  それでも、大方、『衝撃』の方が勝っていた。あれもこれもスゴかった。

                   

                   

                  特にカルチャーショックを受けたのは、アフリカなど民族音楽だろうか。

                   

                  学習授業で毛嫌いしていたクラッシックをすんなり受け入れてから、だ。

                   

                  無限に細分化されたリズム。人の刻むリズムの天文学的広がりの衝撃だ。

                   

                   

                   

                  世界を放浪し続けた、ジャズ界の奇才『ドン・チェリー』との出逢いだ。

                   

                  彼は、あらゆる民族音楽との融合を模索し続けて、自分の血や肉にした。

                   

                  その彼が、アフリカのミュージシャンと競演したレコードは衝撃だった。

                   

                   

                  いわゆる『ポリリズム』の中での、3拍子と5拍子の共生などはスゴい。

                   

                  細分化されたリズムの波に乗り、自由にメロディーを奏でる突き抜け方。

                   

                  ボクは、自ら太鼓を叩くきっかけにもなり、リズムの可能性との出逢い。

                   

                   

                   

                  すっかり人生に打ちひしがれて、日々苦悩していた中で、ふと蘇るもの。

                   

                  無心になって掌で太鼓を叩く。すると、自分の中の創作意欲が動き出す。

                   

                  そうして、リズム感のないボクが模索を繰り返し、可能性と向き合った。

                   

                   

                  それを思い出させてくれたのが、佐藤竹善の新作をラジオで聴いた時だ。

                   

                  シンフォニック・オーケストラとアフリカン・リズムが融合する斬新さ。

                   

                  元々彼の声が好きだった。それをあのような形で提示されると参るのだ。

                   

                   

                   

                  特にTOTOの名曲『アフリカ』のカバーは、秀逸であり、見事である。

                   

                  ボクも好きなアフリカのアンジェリク・キジョーにヒントを得たと言う。

                   

                  オーケストラも個々の集まりであり、そこにパーカッションが融合する。

                   

                   

                  漠然とボクが模索をしていた形が具体的に示されたようで、爽快だった。

                   

                  数年前、ボクも自分の手でリズムを刻み、カオスの中の単純を追求した。

                   

                  それは余りにも未完成であり、自分の器の小ささを露呈する形になった。

                   

                   

                  未完成だからこそ、そこには、まだ『可能性』が残されている気がする。

                   

                   

                   

                   

                  佐藤竹善の作品は、まだ『未完』だと思う。まだまだ『余白』が見える。

                   

                   

                   

                   

                   

                  5年程前ふと思いつき、即興で多くの演奏を重ねてみた。その瞬間の閃き。

                   

                  白い紙に幾つもの線を重ね、複雑さの中に単純という世界を見ようとして。

                   

                   

                   

                   

                  その自分の未熟さを知ることで、まだ可能性が残されていると感じるのだ。

                   

                  ピアノ、ジャンベ、バンブー・サックス等、演奏が未熟故に楽しくもある。

                   

                   

                   

                   

                  長い間、時間も体力もなく、ボクを音楽の創造へ向かわせる力はないのだ。

                   

                   

                   

                   

                   

                   

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                  差別や偏見は人からなくならない

                  2016.11.27 Sunday 13:33
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                    アメリカのトランプ騒動などを筆頭に、人種や宗教などの違いが人にはある。

                    そこから生まれる『差別』や『偏見』は、人の心から消えることはないのか。

                     

                    どれだけ科学が進歩しようと、どれだけ文化が発展しようと学習は足りない。

                    悲惨な戦争を繰り返しても、『紛争』も『闘争』もやめずにより過激になる。

                     

                    愚かしい程に、世界全体の混乱は、益々『複雑を極め』つつあるように思う。

                     

                     

                    そこで、先日、何気なくテレビを見ていた時に、とてもやり切れなくなった。

                     

                     

                    日本の社会で『格差』が広がっていることを当事者の若者達が討論していた。

                     

                    特に社会問題になっている『人材不足』が深刻な『看護士』『保育士』たち。

                     

                    彼女たちの心の叫びは、現代社会を象徴するものとして切実に感じるものだ。

                     

                     

                    長時間労働や過酷な状況に関わらず、手取りの『報酬の余りの低さ』は如実。

                     

                    それでも、彼女たちは、自分の仕事に誇りを持っているようボクには見えた。

                     

                    そこで、32歳のIT企業の社長とやらが、したり顔で宣っていたのである。

                     

                     

                    『だってさ、給料安いの判ってて、その仕事に就いた訳でしょ?』など、と。

                     

                     

                    ボクはIT業界が『好きではない』故、客観性に欠ける色眼鏡で見てしまう。

                     

                    にしても、彼の醒めた眼差しと言い方に、心地の悪い『違和感』は拭えない。

                     

                    デジタル社会に対するアレルギーも相当なものだと、自分を再認識するのだ。

                     

                     

                     

                     

                    そこで、ボクがいつも、或はずっと素朴に疑問に思っていることがある。

                     

                    それは、エンターテイメント、いわゆる『音楽』『映像』などの表現だ。

                     

                    いわゆる『商業主義』の蔓延する世界で、娯楽が欺瞞と表裏一体になる。

                     

                     

                    レコードからCDへと変わり身の早さ。今はすっかり『データ』である。

                     

                    形すらなくなり、それを提示されるまま、受け入れる、変わり身の早さ。

                     

                    誰も文句言わないし、誰も『便利で素晴らしい』と判断する基準も不明。

                     

                     

                    そして『差別』である。『男女差別』は、未だなくならないように思う。

                     

                    女性の社会進出や活躍を謳って久しいのに、何も変わっちゃいない現状。

                     

                    そこには、『偏見』という固定概念が根強く存在してはいないだろうか。

                     

                     

                     

                    具体的な例をあげると、音楽において、特に楽器演奏においては顕著だ。

                     

                    女性は、体力的に男性とは違うのは否めない。握力など歴然としている。

                     

                    だからと言って、女性が男性に劣ることはない。優劣じゃないと思える。

                     

                     

                    にも拘らず、未だに『女性奏者』などと言われる。男性社会からの目線。

                     

                    業界は、『女性サックス奏者』『女性ドラマー』と特別な売り物にする。

                     

                    圧倒的に男性奏者が世に出ているのに違いないが、これはいかがなのか。

                     

                     

                    個人的に『グルーブ感』の好みが違っても、魅力的なドラマー川口千里。

                     

                    彼女も『天才女子高生ドラマー』として、商売の中に取り込まれている。

                     

                    だが、その卓越した技術に裏打ちされた『心地よさ』に性別は関係ない。

                     

                     

                     

                    単純に、彼女の手数の多いドラミングと笑顔で楽しむ様子が気持ちいい。

                     

                    そこには音を楽しむ『躍動』が凝縮されていて、聴き手側も実に楽しい。

                     

                    楽し気な彼女は、ロックもジャズも関係なく、音楽そのものを具現する。

                     

                     

                    でも、彼女が女性だけで組むバンド演奏は、音を聴けば、性差などない。

                     

                    演奏において、男性に力負けしているとは『差別』『偏見』に過ぎない。

                     

                    そこを敢えて逆手に取って、彼女たちは『女性』を全面に打ち出すのだ。

                     

                     

                    こんなエンターテイメントが世に埋もれているなんて、愚かしい限りだ。


                    この二つの違うバンドにおいて、いいか悪いかでなく、好きかどうかだ。


                    千里さんは、純粋に音楽に身を委ねつつ、3枚目の商業アルバムを出す。

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     


                    人間の中の『差別』と『偏見』という愚かが、益々視野を狭くしているよう。

                     

                    昨今のクズみたいなダダッダ打ち込みの似非リズムなど、音楽とは呼べない。

                     

                    との『ボクの中の偏見』もなくならない。あの気持悪さは受け入れられない。

                     

                     

                     

                     

                     

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                    いまさらながら、ボブ・ディラン

                    2016.11.11 Friday 08:58
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                      ノーベル文学賞で色々と物議を醸した『ボブ・ディラン』である。

                      ボクは、中学生の頃に始めて彼の新譜を聴いて衝撃が走ったのだ。

                      その時の新作、邦題が『欲望』と言う。原題は『Desire』。

                       

                      レコードを買う金がないので、FMラジオでエアチェックをした。

                      アルバム数曲を録音したカセットテープは擦り切れる程に聴いた。

                      『ハリケーン』

                      『コーヒーもう一杯』

                      『ジョーイー』

                      その他、名曲が目白押しだった。

                      特にこの3曲は、心の奥の壁まで突き刺さる『強さ』があった。

                       

                      それは、アメリカが強さの象徴とするのとは一線を画していた。

                       

                      個人、ボブの、大地に足を据える人として生きる力強さである。

                       

                      それから、遡ること数々の名曲を聴くようになり、益々好きに。

                       

                      大人になって、気付けば、彼のCDは20枚以上所有している。

                       

                       

                      件のノーベル文学賞で、にわかにメディアで取り上げられ、

                      知ったかのように、ほんのごく一部の唄だけが紹介される。

                      それは、彼のほんの一部で、ただの『通過点』に過ぎない。

                       

                      まあ、世の中とはそういうものなのだろう、と傍観をする。


                      ノーベルだの、どうでもいいと思う。村上春樹に関しても。

                       

                      あの、貴族さながらの晩餐の宴に、何が見えるというのか。

                       

                      名誉や名声を墓場に持っていくため、人は生きているのか。

                       

                      個人主義、と捉えるのは少々危険である。断定は避けたい。

                       

                      ただ、ボクはボブが好きで、春樹も好きで、それだけの話。

                       

                       

                      彼の初期の名曲『Like A Rolling Stone』だ。

                       

                      『どんな気がする

                       どんな気がする

                       ・・・・・

                       ぜんぜん知られぬ

                       転がる石のようなことは』

                       

                      かの『Rolling Stones』という、

                      これまた、素晴らしい平均年齢70歳過ぎのバンド。

                       

                      よく使われる『Rolling Stone』、

                      『転がる石は、苔むすことはない』との比喩も、

                      ボクなら、『どうでもいい』ことにしてしまう。

                       

                      『よく動き、よく働き、生き生きしていること』

                      『仕事も住居も転々と、成功も金も無縁なこと』

                      の例えとして使われる、ことわざに由来している。

                       

                      だから、ボクには、『どうでもいいこと』なのだ。

                       

                      ことわざに理屈は、野暮だし、由来など、無粋だ。

                       

                      まさに、『Like A Rolling Stone』は名曲であり、

                      まさに、『Rolling Stones』はカッコいいのである。

                       

                      彼らにとって、『理屈』や『ことわざ』など、無縁でいいじゃない。

                       

                      好き、という気持ちの前では、『理屈』など、黙るしかないだろう。

                       

                       

                       

                      いまさらながら、ボブ・ディラン、なのである。

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

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