休みたい、なんて言えやしない

2018.05.26 Saturday 01:41
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    やれ『言った、言わない』とか、『解釈の違い』とか、弁解に弁解を重ねる輩が、昨今、多い。

     

    安倍や麻生。一体何をやっているのか。国を動かせる立場に居座り続け、底知れぬ混乱を生む。

     

    アマチュア・スポーツ界にまで『嘘』や『保身』などが横行し、誰もが失望をしているだろう。

     

     

    この世に『真実』というものがあるのか。それは『神のみぞ知る』で片付けていいのだろうか。

     

    この情報社会。『何が真実』で、『何が嘘』なのか。なんて、もはや、語るに及ばないようだ。

     

    事実が捻じ曲げられ、あったことがなかったことにされ。なかったことがあったことにされる。

     

     

    子供たちは外に心も目も向けることなく、室内で『内に、内に』視野を狭める傾向にも感じる。

     

    言動で、その生き方や生きる姿勢を見せるはずの大人が、彼らを誤った方向へ導いているよう。

     

    ネットが悪い訳じゃない。スマホが悪い訳じゃない。物事との接し方を示せない社会の責任か。

     

     

     

    人の話をきちんと聞くことが出来ない人が増えたように思えるのは気のせいじゃないと思える。

     

    自分だけのルールの、根拠ない判断で、常識とか規律とかを捨て去ることが出来てしまうのか。

     

    心を一切通すことなく、頭だけで一瞬にして『キレる』ことの恐怖がどれだけの人を陥れるか。

     

     

    人の命を奪うことは簡単だからこその、命を大切にしなければいけないことが抜け落ちている。

     

    今の世のペット事情は知る由もない。でもかつて子供たちは虫や動物の命に触れ命を知り得た。

     

    命の大小に関わらず命あるものは必ず死ぬ。それに触れる上で『何をどう感じるか』の大切さ。

     

     

    姪っ子は『面倒が見られないから』という理由で、生き物や植物の生活への介入をしていない。

     

    そこで育った幼い子供は、ボクの飼っている生き物を見て、『気持ち悪い』と言って逃げ回る。

     

    母の可愛がっている『カナリア』の鳥かごに体当たりして倒しても、悪いことだと思ってない。

     

     

     

    ボクの子供ではないので、別に叱ったりはしない。意見することなどお節介でしかないだろう。

     

    すべて『個人の価値観』で片付ける社会のようだ。今は他人に口出しすれば、煽りを食うだけ。

     

    ボクは『価値観』なる言葉は控えたい。『価値観』の捉え方も人それぞれなのだから使えない。

     

     

    よく『十人十色』と言う。『観念』も人それぞれなのが前提なら、言葉の選択には慎重になる。

     

    人との会話で『あなたの言うことは間違いだ』と言われたら、それでお終いになる。疎通なし。

     

    会話で一番大切なのは、『聞く力』だと思う。まず聞くことが最初で、そのあり方を認識する。

     

     

    色々な観点から『咀嚼』をして、自分の中の語彙から導く『自分の言葉』を提示させてもらう。

     

    語彙は生きる中で自分自身で育むものだとしたら、人それぞれの責任に委ねられるものだろう。

     

    何やら『論破』というやり方で相手を黙らせる人がいる。昔の友人にいた。言い負かしたいと。

     

     

     

    宗教や宇宙や精神世界など、ちょっと偏ったとも取れる本を読み漁り、自己肯定に躍起になる。

     

    人に言い負かされることが悔しいらしい。ボクが何を言っても『否定』される。それでお終い。

     

    もはや、会話にもならない。相手が感情的になり、不穏な空気になりボクは宥めることになる。

     

     

    やがて彼は新興宗教に走り、ボクに暴言を吐いて縁が切れた。あの気分の悪さは忘れられない。

     

    そのような人との関わりが特殊だとは思わない。ボクにとっては、色々と学ぶことが多かった。

     

    それでも昨今、絡んだ糸も放置されたまま、『隠蔽』『攻撃』など悪しき行為が増える一方だ。

     

     

    ボクはすっかり『テレビ』を観なくなった。それは『娯楽』ではなくなった。日々、見苦しい。

     

    社会全体が急激な変化について行けなくなっている様を滑稽に映し出す。情報だけが拡散する。

     

    私利私欲にまみれた『憎悪』も、懐に入れ逃げたもん勝ちで、次の話題に取って代わって行く。

     

     

     

    行政も立法も司法もバランスを崩したら、裏で何が行われているか。国民の関心も薄れて行く。

     

    誰がどんな嘘をついているのか。一つの嘘が次の嘘を生み、その嘘を嘘で潰して、の繰り返し。

     

    それをテレビでは、『持論』とやらで誰もが言いた放題。そんなものを見せられても、なのだ。

     

     

    昔の時代劇のような『勧善懲悪』など、滑稽な喜劇にも感じられ、もう考えることに疲弊する。

     

    でも現実問題として、日々追い込まれる庶民には切実な問題を制定する国の動向は影響がある。

     

    これには、抗えない。身近な話では、毎年のように『介護』の諸々が改定され、訳が判らない。

     

     

    介護の現場では、ただでさえ人材不足な上に、把握するだけで大変な作業をさせているようだ。

     

    この5年間で、母のケアマネージャーが3人変わった。訪問看護など値段改定で恐縮している。

     

    書類の山が、父の仏壇の上に100枚以上積まれている。さぞ、父も重いと感じているだろう。

     

     

     

    もう何かを望んだりはしない。でも、せめて少しでも『安心』の入る余地が欲しいと切に願う。

     

    時間軸も生活もギュウギュウ詰になり、許容を超えた『毒』が心身を蝕む。日毎、弱って行く。

     

    誰かに許しを請うことは出来ないのは承知の上、言葉だけでも『休みたい』と声にしてみたい。

     

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    後悔のない死へ向けて生きている

    2018.05.22 Tuesday 12:55
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      ボクは生まれて生きている間のほぼ99%は『健康』とか『娯楽』とかと無縁であるようだ。

       

      母のお腹の中で『子供か母親、そのどちらも助からない』可能性を医師に宣告されたそうだ。

       

      母が重い妊娠中毒症になり、未熟な状態で予定より早く生まれ、親子で入院していたらしい。

       

       

      そのせいか、ボクは、小さく痩せて、幼少期から体が弱かった。年中熱を出したりしていた。

       

      予定日が4月だったのを3月初旬に産んだことで、同い年の子と比べ、すべてで遅れていた。

       

      幼馴染の忍ちゃんは、前年の4月生まれで、同じ学年なのに、お姉さんと弟みたいに違った。

       

       

      それに起因しているかは判らないが、体調不良を無理に我慢し、保健室の常連になっていた。

       

      物心ついた頃から自律神経失調症で、外、自宅以外では食事も出来ず、睡眠も取れなかった。

       

      修学旅行などは地獄のようだった。中学の林間学校では熱を出し、登山出来ず寝込んでいた。

       

       

       

      食も細く、好き嫌いも多く、給食の時間後の昼休みも残され、教師に食べるよう強要された。

       

      病弱だからこそ、我慢することが常だった。39度の熱で這うように中学に行き、倒れたり。

       

      社会に出てもそれは変わりなく、他人に悟られないよう『無理』をすることが習慣になった。

       

       

      19歳の時の、不運な事故に遭遇した後も、学生と主夫を掛け持ちし、心身ボロボロだった。

       

      元々社会に適応出来ないのに、社会復帰してからの方が大変だったと今しみじみ思い起こす。

       

      無理と我慢を続け、働けなくなった。人は比べられない。ボクが甘いだけなのかもしれない。

       

       

      離職後、10年弱入退院を繰り返す父の死と入れ違いに、母が倒れて、途切れない介護生活。

       

      自分自身も病気を抱えて日常生活もまともに出来ないままの介護は、想像を絶していたのだ。

       

      生活に支障のある人間関係は、止むを得ず断ち切るしかない。人との関わりが一切なくなる。

       

       

       

      生きている間の苦しみや辛いことばかりはっきりと覚えていて、『楽しい』は薄れ行くのみ。

       

      恋愛経験もなく、『結婚をしてはいけない』人間だと思っていた。それ以前に『縁』もない。

       

      そんなこんなで、ここ十数年、数々の総合病院でどれだけ『検査』したか。色々あり過ぎた。

       

       

      大量の血液検査、レントゲンもMRIもCTもエコーもたくさん受けた。具体的に何も判らない。

       

      身体中に力が入らなくなり『神経内科』で『ギランバレーの可能性』と曖昧な診断もあった。

       

      喘息の発作で夜中にステロイド点滴を受けたり。激しく低下する体力は精神力でカバーした。

       

       

      まあ、何で苦しみしかないのに生きているのか。なんて、考えると混乱するだけだと思える。

       

      気がつけば自分もそれなりにいい年齢になり、『死』について多角的に考えることが増えた。

       

      自分の中では、『死の準備』と称して、『いつ死んでも悔いは残さない』ように生きている。

       

       

       

      幸いなのか、ボクは家庭を持っていないし、子供もいない。そういう意味では荷は軽減する。

       

      死生観や宗教的な発想はある頃に捨てた。葬儀もいらないし、墓に入らなくていいとも願う。

       

      この世に、ボクは『存在しなかった』ことにしてくれたなら、とてもありがたい、のである。

       

       

      生きることは『時間』の積み重ねだ。時はやってくると同時に去って行く。永遠、繰り返し。

       

      忙しく過ごそうとのんびり過ごそうと、時間は皆、平等。だからこそ生き方が大切に思える。

       

      生きれば生きる程に、生命の素晴らしさを知る。苦しみもその一部に捉えらればいいことだ。

       

       

      生きることにおける『時間的概念』なんて答えはないもの。長生きがいいとも思っていない。

       

      ボクは忍耐だけは強い。気を失う寸前まで、平然を装える。自慢にもならないことが自慢だ。

       

      座右の銘など大それたものはない。敢えてカッコつければ『人に優しく、惜しみなく愛を』。

       

       

       

      このような『戯言』ばかり言うだけなら、誰かを傷つけたり、貶めたりはしないと思うのだ。

       

      だから、ボクは、戯言でもいいから、『愛』だけはいつでも見失わないように生きていたい。

       

      自分に出来ることは『惜しみなく』やりたいし、それに感謝し、死ぬ時に、悔いを残さない。

       

       

       

      そういうことを冗談ぽく母に笑顔で言うと、『そんな悲しいことは言わないで』と言われる。

       

      ある人に『もういつ死んでもいい』と言ったら、『長生きしてください』と優しく言われた。

       

      ありがたいことだ。こんな人間に『言葉をかけてくれる』のだ。ただただ、感謝するのみだ。

       

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      ゴミになる物をまだ大事に取ってある

      2018.05.12 Saturday 08:35
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        それは、昨年の秋のこと。ボクは山手線の主要駅に繋がる私鉄のホーム、担架で運ばれた。

         

         

        山手線の大きな駅には、多くの私鉄が放物線を描くように乗り入れている。

         

        その内の一つの私鉄沿線に住むボクは、その大きな駅に向かっていたのだ。

         

         

         

        幼少期から抱えていた自律神経失調症が、心的外傷後ストレス障害により悪化した。

         

        それで『心身症』や『うつ』などを抱え、特に『不安障害』に苦しむようになった。

         

        普段と違うこと、特別なことなどを行う際に、急激な激しい下痢や吐き気を起こす。

         

         

        同時に、『適応障害』も抱えているので、もう『何がどう』って説明のしようがない。

         

        特に、どこかへ公共の電車やバスなどを利用して出かけなければいけない時に起こる。

         

        プライベートな環境の自家用車で出掛ける時には、まったく『平常』でいられるのに。

         

         

        出掛ける際、『電車に乗らなければいけない』と思っただけで、モノの10秒も掛からず起こる症状。

         

        その瞬間まで何でもなかったのに、急に水のような下痢を繰り返し、同時に吐き気が止まらなくなる。

         

        涙を流しながら、えずき続け、時には嘔吐する場合もある。それが更なる『予期不安』を呼び起こす。

         

         

         

        それは、会社での人間関係で悪化した。会社を辞める前の数年間は地獄のような通勤を余儀なくされた。

         

        1日平均乗降者数が日本一、350万人という新宿駅が会社の最寄駅であり、まさに地獄へ通っていた。

         

        時には、無数の人が行き交うホームの端に横たわっていたこともある。誰も知らない顔して通り過ぎる。

         

         

        父が倒れ、死に、母が倒れ、介護に追われる日々の中。それらの症状は更に悪化の一途を辿った。

         

        で、ここ数年、母がかなり回復し、週1回デイサービスに通うようになり、ボクはリハビリをすることにした。

         

        で、昼間の空いた時間帯に電車に乗って、私鉄の終着駅である、とある都心の大きな駅に向かう。

         

         

         

        途中でダメなら、引き返すこともあるが、何度も途中下車したりを経て、徐々に耐性も出てきたりしていた。

         

        ところが、昨年の秋のある日。電車に乗った途端に、不意に『得体のしれない不安』に襲われたのだ。

         

        次第に気分が悪くなり始め、それでも扉脇の一番端の座席に座っていたので、耐えて見ることにした。

         

         

        だが、何度も吐き気を堪えることを積み重ねてきたボクでも『どうにもならない』くらいに苦しくなった。

         

        終着駅までは後3、4駅になった処。『急病人が出た為に緊急停車します』というのだけは避けたかった。

         

        必死に堪えたが、最後の駅を出たところで、堪えきれずに、ボクは床に倒れ、半ば意識が朦朧としていた。

         

         

        すると、目の前にいたスーツ姿の営業のような若い男の人が『大丈夫ですか?』と声を掛けてくれた。

         

        そして、その人の部下らしい若い女性が自分の鞄からペットボトルの水を手渡してくれた。

         

        数十秒だったのだろうが、ボクには永遠に終わりないように感じた中で感謝の言葉を何度も言った。

         

         

        で、終着駅に着いたらすぐにその男の人の『駅員さんを呼んできますから安心して下さい』と声を聞いた。

         

        側には、水をくれた女性がいてくれた。他の乗客の靴は、ボクを避けるように目の前を通り過ぎて行った。

         

        やがて、意識が遠のきそうな状態で担架に乗せられてユラユラ運ばれ、気付いたら駅員室のベッドにいた。

         

         

        駅員が事務的に『救急車呼びますか?』と聞いてきたが、『たまにあるので、少し休めば大丈夫です』と答えた。

         

        自分のことは自分が何度も経験しているのだ。『これくらい、大丈夫』と余計に面倒になることは避けたかった。

         

        女性のくれた水で頓服薬を飲み、1時間半くらい横になっていたら、何とか歩けるくらいに回復したので帰った。

         

         

         

        こんな『東京砂漠』にも、『いい人』はいる。ボクは感謝しても仕切れない程に声を掛けてくれた人に感謝した。

         

        何とか家に戻れた途端、『安心』を手にすれば、すっかり回復する。それが『不安障害』の厄介なところである。

         

        誰とも知れない人の誠意に触れて、手渡してくれた『南アルプスの天然水』のペットボトルを今でも持っている。

         

         

        ボクは、人の『誠意』や『悪意』などの『言葉』『行動』は『その人がどう生きてきたか』の具現だと思っている。

         

        日常のほんの些細なことであっても、人は常に『自分を表現している』ことで、『人柄』が見えたりするものだと。

         

        世の中には『いい人』もいれば、『悪い人』もいる。でも人を『いい、悪い』だけで単純に区分するものじゃない。

         

         

        そのどちらでもない『普通の人』が圧倒数を占めているようにも思っている。あらゆる事象でそれは顕著に見える。

         

        まあ、そんな話はどうでもいいことだ。ボクは『自分がいい人か、誠意があるか』を常に気にしている訳ではない。

         

        肝心なのは、日々刻々あらゆる選択によって、『人は試されている』と感じながら、瞬時に自分を示すようにする。

         

         

        それをあの秋の日の出来事で再認識しつつ、ボクはそのペットボトルを捨てられずにいる。たかが物されど物、だ。

         

        人は特に現代社会においては、生活の中で絶えず『ゴミ』を出し続けている。それは留まることを知らないようだ。

         

        ボクも日々、ゴミを生み出す人間である。でも、ゴミになる物であっても、ほんの些細な『誠意』を捨てられない。

         

         

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        油断していたら、また堕ちてしまった

        2018.05.10 Thursday 12:52
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          精神的にも肉体的にも、ずっと不調続きで、この十数年間気分が晴れる瞬間がまったくない。

           

          それに慣れるということもない。辛さや苦しさには『いいこと』など一つもないものである。

           

          だが、慣れなくても、いいことがなくても、そこから『何かを感じる』ことはたくさんある。

           

           

          今も愚かに違いないが、今以上に愚かだった頃には、平気で友人に愚痴を言ったりしていた。

           

          でも『愚痴は所詮、愚痴』なのであり、相手が忍耐強く聞いてくれていることを忘れられる。

           

          それに愚かな自分は平気で『甘え』を手に入れていた。自分以外の人のことを考えていたか。

           

           

          一人、眠ることも出来ずに思考ばかりが巡ると、色々なことを思い出したり、思い返したり。

           

          今現在、ボクが誰とも関わりのない暮らしをしていることには、それなりの理由があるはず。

           

          テレビやラジオ。特にCMなどから、『幸せ』『家族』が目立って心の襞に入り込むようだ。

           

           

           

          家族も友人もなく、誰もとも関わりなく、日々やることに追い込まれ、問題は山積する一方。

           

          何が『幸せ』なのか。『家族』って何なのか。考えても意味がない。判らないものだからだ。

           

          なのに、心のどこかでは、そういうものに対する『喪失感』をいたずらに抱えていたりする。

           

           

          心身共に『力』が不足していると、踏ん張ることが出来ない。ふと油断したら、また崖の下。

           

          先日、ありったけの力を自分の中に集めて、少しでも平穏な場所に戻れるよう、登り始めた。

           

          でも、あっさりと足を踏み外して、また崖の下に堕ちてしまった。疲れて、半ば諦めている。

           

           

          体の不具合は治る気配がない処か、余計に悪化し、それを精神力で補い続けることに疲れた。

           

          楽になれるなら、楽になりたいが、それが『死』だとも思えない。宗教的発想は今は無力だ。

           

          曖昧な死生観も風に舞う枯葉のよう。人が死ぬことは実に簡単だ。簡単だから尊いのだけど。

           

           

          これは、ただの独り言だ。或いは自己確認。頭が痛い。頭痛だ。何が何だか。よく判らない。

           

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          ある内に、精いっぱい感謝したい

          2018.04.29 Sunday 05:05
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            ボクは、昨年末に、上の前歯が全部なくなった。

             

            突然、なくなった訳ではない。

             

            話は、30数年前に遡る。そこから、始まったことだ。

             

             

            ボクは19歳の時に交通事故に遭い、心身を喪失した。

             

            これを的確に表現することは出来ない。

             

            ボクの中では、『喪失した』との語彙しかない。

             

             

            2年以上にわたり、無理に無理を重ねて、ある日、ボクは壊れた。

             

             

            毎晩、夜中の2時頃に突然、吐いた。

             

            夕食を少しも消化出来ずに、吐いた。

             

            それを半年以上、毎晩繰り返し、体重は最高10キロ減に。

             

             

            元々痩せていたので、まさに、『骨』と『皮』だけになり、

             

            事故の後遺症もあり、筋力低下と共に、歩行困難にもなり、

             

            昼間は布団に横になったまま、天井を見つめるだけの日々。

             

             

            その間、『鬱』など諸々の不具合で、『廃人』同然だった。

             

             

            そして夜中、胃液が絶えるまで吐き続け、明け方まで続いた。

             

            それによって、歯、特に上の前歯が全部、胃酸で溶けたのだ。

             

            僅かに数本歯の根っこだけが残り、繰り返し差し歯のブリッジを作り替えた。

             

             

            だが、根っこも脆く、差し歯のブリッジ自体が危うい状態の不快な数十年だ。

             

            で、昨年末に、最後の2本の歯の根が割れて、差し歯が役に立たなくなった。

             

            いきなり、上の前歯全部。作り物とは言え、物理的にすべてなくなったのだ。

             

             

            入れ歯を作ったが、喉の方まで覆い、『嘔吐反射』が激しくて使えなかった。

             

            で、それから半年近く。ボクは、前歯のない状態で暮らしている。

             

            最初は、まともに喋れない。空気が抜けて、特に『さ行』の発音が出来ない。

             

            滑舌が悪く、何を言っているのか判らない、『フガフガ』爺さんみたいにだ。

             

             

            それが、悲しいとは思わなかった。

             

            今更、それがどうしたというのだ。

             

            上唇がポヨポヨ感じる程度の話だ。

             

             

            今では、唇の筋肉を鍛えつつ、空気漏れも少し改善した。

             

            だが、笑えば、歯がないのが一目瞭然。

             

            人を、髪が薄いとか、太っているとか、

             

            そういう見た目で判断する人は、あまり信用していない。

             

             

            ので、前歯こぞってなくても、見てくれなど気にする問題じゃない。

             

             

            歯医者によると、『胃酸』は簡単に歯を溶かしてしまう強い酸性で、

             

            特に女性など過食嘔吐で、20代で殆どの歯を失う人もいるらしい。

             

            同じ症状で前歯を失ったとの噂の、女優の『宮沢りえ』さんや『ともさかりえ』さん。

             

            彼女たちにとっては、商売に多大なる影響を及ぼすから大金掛けても治すのが正しい。

             

            でも、今のボクにそんな大金はないし、『そこ』にかける必要などまったく感じない

             

             

            だが不便に違いはない。不便さは切実だ。

             

             

            食事。これは人が生きる上でとても大事。

             

            食事を摂ることにおいて、単純に『歯』はとても大事な役割を担う。

             

            噛むことがままならなければ、胃腸への負担も増え、常に消化不良を起こす。

             

             

            更には、現実問題として、歯医者から色々と忠告を受けた。

             

            残った歯への負担も、少ない程に、1本に対する厚も増す。

             

            人は、寝ているときに多少は歯を食いしばったりしているらしい。

             

            きちんと生え揃っていれば分散される力も、残りに集中するのだ。

             

             

            現在、前歯も含めて永久歯9本の歯がなくなった状態。

             

            残りの歯も治療した被せ物とかで補い、丈夫じゃない。

             

            こりゃ、申し訳ない。ってことで、負荷を担ってもらっている。

             

            持ち堪えてもらうしかないけれど、踏ん張れ、歯たちよ、って。

             

             

            ともあれ、人は、死に向けて生きている。

             

            老化も避けられないし、退化もするし、なくなるものもある。

             

            それに抗って、不自然な状態を金で補うこともままならない。

             

            じゃあ、現状を受け入れるしかないだろう。

             

            そういうこと。

             

             

            なくなってから後悔するのは、自分の哀れを慰めるよう。

             

            ある内に、ありったけ『感謝』をすることだ、実感する。

             

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            雨上がりの匂いが好きだったりする

            2018.04.25 Wednesday 08:48
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              よく『止まない雨はない』なんて言うが、そういうのはあまり好きじゃない。

               

              だって、それは当然じゃないか。雨が永久に止まなかったらどうなるんだい。

               

              ってのを屁理屈って言うんだろうが、『格言』『常套句』のような言い回し。

               

              それが、どんな気休めになるのだろう。日常に活かせなければ、意味もない。

               

               

              などと、やさぐれている場合じゃない。やさぐれて言うのじゃない、そうだ。

               

               

              そう、今年になって、雨らしい雨が降っていない気がする。偏った天候気候。

               

              急に暑くなったり冷え込んだり、体がついていけない状態で、季節感もない。

               

              ボクは、雨が嫌いじゃない。時と場合によってはすごくいい。素敵だと思う。

               

               

              災害や農作物に影響を及ぼしたりするような極端な振り方の割合が増す傾向。

               

              人は、自然においては、ほぼ無力であって、どうにも抗えない悲劇が起こる。

               

              そのような観点から見る、『異常な雨』ではなく、ごく日常的な雨の話、だ。

               

               

              雨の情景は唄になる。人の心の機微や感情を投影しやすい『詩』になり易い。

               

              言葉に乏しい人が使うと『野暮』になる。そこに『物語』があるか、ないか。

               

              例えば、『雨の匂い』に違いがある。季節や時間や場所など、『色』に似て。

               

               

              夏の日の、突然の夕立のあの匂い。その雨上がりの、また独特な匂いも違う。

               

              ボクは、特別『臭覚』が敏感だ。タバコなど匂いは遠くからでも感知できる。

               

              その昔、学生の頃、眩い季節。女の子の存在が『臭覚』で判ったりしたのだ。

               

               

              女子の少ない大学で、例えば『あの角から女の子が来るよ』とボクは言える。

               

              すると、本当に校舎の角から女子生徒がやって来る。友人は驚き面白がった。

               

              特殊な敏感な臭覚の為せる技だが、誰にだって匂いに思い出があったりする。

               

               

              昭和の海水浴場。そこは、資生堂の『サンオイル』のあの匂いが夏の風物詩。

               

              物持ちのいいボクは、何十年も前の、使いかけの『それ』をまだ持っている。

               

              今でもオレンジ色の蓋を開けると、同じ匂いがする。当時の砂がついている。

               

               

              そのように、『匂い』というあり方を『心模様』を魅力的に活かしたりする。

               

              不意にやって来る雨の匂いに、遠い昔読んだ小説の世界が蘇ったり、素敵だ。

               

              それを読んだ当時の自分の心がまだ息づいていることに感謝したりもできる。

               

               

              その代表的な象徴として『雨と雨上がりの匂い』がボクの生活を活性化する。

               

              例えば、その昔、一人静かに過ごすことが好きな自分に、雨は友人のようだ。

               

              自分の部屋で一人でいても、寂しさを感じなくなって数十年。雨は落ち着く。

               

               

              この世にら『苦しみ』『辛さ』『痛み』という存在がある限り、工夫が必要。

               

              ただ徒らに『嘆く』ことの先に何があるか。心を固くしたりしてやいないか。

               

              心の柔軟性を失ったら、心は『嫌』なものを引き寄せるのを経験上、感じる。

               

               

              なら、『他人を思いやる』などと安易に言う前に、自分の活かし方の工夫だ。

               

              細やかな気遣いに工夫が不足していれば、逆に相手が気を遣うのではないか。

               

              一人で過ごす時間が圧倒的に多いボクは、人間関係で実際に学んだ気がする。

               

               

              今、窓の外では雨が降っている。先程、窓を開けその『匂い』を取り入れた。

               

              呑気な奴だ、と非難されても仕方ない。朝5時起きで諸々を済ませた後でだ。

               

              ほんの束の間の貴重な時間だ。人それぞれに暮らしは違う。いい訳じゃない。

               

               

              昨晩も苦しみを伴った醜悪な魔物の罠にハマる所だった。今も絶不調である。

               

              でも、それを嘆く前に、日々の習慣として想像と工夫を身につけかけている。

               

              先程、『雨の匂い』にボクは『心のマッサージ』をしてもらった。感謝する。

               

               

              雨。ご苦労される方々が多いだろう。サラリーマン時代に散々な思いをした。

               

              独り身のボクは誰の助けもなく、あらゆる困難をそれなりに経た後のボクだ。

               

              ただ、呑気に御託を並べることは避けたい。でも、雨も時には素敵、なのだ。

               

               

              ボクの好きな『雨』の唄は、枚挙にいとまがない。今聴きたいのはこれかな。

               

               

               

               

              イルカの『なごり雪』の作者『伊勢正三』と提供された『イルカ』それぞれに素晴らしい。

               

               

               

               

              イルカの唄を損なうような映像だが、オリジナルのイルカ・ヴァージョンはこれしかない。

               

              残念・・・だが、作者なりの思い入れなのだろうから、申し訳ないが目を瞑って聴こうか。

               

               

               

              電流のように流れて記憶の奥から目覚めたこと。それは、高校2年の時だった。

               

              友人と3人で横浜に行った時に、山下公園を後にしたら、いきなり激しいスコールが。

               

              どしゃ降りの雨から逃げるように入った喫茶店『モンヴォ・ワリエ』という店。

               

              そこでは素晴らしい音響設備でレコードが流れていた。その時の唄も伊勢正三だった。

               

              かぐや姫の解散ライブ盤の中の名曲『置手紙』だ。これもまた素敵な『雨』の情景だ。

               

              まさに青春そのものの匂い。乾いたギターの音。しょうやんの輝いていた声。涙もの。

               

               

              今改めて聴いてみると、実に勝手な男の言い分だなぁ〜。当時の若造には判らなかった。

               

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              人にも、街にも、風情があった

              2018.04.21 Saturday 05:39
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                最近、暮らしの中から色々な『大切なもの』が失われ続けているような気がしてならない。

                 

                これは、ボク個人が勝手に感じていることであって、別に大それた何かの提言などでない。

                 

                そもそも、どこかに何かしらの言葉を向けても、それが、『どうこうなる』とも思えない。

                 

                 

                そこで、ボクが一番痛切に感じることは、あるとあらゆる『風情』が絶滅しつつあること。

                 

                その『風情』とやらが何をもたらすか。どんなものか。辞書で調べても何も出てはこない。

                 

                いわゆる『シリ』に代表される『人工知能』のような味も素っ気もない刹那的答えだろう。

                 

                 

                何やら『国会』は機能していない。私利私欲にまみれた地獄絵図を見せられ続けられても。

                 

                どうもこうもない。こっちはなけなしの血税を払っているんだ。きちんと仕事をしてくれ。

                 

                などと言った所でやはりどこにも届きやしない。虚しく、そこら辺の地面に転がるだけだ。

                 

                 

                 

                まあ、それはそれ。自分は自分の暮らしを死守することで精一杯だ。戯けている暇はない。

                 

                暇を割いて戯けてしまうのだ。あらゆる『情緒』『風情』が死滅し続けるのに無能なのだ。

                 

                東京はオリンピックとやらに向けて、あーだの、こーだの。揉めつつ、金を散財している。

                 

                 

                需要から外れた東京郊外の街は、寂れて行くと同時に、治安も悪化しつつあるようである。

                 

                更には、いつでもどこでも『工事』ばかりしている割りには何も良くなったりしていない。

                 

                道路拡張など無理矢理な『修正』で、住み慣れる暇もない程に、街は趣きない別物になる。

                 

                 

                日々刻々、心は乾燥する。都に借金までして作り変えた駅前は、うらぶれたまま、死に体。

                 

                この街に住み続けることが心地悪くても、今更住処を移すような財力も体力も気力もない。

                 

                役所も市議も市長も何をお仕事しているのか、まったく見えてこなくても、納税するのみ。

                 

                 

                 

                まあ、幾ら嘆いたからと言って何も変わりゃしない。のどかな風景もなく、土埃舞うのみ。

                 

                その昔、街にも人にも『風情』というものが存在していた事実が血や肉となり心にはある。

                 

                もはや『風情』なんて死語になりつつある。繋がりを遮断する『合理化』に葬り去られる。

                 

                 

                単なるノスタルジーで言う程に哀れはない。昔、あの人は凄かった的な茶番に終わるだけ。

                 

                だが、不便でも不都合でも、この『足』で歩いた道には、『風景』があり、『人』がいた。

                 

                そこには、温かな『挨拶』があり、『笑顔』があり、『思いやり』『心遣い』が存在した。

                 

                 

                昨今、桜の下では『モラル』を捨て去った人達の狂乱を世間も煽りたるだけで責任放棄だ。

                 

                心から『この街もお前も好きだ』なんて、誠意を失わずに口にすることが出来るだろうか。

                 

                単なる『感傷』で済ませれば、それでお終いです。言い訳や逃げ道の選択肢が増えるだけ。

                 


                などと、ボクの中から戯言が尽きないのはなぜか。単なる『井の中の蛙』に過ぎないのか。

                 

                 

                すぐにキレて、簡単に命を奪える。そんな人が増殖する社会で健全に暮らせると思えない。

                 

                 

                でも『風情』を決して忘れはしない。確かに存在していた『それ』を自らの心で育むのみ。

                 

                 

                 

                暖かな木洩れ陽のように、人も街もお互いの『温もり』で、心の柔らかさを共有し合える。

                 

                 

                 

                例えば、こんな歌がふと街で流れていて、足を止めることなど、もうないような気がする。

                 

                 

                 

                 

                唄は時代の象徴か。これらの唄は『ゆったり』している。現代はバラードすら忙しく思う。

                 

                 

                 

                 

                 

                これらを『ノスタルジアごっこ』で終わらせることは独り言ち。でも生きた心地がしない。

                 

                豊かそうで、こんなに不自由で窮屈で、閉塞感で息苦しい社会を、誰が望んだのだろうか。

                 

                望むも望まざるも、こうなってしまったのなら、その中で自分とせめぎ合うしかないのだ。

                 

                 

                 

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                暮らしの中における、物との関係

                2018.04.13 Friday 04:55
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                  先日、テレビの情報番組を見ていたら、『物を持たない生活』が若者を中心に増えているらしい。

                   

                  いわゆる『シェアリング』で物を賄う暮らしが、彼らの理想とやら。ふ〜ん。そうなんだと思う。

                   

                  別にそれに対しては、何の感想も関心もない。まさに、ふ〜ん。でおしまいです。それ以上ない。

                   

                   

                  だだでさえ、若者の車離れが加速している中、彼らの発想を活かすのが『カーシェアリング』だ。

                   

                  車以外にも、家具、その他あらゆる物を『借りる』=『物を持たない』暮らしが理想の生活とな。

                   

                  引越しをしたり、部屋の模様替えをする度に家具も違うものを借りる。合理的な考えなのだろう。

                   

                   

                   

                  世間では、もはや『断捨離』という言葉は、違和感なく浸透している。それはそれで、他人の話。

                   

                  ボクは、『断捨離』という概念が好きではない。『いい、悪い』でなく『好きか否か』で捉える。

                   

                  社会全体を俯瞰で捉えても、『いい、悪い』なんて判断基準は実に曖昧で不確実なものに思える。

                   

                   

                  だから、ボクは映画だって、音楽だって、考え方だって、何事も『好きかどうか』で捉えている。

                   

                  それは、個人の自由であって、他人を貶めたり欺いたりはしない。だが、『いい、悪い』は違う。

                   

                  世の中に『道徳』とか『常識』というものがあるとするなら、『いい、悪い』の線引きがどこか。

                   

                   

                  それらにおける線引き程に、曖昧でいい加減なものはない。宗教然り、差別や倫理観にまで至る。

                   

                  そんな大それた物言いは自分には出来ない。したくない。だからこそ、分別は弁えることが必要。

                   

                  自分と他人。自分と物。自分と事象。自分と関わりを持つ『対象』との間に生まれる『関係』だ。

                   

                   

                  その関係から生じた『疑問』などと誠実かつ真摯に向き合うことは『自己対峙、確認』に繋がる。

                   

                  ボクの中で、合理的は発想は、それらをごっそり捨ててしまえる<怖いもの>にも思えてしまう。

                   

                  人の中の、あらゆる『関係』の合理的な発想がどこへ向かうのかがまったく見えないことの怖さ。

                   

                   

                   

                  そのシェアリングは、服にも及んでいて、『スマホをポチッとすれば、ほら便利』となるらしい。

                   

                  そんな暮らしをしている人の部屋が画面に映されたら、まさに生活感のない洒落た空間であった。

                   

                  クロゼットも必要ないし、家具はオシャレだし、物は極力ない。映画のセットみたいで味気ない。

                   

                   

                  まあ、それで満足している人のことをどうこう言うつもりはさらさらない。まさにその人の自由。

                   

                  だから、ボクの感想も実に陳腐なのだ。ただ、このような商売はこの先増えるだろうなと思った。

                   

                  人は、どこへ向かっているのか。ボクが追求することではない。ただ違和感一杯でザワザワした。

                   

                   

                  ボク個人は、物を大切にしているとその向こうに造り手の人の存在を感じたり、感謝したりする。

                   

                  物を持たず、何事も人工知能に頼る、近未来の暮らしを想像する。SFではなく、ホラーに思える。

                   

                  あらゆる選択は個人に委ねられている。選択の連続が暮らしの輪郭をより鮮明にしないだろうか。

                   

                   

                   

                   

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                  現代社会を生きるしか術はない

                  2018.04.11 Wednesday 09:33
                  0

                     

                     

                    長らく、ここブログを放置していた。或いは、距離を置いていた。言葉は拙い。理屈は所詮、何処へもいかない。
                     

                    単に、現代の通信社会に疲弊して、出来る限り「そこ」から離れた場所に逃げ、触れないようにしていただけだ。

                     

                    辞めるのは実に簡単なことだと思った。時間を経ても、そこに何も見出せなかったと暫定的に気づいてしまった。

                     

                     

                    今この瞬間。この時代に生きるということにおいて、もはや「通信ありき」の社会から逃れられないようである。

                     

                     

                    昨年末に10年間使い果たした携帯電話が壊れた。いわゆる「ガラケー」だ。ほぼ、生活で機能していなかったのに。

                     

                    それに依存しないにしても、現在の社会生活では、最低でも携帯電話を持たなければ多くも支障があることを知った。

                     

                    ので、止む得ず新しいものに変えた。迷うことなく、「スマートフォン」ではなく、在庫希少な「ガラケー」である。

                     

                     

                    ささやかな抵抗なのか。無駄な、意固地な発想なのか。そんなことは、自分にとってはどうでもいいことだ。

                     

                    ともあれ、経済的にも、生活においても、自分には「スマホ」は持てないのだ。もはや、アレルギー状態だ。

                     

                    心も体も拒否をするのなら、花粉同様、ない方がいい。なくても全く困らないのだから、選択肢は単純明快。

                     

                     

                    ボクに順応性がないことは子供の頃から身を以て体験しているが、これは努力とかでどうにかなるものでない。

                     

                    現代社会における様々なアレルギー反応に即効性のある手管はない。色々模索を繰り返したが、今の所はない。

                     

                    例えば、「ツイッター」「インスタグラム」を筆頭に「シェア」など、その言葉だけで拒否反応を起こすのだ。

                     

                     

                    ラジオをつければ、「ミュージック・シェア」と連呼している。吐き気がする。「シェア」って何なんだろう。

                     

                    無作為に放たれる「それ」に対し、「別にシェアしてもらいたくない」とラジオを消せば済む話ではないのだ。

                     

                    なのに、いかにも「不自由」な具合に、「そういうものだから」との概念で、全否定され、疎外、排除される。

                     

                     

                    これは、如何ともし難い「こちら側の問題」であり、現代社会やそのあり方を否定しても 何の意味もない。

                     

                     

                    目に見えない、手で触れることの出来ない、デジタル・データが錯綜する生活に翻弄され続けることは至難。

                     

                    いきなり、何の前触れもなく、パソコンが不具合を起こしても、自分はただ疲弊するだけで為す術すら無い。

                     

                    そんなことが日々繰り返されると、生活に支障をきたす。だからと言って、「通信は使わない」で済まない。

                     

                     

                    コンピュータや通信社会に順応できずに、それを忌み嫌うのは個人の問題であるが、社会環境は変わらない。

                     

                    ならば、現代社会を生き抜く術を俯瞰で捉えつつ、翻弄されず、心乱されず、自分の立ち位置を確認するのみ。

                     

                    あらゆる「想像」と「創造」を総動員して、自分を生きるしか無いのだ。誰かが助けてくれることはないのだ。

                     

                     

                    自分を生きるのは自分しかいない、のだから。

                     

                     




                     

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                    現実は、容赦なく残酷である

                    2017.02.19 Sunday 17:27
                    0

                       

                       

                      人は、言葉を放つ生き物だ。

                       

                      声だけで、身動きだけで、無防備にすべてを示せたりしない。

                       

                      それぞれに『自分の価値観』とやらで、言いたいことを言う。

                       

                       

                      日々、そこかしこで、声高に誰もが好き放題を言い放つ。

                       

                      言葉は、心の公害のごとく、受動喫煙させられるようだ。

                       

                      吸う自由はあっても、吸わない自由は許されない世界だ。

                       

                       

                      例えば、簡単に『努力は必ず報われる』なんて断定出来たりもする。

                       

                      それが、その言葉が、すべての人の『救い』になるなんてないのだ。

                       

                      むしろ、それが心を掻き毟り、深い傷跡をつけることだって出来る。

                       

                       

                      人は、言葉を持つ故、それを『愛』にも、『凶器』にも操れるのだ。

                       

                      努力がすべて報われるのなら、みんな幸せになっているんじゃない。

                       

                      それを『ポジティブ』とでも言うのかい。

                       

                       

                      随分と都合がいいんだよね。

                       

                      何を以って、『前向き』だの『後ろ向き』だの、判断するんだい。

                       

                      その基準は、誰が決めるの。

                       

                       

                      この世では、生きている間に経験することなどたかが知れている。

                       

                      自分一人を生きただけ、生きているだけで、『何かを言う』のだ。

                       

                      そりゃ、都合がいいものだ。知らないことは、知らないまま、だ。

                       

                       

                      自分が知らないことがあることすら『知らない』のだから、

                       

                      言いたいことなんて、幾らでも言いたいだけ言えるようだ。

                       

                      乱暴に言い放たれた言葉の洪水の中で人々が溺れようと知らん顔。

                       

                       

                      現実は、容赦なく、残酷なものだ。

                       

                      受け入れたくない、なんてぬるいことなど言うまい。

                       

                      だから、もう黙った方が賢明かもしれない。

                       

                       

                      自分がバカに思えてくるだけだからね。

                       

                      黙りましょ。隠れましょ。いっそ逃げちゃいましょ。

                       

                      人に指さされようとも、構いやしない。

                       

                       

                      もう、疲れて果ててしまって、お終いにも出来ないまま、この始末。

                       

                      自分で自分を強制終了出来るボタンはないものか。

                       

                      生身の生き物である人間には、それが出来ないなんて皮肉なものだ。

                       

                       

                      ここまで堕ちたのなら、潔く自ら幕引きすればいいだけの話なのだ。

                       

                       

                      残酷な現実を受け入れ、実態のない過去などいっそ捨ててしまおう。

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

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