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2017.07.23 Sunday
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    現代社会の家族から見えてくるもの

    2016.12.20 Tuesday 09:29
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      ボクは、そこそこ生きているが、『家族』ってものが判らないでいる。

       

      幼少時代は、昭和の『1億総中流』という具合に、まあ貧乏な家族だ。

       

      物がないし、親から厳しく躾けられ、甘やかすよな爺婆もいなかった。

       

       

      親の言うことは『絶対』だし、それに逆らうことなど許されなかった。

       

      我が家は特に厳しく、門限が4時で、夕方は家事手伝いが日課だった。

       

      風呂炊きや鰹節を削ったり、近所に買い物に行ったり、自由時間なし。

       

       

      テレビでやっている『始めてのお使い』なんてものには違和感がある。

       

      先行き見えない発展途中、治安も良くて、子供も役割を担うのが家族。

       

      親に言われた通りの買い物をする。肉屋や魚屋や八百屋などに行った。

       

       

       

      まあ、そういう『ノスタルジア』はどうでもいい。それは置いといて。

       

      父に殴られたり、母に甘えることもなく、大人の顔色を伺う過ごし方。

       

      呑気にゲームに興じるなんて、想像すらしてなかった頃に育ったのだ。

       

       

      だが、『家族』って、暗黙の内に寄り添って生きていた気がしている。

       

      小さなこたつを囲んで、家族が同じ方を向いて、特別な正月を迎えた。

       

      それまですべてが『その日のため』のように、『平和』な元日である。

       

       

      そりゃ、家族なら『色々ある』のが前提だ。家族の数だけ問題がある。

       

      同級生で、ある日突然『名字が変わる』なんて希だった時代があった。

       

      昨今は、離婚など諸々『何が起きようと驚かない』体で暮らしている。

       

       

       

      昨今問題の『待機児童』の問題。この現象は何だろうか?と思うのだ。

       

      我が家は、母が朝からパートに出て、保育園も隣の忍ちゃんと通った。

       

      首には家の鍵を下げ、3歳児の足で20分程を往復歩いて仲良く歩く。

       

       

      ボクは『幼稚園』に行っていない。小学校に上がるまで保育園だった。

       

      仕事人間の父の稼ぎで、高校も大学も出してもらったが楽はしてない。

       

      物心ついた頃から絵を描くことが好きなボクには、紙も絵の具もない。

       

       

      頑固で厳格な昭和の親父。こつこつ貯めたお年玉でギターを買おうと。

       

      父に土下座して許しを請うが、拳で殴られ、一蹴された、社会の洗礼。

       

      何もかも奪われ、自分の中の可能性は自らの『想像』で生むしかない。

       

       

      自分の置かれた状況の中、『創意工夫』を育むことを積み重ねてきた。

       

      それが、自分の暮らしで活かされるようになることは、感謝に繋がる。

       

      何でも手に入り、不自由ない暮らしは、『想像』『創意工夫』を奪う。

       

       

       

      常に『当たり前』が用意されて育つ甥っ子達を身近でずっと見て来た。

       

      彼らに欠落していた物が、彼らが大人になって歴然となった気がする。

       

      正しいとか、間違いとかじゃない。『そういうもの』でしかないのだ。

       

       

      成人になっても、家族の法事の席で、スマホでゲームをしてしまえる。

       

      それを制止もしない親。そんな人が血縁関係だけで家族とは呼べない。

       

      ボクの関知する範囲を越えている。言葉の受け答えに、『愛』はない。

       

       

       

      家族、家庭を持たなかった自分だから見えたものも多いと最近感じる。

       

      人が生きる上で『大切なもの』は、具体性を省けば、共通するものだ。

       

      人や物に感謝し、欲しがらずに与えられる自分になろうとする謙虚さ。

       

       

       

      誰かに言われる前に、『自己懐疑の念』を持ち、判断基準を模索する。

       

      昨今、SNSで安易に拡散される諸々。責任の放棄。利己主義の蔓延。

       

      名所などに『他所』から来て、『自分だけのルール』で振る舞う無礼。

       

       

      今の状況に歯止めは利かない気がする。どこまでも錯綜する精神状態。

       

      件の『おでんツンツン男』などは論外だが、それも紙一重にも感じる。

       

      年齢だけ経るだけで『意識』『認識』のあり方がごっそり抜け落ちる。

       

       

      そのような人がどこにいるか。どこで遭遇するか。危険は隣り合わせ。

       

      そんな社会状況の混沌を加速させるのは、『家族』のあり方だろうか。

       

      いじめを始め、『学校だけに責任を向ける』ことでは何も変わらない。

       

       

      生まれ育つ『家族』『家庭環境』『親の心得』などが社会の入り口だ。

       

      すでに『自分のことは棚に上げ、責任を他者に向ける』しくみがある。

       

      それに『親』はどう真摯に向き合うのかが、傍観者には見えて来ない。

       

       

       

      かつて友人とファミレスで食事をしていた時に子供が騒ぎ回っていた。

       

      堪り兼ねたボクは、その子供を叱ったのだ。乱暴に感情ではなく、だ。

       

      すると、その親が言った。『ほら、おじちゃんに怒られるでしょ』だ。

       

       

      おじちゃんはいいとして、『怒ってねえよ、叱っているんだ』となる。

       

      更には、『他人に怒られるから』との『自分発信でない』責任転嫁だ。

       

      親である自分が『きちんと躾けて、叱る』ことの大切さを捨て去れる。

       

       

      案の定、親同士はすぐにお喋りに興じて、子供はまた騒ぎ出す始末だ。

       

      すべてではないにしても、このような『家族のあり方』に見えるもの。

       

      核家族のせいにしてはいけない。子を持つ自覚のなさを露呈する未熟。

       

       

       

      家庭も持たずに、子供もいない自分は傍観者だからこそ透けて見える。

       

      ゲーム興じをスタートに、画面の中の世界で『空気感』を捨てた社会。

       

      自分でないあり方や会話の間合い等、『他者への想像』を持つ大切さ。

       

       

      人としての『躾』を蔑ろにするのは怖いことだ。三つ子の魂、百まで。

       

      3歳までをどのように過ごし、感じるかで、人間形成の基礎が出来る。

       

      ただ『可愛いがる』だけでなく、『そこに愛があるか』を見つめ直す。

       

       

      言葉にすれば、実に曖昧で実証出来ないなら、それは『愛』ではない。

       

      自分を培ってきた、他者に支えられて来た、あらゆる『感謝』の印を。

       

      惜しみなく、苦にせず、示すこと。厳しくも、暖かい。想いと心遣い。

       

       

       

      昨晩、絶望に苛まれ、眠れずにいる自分と対峙した。自分の甘さゆえ。

       

      身体的な苦しみと共に、今ある自分は『絶望している』から存在する。

       

      などと痛感した。絶望する前に、心を動かせ。と今日も一日が始まる。

       

       

      東京大改革。言葉で言う程簡単じゃない。簡単でも安易でもないのだ。

       

      でも、『声を出すこと』『動いてみること』への意識を持つことから。

       

      その『声』に疑念も持ちつつ、その『動き』に誤りはないか確認する。

       

       

      すべては足許。立ち位置。姿勢。始めの一歩。どれも疎かに出来ない。

       

       

      社会を作るのは、何者でもない。各々の『家族』であるように思える。

       

       

      自分への戒めでもある。誰かのせいにしている内は、何も変わらない。

       

       

       

       

       

       

       

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      柔らかくなる心に人は救われる

      2016.04.23 Saturday 04:30
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        日々学習。などというと、何だか嘘っぽく響くだろうか。


        でも、ボクは、年齢を重ねる毎に、そう感じてやまない。


        人は、愚かな生き物である。と乱暴にも言ってしまおう。



        愚かさ故に、『軋轢』を生み、『争い』を繰り返すもの。


        世界中で、『紛争』がなくならないのが、証しでもある。


        そういう、自分も一個人として、たいして変わりはない。



        徒に『怒り』『憤り』などを抱えて、人を信じなくなる。


        負の要素。『恨み』『妬み』『嫉み』などに翻弄される。


        今一度、自分を省みて、他人のことなどは何も言えない。



        こんな愚かな自分であっても、生きる上で必要とされる。


        今まさに、母はボクを頼りに、すべてを委ねているのだ。


        介護、と言えば、何だか体裁がいい。あまり好きでない。



        便宜上、そういう言葉しかないから使う場合があるのだ。


        実際には、人は老いるし、病気にもなる。自然の摂理だ。


        お互い不足している部分を補い合うのが人間関係になる。



        ボク自身も病気を抱えて、人として機能しない時がある。


        そのような時には、自分も助けられていると実感をする。


        欲しがることをヤメた時に、慈しみが生まれたりもする。



        ボク自身は、心から母を想い、愛しく慈しんでいるのだ。


        親だから。家族だから。などという概念は持っていない。


        子供の頃は、厳しい母が大嫌いで、内心、憎んだりした。



        だが、今はとても愛おしい。人の『命』を教えてくれる。


        たとえ、自分が辛くても、お互いに想い合う心が大切だ。


        人を想えば、心は柔らかくなり、負の要素さえ凌駕する。



        今の暮らしの中では、親子逆転しているかの如く感じる。


        昔、言われていたことを同じように、ボクが口にしたり。


        『もう少し、野菜はきちんと食べなさい』などと、言う。



        それは、その人のことを想っての言葉だと今に知るのだ。


        昨今、親が我が子を虐待したりすることが目立つようだ。


        そこに、『人を想う心』が失われた痛みを感じてしまう。



        誰のせいでもない。社会のせいでもない。己のみぞ知る。


        不満を口にする前に、まずは、自己対峙する勇気を持つ。


        ボクは、世の為には無能である。だが、生き続けるのだ。



        一人でも、自分を必要としてくれる人がいる限り生きる。



        キレイ事などでは生きていけない状況だからこそ感じる。



        心が柔らかくなることに、自分自身が救われるのである。




         
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        愛、はどこに捨てて来たのだろう

        2014.11.26 Wednesday 09:59
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          いったい『愛』はどこに捨てて来たのだろう?或は、最初からなかったのか。



          そう思えるようなことを平気で出来る人のことを、よくニュースで聞くのだ。



          幼児虐待。この世に『生』を授かって、『感謝』も出来ずに感情で虐待する。




          食事を与えなかったり。自分の感情で殴る、蹴る。『命』への冒涜そのもの。



          挙げ句には、尊い命を奪っておいても、罪悪感さえ持ち合わせていないのだ。



          すべては『自分中心』で生きる人。もはや、『愛』などは介在してはいない。




          ボクは、人が好きだ。人が生きることに、自らの『生』を感じることがある。



          別にキレイ事じゃない。今現在、ボクはほぼ誰とも関わりのない生活をする。



          母以外の誰とも言葉を交わさない日々の中。たった一人の人でも愛しくなる。




          生きることの99%は苦しみで出来ている。なのに、ボクは生きるのが好き。



          それは、誰かが『笑顔でいてくれる』こと。たったそれだけでも励みになる。



          眉間に皺を寄せ、苦しみに耐える。人知れず、血反吐を吐きつつも、笑える。




          人は、あらゆる動物の中でも、『笑う』ことが出来る唯一生き物だと感じる。



          感情豊かであり、泣くことも、笑うことも、怒りや哀しみと同時に持つのだ。



          出来ることなら、少しでも、多くの人が『笑顔』でいられるように、と願う。




          ボクには子供がいないけれど、子供が大好きだ。『未』を多く、秘めている。



          この世は『知らないこと』で満ちている。それを発見するのが『生』になる。



          何かを知る度に、『知らないこと』が増える。成長は、未熟の確認に繋がる。




          それは、とても『愛しい』こと。もし、子供が育つのなら、それは親でない。



          子供の成長は、人が親にさせてもらい、一緒に成長させてもらっていること。



          子供によって親になるように、人は、人によって『生かされている』だろう。




          先日も姪っ子が子供を連れて我が家に顔を出した。日々成長するのが子供だ。



          それが『目に見えて、判り易い』ということ。大人が成長しない訳じゃない。



          我が子でなくても、それを『愛しく』感じ、その『笑顔』に生気を頂戴する。




          人を育むのは、社会であり、環境であり、人であるのだが、実際は、自分だ。



          自分が『どう感じ』『どう咀嚼し』、自分の中に『どう取り込む』に思える。



          事象、そのものではなく、それにより、自分がどのように試されているかだ。




          セックスをすれば、『命』が生まれる。これより深いものがあるのだろうか。



          そこに、『愛』はあるのか。『自分のための愛』ではなく、『無償の愛』だ。



          これだけあげたのだから、これだけよこせ。それは決して愛じゃないだろう。




          30数年前、ボクはウツの苦しみの中、常に『死』について考えを巡らせた。



          ある日、母が寝込んでいるボクに目覚まし時計をくれたのだ。なぜかくれた。



          ボクは焦燥感に苛立ち、衝動的にそばにあった、その時計を投げつけたのだ。




          それは机の角に当たり、見事に壊れた。その瞬間、激しい自責の念を持った。



          物である時計は簡単に壊れる。だが、それをくれた母の気持ちを壊したのだ。



          形ある物はいつかは壊れる。だが、ボクは物でなく、母の『想い』を壊した。




          なんてことのない、何十年も前の小さな出来事だが、それは鮮明な心の記憶。



          意識として、物を通して初めて『人の想い』を自分の中で覚醒したのだろう。



          自分が『人間である』ことで苦しみも抱えるのなら、『生きたい』と思った。




          人の『想い』は、形ではなく、目に見えない何か。余計に、見失い易いもの。




          だから、ボクは今、この瞬間にも『心の目』を閉ざさないよう自己対峙する。




          怠惰に、都合良く、物事を解釈してしまうのが、自分という人間なのだから。









           
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          恋することは、美しきかな

          2014.08.08 Friday 16:26
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            『恋は、自分のためにある』



            『愛は、相手のためにある』



            なんて、言葉にすると、実に陳腐だ。



            だが、ボクは漠然とそう思っている。




            恋する気持ちは、自分の中で自己完結し、心躍る『トキメキ』を生む。



            愛することは、相手を想い、自分の中に自ら生む『慈しみ』だと思う。



            それがどうした。と言われれば、『どうもしない』戯言でもあるのだ。




            今はさっぱり思い出せないくらい長い間、ボクは『恋』をしていない。




            女性がいれば、いつでもボクは恋をしていた。胸がキュっとしていた。



            その笑顔に。その仕草に。その言葉に。その香りに。その女性たちに。



            ただ、胸が熱くなるだけで、幸せな気持ちが心の中に満ち溢れてくる。




            今までに『恋した人』のことは、ずっと『好き』なままであり続ける。



            片想いで終わっても、惨めな振られ方をしても、嫌いになどなれない。



            心の中には、『好きな人』の記憶が、鮮明で色鮮やかに息づいている。




            ただの理屈であるにせよ、『記憶』は『想い出』でなく、現在なのだ。



            時間と共にセピア色に美化されていく『想い出』もあったりするもの。



            ただ、鮮明な『記憶』は、今でも心の中の時空は、現在であり続ける。




            ふとした瞬間。記憶が震えて、あの頃のままボクを夢心地にするのだ。



            まさに、『恋することは、美しい』、と肯定的に自分の中で匂うのだ。



            恋をしている瞬間に漂う目眩のような匂い。香しい程の『至福感』だ。




            恋した女性たちが、この瞬間も幸せに過ごしてくれていたら、嬉しい。



            それは、『恋』であり、『愛』でもある。言葉は、いつでも足りない。



            伝え切れなかった『想い』が、そのまま『愛』に昇華されたのだろう。




            穏やかな気持ちになれる時、誰かが笑顔でいいられることに感謝する。




            今現在、久しく恋をしていない自分には、遥かなる想いでそう思える。




            この世に女性がいるから。恋することの素晴らしさを感じるのである。









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            一緒に暮らす、家族にしか判らないこと

            2014.05.28 Wednesday 05:53
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              某有名俳優が亡くなった葬儀で、長男が挨拶で父を批判するような発言をした。



              父のことを『人としては最低だった』と。だが、それには、付随する補足もあった。



              そのことに関し、その俳優と親交のあったデヴィが自身のブログで発言したらしい。




              常識に欠け、批判や否定など言いたい放題のその夫人は、長男の人格を否定した。



              そのことは、ボクにはどうでもいいことだ。昨今、『よくあること』でしかない。



              だが、『家族にしか判らないことがある』『他人が口出しするのはどうか』と思った。




              どこの家族にも、一緒に暮らしていれば、多かれ少なかれ大小の問題はあるだろう。



              外からは見えないこと。家族以外には判らないこと。それがあるのは、当然だろう。



              それを配慮せずに、他人が『言いたいことを主観で言う』はどうかとボクは思う。




              ボクの父は、外での人格と家庭内での人格が別人のようであり、最初の謎だった。



              外では、愛想よく、見栄っ張りでお調子者だった。喋り出すと止まらないくらい。



              だが、家では、常に仏頂面で不愉快なことしか口にせず、重い空気を放っていた。




              ボクは、幼い頃から褒められたことがなく、何事においても、貶され続けてきた。



              物心ついた頃から『お前はダメだ』と言われ続け、叱ると言うより怒鳴られていた。



              感情的に『だから、お前はダメだって言うんだ』と何をしても貶すことしかしない。




              それでボクは幼い頃から神経症になった。家族で出掛けることも不安しかなかった。



              父は車の免許を持っていなかったので、外出はいつも電車だったから余計辛かった。



              ボクは、自律神経失調症で何度もトイレに行きたがるようになり、怒鳴られ続けた。




              もう、小学生になった頃には『生きることがイヤになっていた』と鮮明に記憶する。



              何に対しても無気力な少年だったボクが、ビートルズに衝撃的な出逢いをしたのだ。



              それを境に、音楽の虜になり、小学5年生の頃からエレキ・ギターに憧れを持った。




              駅前のレコード屋兼楽器店に通い、憧憬の眼差しで、ボクの瞳は輝いていたと思う。



              こつこつと親戚にもらったお年玉を貯め、1万円もしない安物のギターを買おうとした。



              勇気を出し、ボクは父の許しを請おうとその旨を伝えると、無言のまま拳で頬を殴らた。




              土下座をして泣きながら謝るボクの腹を蹴り上げて、母が止めに入るまで蹴られた。



              その出来事をきっかけに、ボクは無気力になり、父を心の底から憎むことになった。



              バイトをして貯めた金で、7年後ようやくボクは念願のエレキ・ギターを手にした。




              そして、その直後に、我が家における交通事故に巻き込まれる大事件が起きたのだ。



              その時にも、父はボクを罵倒した。精神的にショック状態の息子を罵ったのである。



              最悪の状態の中、ボクは心身症やウツ病を抱えても、父はそれを『否定』したのだ。




              ボクは長い時間を掛けて『自己再生』をしつつ、父と向き合うことを試みたりした。



              冷静に『対話』をすることをしたが、それにも聞く耳持たずに、ボクは否定され続けた。



              病気で何も出来ない頃には、『人間のクズ』と罵られたりして、病気が悪化したりした。




              何十年も経ち、父が病で倒れた時には、自分の中での葛藤を払拭することを試みた。




              最後の1年くらいは、ボクと母は、身を粉にして、父の看病と世話に全力を注いだ。



              死ぬ数週間前に、喋るのもままならない父が、始めてボクに感謝の言葉を口にした。



              病院のベッドの上で延命措置を受ける中、『お前に任せれば安心だ』と言ってくれた。




              その瞬間に、ボクは何かを覚悟した。『許す』とかの問題じゃない。説明は無理だ。



              家族を翻弄し続けた『暴君』だった父は、特に母には相当の苦労を掛けたと思う。



              それを証拠に、父の死の前後に、母はまるで別人のように変わり、病に倒れたのだ。




              何がどう、と言うのじゃない。そういうことは、一緒に暮らした家族にしか判らない。




              親戚や知人は、言いたいことを言う。ボクも母もそれらを聞き流すことにしている。




              暴君として、家族の中心に存在した父を失って、母とボクとの家族再生が始まったのだ。





              母は昨年末に一度死にかけたが、今は生きる力を取り戻し、ボクはその手助けをする。




              ボク自身も病気を抱え、母の病気は年齢的に完治は難しい。困難なことに変わりない。




              余計な雑音に惑わされないよう、今は肯定的に雑音を遮断するような生活をしている。





              家族にしか判らないこと。だからこそ、社会の入り口である家族は大事だと思える。









               
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              愛は捧げることにより生まれる

              2013.05.16 Thursday 00:55
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                ボクは『愛』について語るつもりはない。それは、語るものじゃないと思えるのだ。



                それでも『愛』を自分の中で大切にしたいからこそ、敢えて言葉に置き換えてみる。



                言葉は拙い。置き換えたところでどうなる訳でもない。大切なのは、目的じゃない。




                ボクは、誰かに『愛される』ことより、誰かを『愛する』ことにすべてを捧げたい。



                誰かに『愛されたい』と望むことは、自分の問題であり、それは『甘え』に感じる。



                そもそも『たい』って願望だ。『愛されたい』も『捧げたい』も願望には違いない。




                ボク個人の貧しい経験からすれば、『愛』とは、自分で生み、育てるものだと思う。



                道端に咲く花を見て、愛しいと思う。これだけでも、心に愛は生まれると実感する。



                見過ごせば、その花の存在など気付きもしないで済むものだ。見つけるかどうかだ。




                そうして、自分の中で生むことのなかった『愛』はたくさんあると最近思えてくる。



                人は、一人では生きていけない。経済的に実質的に一人で生きても、一人ではない。



                あらゆる関わりの中で、見えないところで、人に支えられて、人と共に生きている。




                それなのに、ただ寂しいとかで『愛』を欲しがることがある。叶わないと心は荒む。



                たぶん、『愛』は欲しがるものじゃない。これは、因果応報で、欲しがれば逃げる。



                自分の心に愛を生み、育てて、人にそれを届けることで、巡り巡って、自分に還る。




                人を愛すると、心が暖かくなる。たくさん愛を育てて、捧げることでまた生まれる。



                その見返りを求めてはいけない。無償の愛と言えるのか、それが愛だと思えるのだ。



                これだけあげたのだから、これだけよこせ。そう思うことは、愛じゃない気がする。




                昨年、姪っ子に子供が生まれた。ボクは、ありったけの『愛』を彼に感じてしまう。



                ただ、ただ愛しくて、涙が出そうになる。子供の瞳は澄んでいて、とてもきれいだ。



                その瞳に邪念を見透かされないような人でいようと思う。小さな命が育つ尊さ、だ。




                何かの巡り合わせで、ボクは自分に子供はいない。妻もいない。でも愛は生まれる。



                誰の子供であっても、健やかに育つことを願う。試練も受け入れて乗り越えて、と。



                街中で擦れ違う幼い子供を見ると、ボクは笑顔になる。二度と会わないとしてもだ。




                ボクは、今まで素敵な人を愛して、その愛を深め、捧げてさせて頂いて幸せだった。



                38歳の時に出逢った女性に一方的に愛を捧げた。彼女はボクを愛していなかった。



                それでも『あなたからもらった愛は宝物です』と言ってくれた。本心でなくていい。




                その女性に『愛』を捧げていたつもりでも、本当は、『愛』を教えてもらっていた。



                傷つき易く、言葉よりボクの肉体を欲しがり、肌と肌を重ねる度により深まる何か。



                セックスの素晴らしさをお互いが捧げ合い、大切なものを多く発見したのは真実だ。





                今どこで何をしているのか知らない。幸せでいてくれると嬉しいと、この空に願う。



                ボクは、彼女の時折見せる無垢な笑顔が大好きだった。愛をもらったのはボクの方。



                出逢って4年後きっぱりさよならをした時に書いた彼女の絵に、今も笑顔をもらう。




                それは未練なんかじゃない。むしろ、その逆だ。『永遠』ってある気がするボクだ。










                 
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