美しい日本語が失われていく

2019.02.21 Thursday 17:17
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    ボクは映画が大好きで、古い作品も掘り起こして、全時代を通して観ている。

     

    そこで、痛切に感じることは、時代における『日本語』の変遷だろうか。

     

    例えば、昭和初期、小津安二郎の作品における日本語は実に『美しい』のだ。

     

     

    ぼんやり鑑賞しているだけなら、わざと丁寧に話しているように感じる。

     

    今はもう誰もそんな言葉遣いはしないし、そんなにゆっくり会話していない。

     

    ところが、年齢を経て観る度、『日本語の美しさ』を再発見したりする。

     

     

    その時代毎の『言葉遣い』の違いに空気感の緩和と緊張の関係性を観る。

     

    昭和の時代は、色々と隙間があり、それが暮らしにも会話にも影響した。

     

    緊張と緩和のバランスの中、風通し良く、『のんびり』が存在していた。

     

     

    ボクが思春期真っ只中に体験した当時作成された映画を観ると、単純に、

     

    小津映画とも、現代映画とも異なり、『多感期』の匂いがして懐かしい。

     

    現代は、急かされ、緩和も許されず、常に躓きそうで心にゆとりも持てない。

     

     

     

    時代の流れに囚われ、人は『言葉』を操るようで操られている気がする。

     

    テレビの影響が大きかった時代には、タレントの使う言葉を真似したり。

     

    ネットの影響が大きくなった時代には、その潮流に遅れないように、と。

     

     

    それらを『時の流れ』で片付けるか、仲間はずれを恐れる不安払拭なのか。

     

    理由は判らないが、誰もが知った気になり、意味より先に使えてしまえる。

     

    『日本語の美しさ』を求めて、どこを探してももう痕跡すら残っていない。

     

     

    現代社会においては、『カタカナ語』や『若者言葉』が席巻をして久しい。

     

    政治家を始め、コメンテーターとか、やたらに『カタカナ言葉』を使いたがる。

     

    やれ『コンプライアンス』だ『ガバナンス』だ、不快さを伴う響きの数々。

     

     

     

    母親などは、ニュースを見ていて、『ちんぷんかんぷん』だと言っている。

     

    舌を噛みそうな言葉を使い、それで『グローバル(皮肉を込めて)』を示したいのか。

     

    などと距離を置いて、それらを使う人たちを滑稽にも感じてしまう方がおかしいのか。

     

     

    なぜ『法令厳守』ではダメなのか。『統治、管理』では表現不足なのか。

     

    この手の『カタカナ言葉』はゴキブリの如く、多くが出没を待っている。

     

    それらに関して、生活に支障がない程度なら、もう放っておく以外ない。

     

     

     

    ボクが生理的に拒絶してしまう言葉の筆頭が、『スルー』との忌まわしい言葉。

     

    これは便利だ。時と場合を選ばず、『曖昧』に解釈出来るのでボクは使わない。

     

    放つ方と捉える方でも、違う場合がある。『無視』と『受け流す』では大違い。


     

    この『スルー』は代表的なもので、誰もが責任も持たずに使えてしまう。

     

    対象が何でも『ヤバい』『ウケる』の連呼で済む、不可解なものもある。

     

    重箱の隅を突けば、『ら抜き言葉』=『食べれる』とか誰も気にしない。

     

     

    これで気持ち良く会話しているのか。もはやボクには探求する気もない。

     

     

    おっとっと、何やら頭痛がしてきたようだ。

     

    『ヤバい〜』『ウケる〜』ってな具合で、、

     

    (ってな具合って、どんな具合なのだ)と収集が付かない。

     

    これらのウィルス感染力は強いんだろうな。

     

     

    もう、この手のことを追求するだけ、徒労に終わる。

     

    ボクもカタカナ音葉を自分で使ってゾッとすることもあるのだから始末におけない。

     

     

    もう、これらは一旦、思考の外に出してしまうのがいいだろう。

     

     

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    行政、なんて美味しい汁を吸うだけ

    2019.02.18 Monday 08:38
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      日本は、平和そうに見えて、相当に『おかしな』国であるように思えてならないのだ。

       

      問題は『闇に葬り去る』こと。これに尽きる。知らない間に葬り去っては風化させる。

       

      その狡猾さと言ったら、国民をバカにしている『税金泥棒』の為せる技になっている。

       

       

      日常を当たり前に生きることが困難になってきた。福祉、教育、労働等、多岐に渡る。

       

      問題山積のまま、改善も解決もしない。国民の負担ばかりが増す一方。努力では無理。

       

      政治家の資質もない人を大臣にしたまま。自分の過ちを認めないことで自己肯定する。

       

       

      東京都民として、ボク個人は『東京オリンピック』を望んでいない。無駄遣いの坩堝。

       

      もっと他に税金を使うべき問題は数多ある、と半ば憤慨している。莫大投資偏り過ぎ。

       

      その恩恵を都民が平等に受けることなどあり得ないこと。ボクに関しては微塵もない。

       

       

       

      ボクの住む場所は東京都が無計画に作った、いわゆる『やっつけ仕事』のツケだろう。

       

      何しろ、我が家を含め11軒の住宅が四方を都の私有地に囲まれ、治安悪化する一方。

       

      都は私有地を長年『放ったらかし』した挙句に、突然、遊歩道を作ったりの無計画さ。

       

       

      老朽化した都営住宅を取り壊し、広大な荒地にしたまま、近辺道路は路上駐車し放題。

       

      都の私有地に囲まれて暮らすストレスは、放置車の列を為す身勝手人間の野放し、だ。

       

      警察も役所も『都の私有地』だからとの言い訳で『モラルの欠如』を見過ごせるのだ。

       

       

      問題起こさなければ呑気に定年までいられて、公務員年金も待っている。無難が一番。

       

      その手の問題は日々テレビを賑わせる。ここだけじゃなく、日本中に増殖する問題だ。

       

      大凡、『公務員』の言い分は保身とご都合主義。どこも一緒なのだと諦めるしかない。

       

       

       

      昭和の初め、黒澤明監督の『生きる』という名作映画があった。主人公は役所の職員。

       

      その中で、『余計なことはしない』のが役所の仕事と言い合わせ、実際何もしない様。

       

      自分がガンに侵されていることを知って、初めて残りの命を市民のために捧ぐことに。

       

       

      なるほど昔からそうだったのか、と頷く。あらゆる公務員制度がある種のメタファー。

       

      誇張した脚色でなく、事実に忠実なのだと納得する。無能な人が多いのは変わらない。

       

      あるいは、公務員とは、『無能な人』にしてしまうような仕組み、なのかもしれない。

       

       

      当たり前のことだが、『真摯』に情熱を持ってやるべき仕事に勤しんでいる人はいる。

       

      ほんの一握りだろうけれど、全否定をしてはいけない。偏見だけが膨らまないように。

       

      にしても、地元の役所に『地元のコネ』で入った人を多く知っていて、実際に、多い。

       

       

       

      当人から自分で『愚か』を晒し、『それを公言した』人もいて、呆れるしかなかった。

       

      土着的な人達が闇で繋がり、それを悪用する風習は、今この世になってもまかり通る。

       

      地元人で、『警察に知り合いがいるから違反を揉み消してもらった』と自慢していた。

       

       

      もはや、真面目に生きる方が馬鹿を見るような『憤慨』を超えた腐敗が進行している。

       

      それを率先して体現している『某総理』などに期待などしていない。行政すべてにだ。

       

      ボク自身がこの身を以て痛切に思い知った『介護』における『手遅れ』感は凄まじい。

       

       

      介護の現場における『危機感』をどこまで把握しているのか不明なくらい、手遅れだ。

       

      職員不足、報酬の低さ、多くの問題を現場に丸投げ。従事する人は多忙を極めている。

       

      実際に、自宅介護に携わる身として、『憤り』を捨てて、無駄な労力は使いたくない。

       

       

       

      今、目の前にある現実から『目を背ける』暇はない。やることをやらないと自滅する。

       

      むしろ、精神的に追い込まれた状態で、狼狽えずに迅速な対応が迫られるのが現実だ。

       

      だからこそ、『家族』のあり方が露骨に炙り出される。血縁関係など締め付けになる。

       

       

      寄り添って『家族団欒』という幻想を望んでいられない。現実として受け入れるのみ。

       

      『感謝の気持ち』を誠意で示せないのなら、『家族』ではない。関係は余計に拗れる。

       

      それを母も回復と共に痛切に感じており、家族はボク一人だと口にするようになった。

       

       

      幸い、ボクは独り身で子供もいないので、後は死ぬだけ。それで今生の役目は終了だ。

       

      葬式もいらないし、いかに後を濁さずに死ぬかの『準備』が残された課題になるのだ。

       

      今は、『母がいかに長く、幸せに過ごせるか』だけをボクの生き甲斐にさせてもらう。

       

       

      それは、心からの感謝の気持ちが礎になる。打算は介入する余地もない。今生の役目。

       

       

      出来るだけ『心身の健康』を損なわずに、生きるか。創意工夫、想像、知恵が必要だ。

       

       

      自分を生きていて『自分を楽しめなくて』何が出来るのだろうか。それが命の源、だ。

       

       

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      限りなくブラックに近いグレー

      2019.02.13 Wednesday 08:28
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        すでに『ブラック企業』なる言葉も定着しているが、その実態はほぼ表面化していないだろう。

         

        どこからが『ブラック』なのかの定義はないので、『限りなくブラックに近いグレー』が殆ど。

         

        条件のいい、優良な企業など、ほんの一握りのような気がする。どこも皆、何か変と想像する。

         

         

        かつて、ボクがいた会社も『限りなくブラックに近いグレー』な、憤り満載の会社だったのだ。

         

        社長を始め、幹部クラスは、都心や鎌倉の一等地に自宅を持つが、社員の給料はスズメの涙だ。

         

        ボクは、会社を辞める時、40を過ぎていたが、給料は大卒初任給と殆ど変わりなかった程だ。

         

         

        デザイン会社。社員を統率出来ない無能な社長は、変なプライドだけで、仕事を選り好みした。

         

        一定の高額利益を得られる仕事も断る驕りに溺れ、不景気の波に飲まれ、倒産状態まで陥った。

         

        多額の借金を返済する為に会社を存続し、ごく僅かな社員を残し、8割はリストラされたのだ。

         

         

         

        何より一番忙しかった頃にはサービス残業の嵐で、何ヶ月も10時間以上パソコン漬けだった。

         

        もはや『労働基準法』に違反している。本気で労働基準局に訴えてやろうかと考えたくらいだ。

         

        『デザインの仕事は時間で計れない』との不可解な理論を押し付け、残業報酬はないと宣った。

         

         

        だが、下々に締め切り迫られる膨大な作業を委ね、手を休めることないパソコン操作の不休息。

         

        座りっぱなしの『精神的』肉体労働を強いられ、薄給で残業代ナシ、という戯けた会社だった。

         

        ボクは社員にマックを初歩から指導させられた程、その技能的責任を糧に無理に頑張り過ぎた。

         

         

        その、安っぽい『責任感』で、体を壊したり、持病が悪化したり、自分の愚かさを思い知った。

         

        それに関して、会社側は『それは個人の責任』と突っ放した。休職も固辞されて、ボロボロに。

         

        もう『労働者』として使い物にならない最悪状態でリストラされた。もはや『真っ黒』だった。

         

         

         

        フザケた発言を平気でするお方による『アベノミクス』は、富裕層のみ恩恵を受ける不良債権。

         

        不正データで誤魔化そうと、毎度お馴染みの『偽り』は狡猾さ極まりなく、当人は知らん顔だ。

         

        労働者の殆どが収入も増えず、不景気の中、苦しめられている現状を見ないで済まそうとする。

         

         

        この問題は語るに及ばない。虚しいだけ。誰が何を支持しているのかも見えてこないのだから。

         

        一大政党が優秀な訳ではなく、分裂を繰り返す『野党』が『与党の慢心』を助長しているだけ。

         

        責任は、選ぶ国民にもあるだろう。多分。それに『声をあげない』日本人気質なのかは不明だ。

         

         

        ただ各々が、自分の暮らしで精一杯の中、政治に関心を示す土壌がないのも否めない気がする。

         

        それなりに暮らせてしまってきた人にとっては、自分を優先してしまえるのか知り得ないこと。

         

        社会創りに関して、日本は後進国に思える。無節操な街の景観。大都市一極集中開発の偏り方。

         

         

         

        大きな話題になり得ないことだが、『災害』により人口激減した被災地からの業者撤退がある。

         

        人口に対して売り上げが見込めない『スーパー』などが手を引き、更なる負の連鎖を生むのだ。

         

        この深刻に思える問題は、地味な番組で地味に取り上げるだけで、世間に浸透することはない。

         

         

        相変わらず強気な安倍の坊ちゃんは他者を否定することにご執心で、弱った人にトドメを刺す。

         

        具体的成果も見えない、自身の肝入り『法案』を通すことにかまけ、重要なことはお座なりに。

         

        少しも『景気回復』を実感出来ない上に、低所得者に泥水を飲ませる所は見事な程に真っ黒だ。

         

         

        日本経済の根底を支える人々が堪え切れなくなっている現状を見ようともしていないのが露骨。

         

        普段はしないだろう『商店街での買い物をキャッシュレスでする』パフォーマンスでアピール。

         

        これには、空いた口が塞がらない。もはや、怒りを通り越して、笑うしかない始末なのである。

         

         

        少なくともこの日本においては、『限りなくブラックに近いグレー』がまかり通るらしいのだ。

         

         

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        ろくなもんじゃねぇ、では済まない

        2019.02.10 Sunday 02:55
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          ここ最近、やたらと『人の悪行』がニュースの殆どを席巻している気がする。

           

          テレビを含め『メディア』に触れたくないくらい、やり切れない気分になる。

           

          真の『愚かさ』を提示されても、それに追従する『無知なる愚かさ』を生む。

           

           

          ネットも使い方次第で『犯罪の温床』となる、という以前の問題だと思える。

           

          ネットという『媒体』を介し、『人としての在り方』が如実に示されるのだ。

           

          自ら『自分は愚かです』と世界中に晒していることに気付かない心の貧しさ。

           

           

          それは、『想像力の欠如』では済まされない。『犯罪』にも匹敵することだ。

           

          多少の愛情も込めて『ろくなもんじゃねぇ』などと言っていられない時代だ。

           

          個人の愚かさでさえ、社会に及ぼす影響が大きさが計り知れないと手遅れだ。

           

           

           

          たかが『アルバイト』でも一個人が雇い側に及ぼす損害は膨大なものになる。

           

          それは『善悪』の線引きも出来ない、『幼稚』な、年齢だけを重ねた人の罪。

           

          これらは『煽り運転』や『虐待』なども同類。責任を放棄した無関心さ故か。

           

           

          その根幹に存在する『想像』を捨てられる。短絡的な発想の乏しさ故なのか。

           

          あらゆる『情緒の欠乏』が社会全体を構築し、『情操教育』に辿り着けない。

           

          学習をやめてしまえると世の変遷の中で心も何処か置き去りにしてきたのか。

           

           

           

          ともあれ、自分の愚かを見ないで済ませてきた『代償』は小さくないだろう。

           

          社会的制裁を受ける場合もあるし、『損害賠償』を請求される可能性もある。

           

          それをまったく『想像』出来なかったことを『身を以て』受け入れることだ。

           

           

          よく『痛い目に遭わないと判らない』と言うが、昨今ではそれも通用しない。

           

          まさに『そういう社会』になったのだ、と無能な『政府』が身を削らないと。

           

          彼らが誰も『責任の所在』を示さなくていい、と証明してしまっているのだ。

           

           

           

           

          何事も『後手』に回る。先を見越すことを怠ってきた失敗から学ばないのか。

           

          例えば、車と自転車が共生も出来ない道路事情。なのに、法律で修復を図る。

           

          渋谷など首都圏化け物級開発にかまけ、膨大数の水道管など老朽化を後回し。

           

           

          庶民の暮らしを少しも知らないボンボンが『景気は回復している』と戯ける。

           

          すでに手遅れ感は否めない。その上、増税とポイント還元の不可解なセット。

           

          増税前に、光熱費や食品の値上げが続き、家計への負担を圧迫しているのだ。

           

           

          何をどう『不安の払拭』すればいいのか、振り回されるのは『庶民』なのだ。

           

           

          多くの『切実な問題』をお座なりにしてきた『行政』への不信感は拭えない。

           

           

          曖昧な『働き方改革』なんて、呑気なことでは根本的問題は何も解決しない。

           

           

          少女が死んでから『児童虐待問題に取り組む』との発言も都合のいいお伺い。

           

           

          事が起きてから、は警察や役所と一緒。何か問題にならないと動かない保身。

           

           

          それらに『安倍のお坊ちゃん』はどこまで危機感を持っていらっしゃるのか。

           

           

           

          などと戯けてみても、『己の胸に刃を向ける』確認にしかならないのである。

           

           

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          楽しめない、って損しているのか

          2019.02.07 Thursday 12:02
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            ボクは、『心的外傷後ストレス障害』を抱えてから色々な不具合を抱えている。

             

            それが『不幸』とか、『人として劣る』とかの捉え方をしたくはない。

             

            昔、『鬱』とか『心身症』の在り方を認識していない友人達に散々意見された。

             

             

            やれ『心が弱い』とか、『何もしない内に諦めるのはダメだ』だとか。

             

            まあ、そういうのは聞き流すしかない。正面から受け止めたらダメージになる。

             

            こっちは、『自分のことを判って欲しい』などと、1ミリも期待はしなかった。

             

             

            それより、生活の中で不具合が多いことの方が遥かに大きな問題であり続ける。

             

            映画が好きなのに、最後に映画館で観たのは『カラー・パープル』だ。

             

            この映画を公開時に観たのだから、『1985年』のこと。遠い昔の話になる。

             

             

            それ以来、映画館に行っていない。あの大スクリーンで映画を観ていないのだ。

             

            友人の芝居を観覧した際、劇場でパニック発作を起こしたトラウマが消えない。

             

            暗い室内で人に囲まれて椅子に座っている、と想像しただけで予期不安になる。

             

             

            十数年前に、友人の付き合いで何十年振りかで、武道館にライブを観に行った。

             

            その時も、不安で潰れそうになったが、友人に悟られないよう我慢をしていた。

             

            本来、『楽しむ』ことが『楽しめない』ことの苦痛は、例えようのないことだ。

             

             

             

            そこで、ボクは現状打破するため、数年前、勇気を振り絞り、ある決断をした。

             

            小学生の頃から憧れだった『ポール・マッカートニー』のライブを生で観たい。

             

            だが、東京ドームの最上段、塞いだ心に『唄も届かない』まま、家路に就いた。

             

             

            それで諦めるのなら少しも前進しない。次の来日時、再度チケットを購入した。

             

            すると、『アリーナ』のいい席が取れた。これはもう腹をくくるしかない、と。

             

            だが、ボクはライブを途中退席し、そのままドームを後に逃げるように帰った。

             

             

            最大の原因は、『周りで楽しむ人たちの圧』だ。立ちっぱなしで、浮かれ踊る。

             

            中には大声でずっと合唱する人達。『お前らの声など聞きたくない』が本音だ。

             

            アリーナ席は隣前後が窮屈で、『人酔い』をする。その上、皆が浮かれている。

             

             

            彼らが悪い訳じゃない。ただ『楽しむ人』に囲まれるのが『苦痛』だっただけ。

             

            結構高額なチケット代をフイにしてもいいから、早く逃げて楽になりたかった。

             

            お金の問題じゃない。『損得』で捉えたくない。でも、結局は『逃げた』のだ。

             

             

            もうボクは二度と大きな会場で好きな音楽に触れることはない、と確証を得た。

             

            それも含めて、『旅行』や『行楽』など、人生における『楽しみ』とは無縁だ。

             

            おまけに人との関係を築けない。『苦痛』に耐える日々が途絶えることはない。

             

             

            それを嘆いても無意味だ。『自分の哀れを慰める』のは『自分に失礼』なこと。

             

            ボクを生きるのはボク自身である。その本人が否定してどうする、と常に思う。

             

            ならば、『自分なりの生き方』を精一杯、楽しむこと。『想像力』を失わない。

             

             

            もし、自分を楽しめないのなら、それは『ただの言い訳』に過ぎないのである。

             

            誰のせいでもない。社会のせいにしてもいけない。と自問自答を繰り返すのだ。

             

            だからこそ、『自分でない誰か』とシンパシーを感じられるだけで感謝をする。

             

             

            今、この瞬間にも、『心から苦痛が剥がれ落ちる』のを感じる。薄い表面だけ。

             

             

            自分と向き合い、その工程を『言葉にする』こと。思考は言葉に依るのだから。

             

             

            死ぬまで自分は自分を生きる。大袈裟なことにしない。母なる自然の導き、だ。

             

             

             

            余談だが、昨年の深夜にやっていた『指原莉乃』の『真夜中』という番組内で、

            指原さんを『クラブ』デビューさせる、という企画があった。

            いわゆる『大音量で音楽をかけて踊る』方のクラブだ。

            彼女は、行く前から憂鬱な顔をして『本当、嫌。パーティピープルが苦手なんです』と。

            で、クラブ内に入ると、酒に酔った輩たちが騒いでいる様子を目の当たりにして、

            さらに顔色が悪くなり、『ダメかもしれない』と尻込みしていた。

            そこで『恋するフォーチュンクッキーを流すので、皆の前で踊って』と言われ、

            彼女は、大泣きをして『こういう人達、本当に怖いんです』と店を逃げ出した。

             

            深夜の番組だからって、これは『よろしくない』とボクは胸が痛んだ。

            演技じゃなくて、本気で怖がって、顔を崩して大粒の涙を流していたのを観て、

            そうそう『逃げていいんだよ』『無理して、克服する類のものじゃない』と思ったのだ。

            ボクも、何があっても、そのような所には行きたくないし、関わりたくはない。

             

            世の中には『人生楽しんだもん勝ち』という言葉があるが、これを履き違える人が多い。

            それが他者に『無抵抗な圧力』を与えていることに、気付かないでいられるようなのだ。

             

             

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            いい加減も、程々にしてほしい

            2019.01.30 Wednesday 13:03
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              このところ、というかずっと。政府、省庁、公務員たちの『いい加減』は続くのだ。

               

              ボクは彼らが嫌いだ。個人的な感情である。出来るならそんな感情は持ちたくない。

               

              それでも、彼らの『いい加減』な『お仕事』の被害にはもううんざりしているのだ。

               

               

              昨今の様相では、『隠蔽』『捏造』などで誤魔化したまま有耶無耶にして済ませる。

               

              厚労省然り。安倍に『忖度』しているのか。『嘘』で『嘘を重ねる』のは当たり前。

               

              何が真実で何が嘘かなんて。もうちゃんちゃら可笑しい具合に追求もしたくはない。

               

               

              ここ十数年間、長年住んでいる役所に『問題提起』をしてきた。問題だからである。

               

              それなのに、『お役所仕事』の作業はいつでも同じ。御都合主義。税金の無駄遣い。

               

              彼らの頭に『潰れない』『リストラされない』等の呑気さがあるのかは分からない。

               

               

               

              それでも、昨年、ボクが問題提起してきた部署の『部長』が同級生であると知った。

               

              で、個人的に会うことにされた。職場で話をするのが『都合が悪い』のかは不明だ。

               

              そこで、彼は『お役所様の適当な返答』で済ませてくれた。根本的な改善はしない。

               

               

              彼が言ったことは、まさに『お役所様』の体。まあ、最初から期待などしていない。

               

              それなりのいい給料貰って、自家用車通勤していて、『適当なこと』を平気で言う。

               

              ボク自身は『単なるクレーマー』と捉えられているとの想定もして穏便に対応した。

               

               

              もう、件の兵庫の明石市長の暴言といい、『腹をたてる』ことすら馬鹿らしいのだ。

               

              彼らは、国民や市民のための仕事を生業にしていても、他人のために働いていない。

               

              まさに、『自分のためのお仕事』をされているように思える。だから腹も立たない。

               

               

               

              腹を立てるのは、自分である。他人の利己的な利益に自分の腹を痛めるのは愚かだ。

               

              なので、ボクは無駄な労力は使わない。『なるようにしかならない』世の中なのだ。

               

              所詮、『綺麗事』で固められた『偽りの和平』なのは、今の世界情勢で観て取れる。

               

               

              毎日『人でなし』なニュースが垂れ流され、それに鈍感になってしまっているよう。

               

              平和とされる日本でも『詐欺』『悪質運転』『虐待』が表面化されてきただけの話。

               

              世の中から『悪』『欺瞞』がなくならない。むしろ、複雑化し、不意打ちをされる。

               

               

              だが、もう『いい加減にしてくれないか』などと思ったりもする。疲れ果てたのだ。

               

              余計な神経を使いたくはない。ただでさえ、その日を乗り越えるだけでいっぱいだ。

               

              とても『人は尊い』なんて言えやしない。それが現実ならば、やはり黙るしかない。

               

               

               

              これは、嘆きではなく、ただの感想だ。嘆いたところで、何も生産性は見込めない。

               

              相対する『国益』の名の元に他者への『否定』『批判』『攻撃』の加速はやまない。

               

              愚かなる行い。にしか見えない。その先に何があるかも見ずに、過去に執着をする。

               

               

              そういう『イヤなだけの話』を日々ニュースで流されても、否定も肯定も出来ない。

               

               

              他者を否定することで、自分の肯定を得るのなら、そんなものはいらない。不毛だ。

               

               

              そういうボク自身も『否定』『批判』をして『自己肯定』しているのかもしれない。

               

               

               

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              関係なくても、誰もが言いたい放題

              2018.10.21 Sunday 13:56
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                ここ直近の話題で言えば、ジュリーこと『沢田研二』の『ドタキャン問題』について。

                 

                芸能人、一般人問わず、誰もが『言いたい放題』するのは、当たり前、になっている。

                 

                その『問題に何も関係ない』にも関わらず、ご意見番の如く批判するのはどうだろう。

                 

                 

                この『ライブ直前のドタキャン』は、それに関わった人にすれば、『酷い話』だろう。

                 

                でも、それにまったく関係ない人にとっては、『意見する』なんておこがましいこと。

                 

                やれ『プロとして失格』とか『バカにしている』とか、無責任に言うのは実に簡単だ。

                 

                 

                でも、これが『情報社会』なのだろう。あらゆる『メディア』で誰もが言いたい放題。

                 

                ボク個人的には、余計な雑音でしかないので、触れたくないし、関わらないで済む話。

                 

                なのに、テレビ、ラジオ、ネット、生活の中に存在する『情報源』では避け難いこと。

                 

                 

                個人的な見解など『賛否』あって然ること。直接、関わりがないのなら、黙ることだ。

                 

                例えば、『消費税』とかの、国民全部に影響があることなら、人の意見は重要である。

                 

                ややこしい仕組みに戸惑う人や翻弄される人ならば、『思うこと』はあるに違いない。

                 

                 

                悪質な『飲酒ひき逃げ』とか『詐欺』とか、『人としての在り方』は各々考えること。

                 

                その問題に意識を持ち、その人なりに思考を巡らせ、自己対峙するかはその人の問題。

                 

                何も感じず、適当に受け流し、何が起きようとも、『善悪の彼岸』は眼中の外にある。

                 

                 

                まあ、『善悪の彼岸』なんてことをここで言葉にする自分もどうかしているのだろう。

                 

                そういう『具体的なこと』を言葉や文字にすることの影響を考えていない証拠になる。

                 

                ボクは象徴的宗教には興味ないので、この言葉の選択も間違いであるとの確認だけだ。

                 

                 

                だが、このような『雑音でしかない情報』を遮断するには、今の社会生活では困難だ。

                 

                もう、テレビもラジオもネットも一切『触れない』しかないのではないかと思うのだ。

                 

                窮屈極まりない。元々『娯楽』であったものが、受け取り方では『苦痛』になり得る。

                 

                 

                ので、ボクは『いつ』『どのタイミング』で『通信』を遮断するか、常に悩んでいる。

                 

                今の暮らしにおいては、これを遮断すると、それ相当の『不便』が生じるので厄介だ。

                 

                スマホを持たないとか、現代社会における利便性の高いものから距離を置くしかない。

                 

                 

                はてさて、どうしたものか。今日も行楽日和の中、一人で苦しんでいる愚か者なのだ。

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                自分を苦しめているのは、自分

                2018.10.03 Wednesday 03:39
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                  なぜにも毎晩、欠かさずに悪夢を提供してくれるのか。

                   

                  浅く、短い睡眠には、もれなく凄まじい悪夢がついてくる。

                   

                  最後に、『睡眠』を取ったのはいつだったか覚えていない。

                   

                  日々、心身にダメージを負い続け、肉体は弱る一方。

                   

                  精神的には、・・・。

                   

                  抑うつ不安障害。適応障害。耳鳴り。喘息。鼻炎。頸肩腕症候群。

                   

                  事故の際の怪我の後遺症による関節や靭帯の痛みと不具合。

                   

                  その他、諸々。列挙するだけ自分の哀れを慰めるようで、愚かだ。

                   

                  これらを『苦しみ』とか『不運』とかで捉えるのは好きじゃない。

                   

                  それが、自分なのだから。

                   

                  誰だって、健康で快活に働ける訳には行かない。

                   

                  自分に鞭打って、耐え忍んで無理をしている人。

                   

                  特に体に気をつけていなくても病気にならない人。

                   

                  皆、それぞれに違う。

                   

                  自分のことしか言わない、会話が成立しない『人』とかが、

                   

                  平気で『弱いヤツ』と言う。

                   

                  それなら、それで構わない。

                   

                  それでも、未だに『そのような人』ばかりが夢に出てくる。

                   

                  夢の中でまで、人を貶め、追い込んでくれる。

                   

                  いや、これは自分の心の襞に溜まった『澱』のようなもの。

                   

                  自分のあり方を映す鏡のようなもの。

                   

                  過去に縛られ、自分の愚かな行いなどの過去を悔いている。

                   

                  そう、自分によって、自分は苦しんでいるのかもしれない。

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                  言葉はその人の顔になる、と思う

                  2018.09.07 Friday 04:19
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                    今のような時代にこそ、『言論の自由』というあり方を見直して、改めて考える必要を感じる。

                     

                    一概に『言論の自由』と言っても、そのあり方を悪用すれば、人は言葉でも人を殺せる時代だ。

                     

                    その重さ、責任をどれくらいの人が考えているのか。ボクには判らないので語る資格などない。

                     

                     

                    もはや、貝になって『黙っている』方が賢明にも感じられる。逃げましょ。隠れましょ。とね。

                     

                    だが、一切の自分の中から発する『言葉』を失うとするなら、人と人の関係は根底から崩れる。

                     

                    どこまでも解り合えないとしても、すれ違いがあろうとも、人は、言葉で意思を示す生き物だ。

                     

                     

                    だからこそ、気軽なネットの使い方次第で、人は自分の存在の『輪郭』を失うこともあり得る。

                     

                    いっそ、生活から『通信』というものを排除してしまいたいと思う。心の目を失いそうなのだ。

                     

                    何も見えない。見えたとしても歪んだ『何か』が交錯して見えないに等しい。今の自分は駄目。

                     

                     

                     

                    例えば、『自由』を手にしたと勘違いした人が放つ言葉は、『狂気』『凶器』にさえ変貌する。

                     

                    気軽に『呟く』としても、世界中に拡散すれば、総攻撃を受けることの覚悟も必要になるのだ。

                     

                    その『呟き』を見たくもない、こちらの意思をも打ち砕く力を持ってしまえる脅威さえ感じる。

                     

                     

                    賢明には思えないけれど、もう『防御しかない』のだ。極力、ネットは見ない。利用を控える。

                     

                    その脅威は、テレビなどの媒体にも侵食してきて、他人の言葉に触れないことを予防にもする。

                     

                    娯楽とか、気晴らしとか、リラックスとか。大凡、対極にあるストレスが充満して息が苦しい。

                     

                     

                    と言いつつ、某テレビ番組を録画で見ていた。その中で『マツコ・デラックス』が言っていた。

                     

                    このネット社会のあり方を俯瞰で捉えてマツコなりに感じたことに多少の発見をした気がした。

                     

                    要約し『人は悪口を言う生き物であると、ネットというものが見事に示してくれた』とのこと。

                     

                     

                     

                    一個人の見解として正解でも誤りでもない。一つの考え方として、こちらに何かを喚起させた。

                     

                    だが、その『ネットが人間の本性を見せてくれた』との発想を肯定的に捉えたなら楽にはなる。

                     

                    御釈迦様じゃあるまし、人が皆、純粋な善意だけで心を浄化し、邪気をゼロにすることはない。

                     

                     

                    ネットに罵詈雑言が溢れていることは人間らしい。そこを出発点にして複眼的に捉え直すこと。

                     

                    それもアリだな、と思った。何気なく見たテレビ番組だが、ただボーと生きている訳じゃない。

                     

                    この世には、一人間にとって知らないことの方が宇宙規模で多く、心を閉ざすことは愚かしい。

                     

                     

                    それでネットを敬遠し続けてきた自分の行為は、『逃げ』と捉え、自ら隠れていたと認識する。

                     

                    しかし、現代社会。山籠りでもしない限り、隠れるなんて出来ない。単なる精神的引きこもり。

                     

                    自分の足で、自分の目で、自分の心で、扉を開けて『外に出てみる』最初の一歩が必要になる。

                     

                     

                     

                    だからと言って、また連日ブログを更新することがいいとは思わない。まずは肩の力を抜こう。

                     

                     

                    ボクは、『言葉がその人の生き方やあり方、心の具現』として、語彙と使い方が大切だと思う。

                     

                     

                    その人の選ぶ言葉が最初の入り口になるし、表情、語り口など含め『表現』が顔になるだろう。

                     

                     

                     

                    人が普段使う『言葉』やそれに伴う『行動』がその人の人相を良くも悪くもすると思えるのだ。

                     

                     

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                    死と向き合っていた時間の、後

                    2018.06.01 Friday 03:59
                    0

                       

                       

                       ボクは、いま死のうと思っています。そのことを言葉という形によって、伝えようとしています。その言葉は、心を伝えるのではなく、心の存在を示すひとつの手段です。気持ちを伝えるのでははなく、『その、こと』を伝えるのです。

                       では、なぜそのことを伝えるのか。それは、ボクには判りません。

                       そのこと、つまり、死のうと思うことは、例えば交差点を渡ろうとすることにどこか似ています。

                       道を歩いていたら、交差点があったのです。それは、偶然ではなく、むしろ必然のような気がします。ですから、交差点を渡るということをするために、特別な理由はいらないのではないか、と思えるのです。そして、『交差点を渡ります』と、発言するのはボクの自由で、特別な理由はないのです。ボクの中では、それら、『死ぬこと』と『交差点を渡ること』は、同列にあります。

                       しかし、それが伝わるかどうかは、他者に委ねるしかありません。そのことに関しては、ボクは無力なのです。どのように解釈されようと、ボクは無力であり、ボクにとって、伝わるかどうかはどうでもいい、取るに足らないことなんです。

                       解釈とは、人それぞれですから、解釈そのものには、意味など求めてはいけないのだと思えるのです。それに、元々、死ぬことにすら、意味などないような気がするのです。

                       ボクは、無意味なことが、ただ好きなのかもしれません。

                       そして、ボクは、ただ歩いていたらそこにあった『交差点を渡ろう』とすることと同じように、ただ『死のう』と想っているだけなのです。

                       

                       この宣言のようなものは、ずっとボクの中にあった想いであり、見ない振りをしていたもの。真新しいノートの最初のページに書き記したのは、つい昨日のことだった。

                       

                       ボクは、大学を卒業しても、そのまま就職をしなかった。まず何をしたらいいのかが判らなかった。それから今日まで4年余り、定職に就くこともなく、ただ惰性でアルバイトを転々として来た。それでいま現在は何も仕事をしていない。

                       したがって、日々時間を持て余している。それで、散歩が日課になっている。

                       そして、それはいつものように、午後の散歩をしている途中の出来事だった。

                       お気に入りと言うよりも、成り行きでそのようになった、お決まりの散歩コースの途中にある歩道橋を渡って、向こう側の歩道に行こうとしていた処だった。その歩道橋の階段を昇り終える少し手前で、ふと視線を上げた先にひとりの女性を見た。

                       

                       彼女は、歩道橋のちょうど真ん中あたり、手すりの手前に背筋をまっすぐに伸ばして立ち、細い指先で銀色に鈍く光るピアスを、左右両方とも外し、それを掌に乗せ、しばらく眺めていた。ボクは足を止め、少し離れた手すりに寄り掛かって、彼女の斜め後方からその様子を見ていた。

                       彼女は、その銀色の小さな塊から視線を少し上に向けて、淡い微笑みを浮かべ、おもむろにそれを頭上に放り投げた。そして、その放物線に目をくれることもなく、更に口元を緩め、音を立てずに拍手をした。

                       路面に落ちたであろうピアスの行方は、ボクも確認しなかった。それよりも、歩道橋に手を掛け空を見上げた、彼女の整った横顔を見ていた。そして、程なくして歩き始めて、彼女のそばに近づいて立ち止まり、その次の瞬間にボクは、彼女に向けて自分の口から言葉が出たことに自分自身で驚いた。

                       「捨てることはいい」

                       自分の背中でした声に、彼女は振り返った。左の頬に涙が伝うのをボクは見た。そしてもう一度、「捨てることはいい」と同じ言葉を繰り返した。

                       それでも、彼女はボクの視線をまったく存在しないもののように、それを無視して歩き出した。それでも、ボクは更なる不可解な行動に出た。

                       「あさこさん」

                       なぜそんな名前が出て来たのだろうか。ボクは彼女に向かってそう声を放って、しかも張り上げたその自分の声に例えようのない違和感を覚えた。

                       少し距離を置いて、後を追うボクには、彼女の歩き方に変化を見ることが出来た。歩幅が明らかに狭くなり、膝のあたりにためらいのようなものが窺えた。

                       「あさこさん」

                       もう一度、今度は意識して穏やかに、そう呼び掛けた。

                       彼女は体ごと向きを変えて、正面からボクを見据えた。そして、そのやや乱暴な口調には不釣り合いな『柔らかな』声で、

                       「私は、あさこという名前ではありません」と言った。

                       自分とほぼ同じくらいの年齢ではないかと思える彼女の頬には、もう涙はなかった。それを確認して、ボクは迂闊にも微笑んでしまった。

                       「なぜ、笑うのですか?」

                       「すみません。けっして笑った訳じゃないんです」

                      と、ボクは間髪を入れずに丁寧にそう言った。

                       「人違いをしています。私は、あさこという人ではありません」

                       彼女は、少しだけ口調を緩めてそう言った。

                       「人違いではないのです」

                       怪訝そうな表情のままの彼女に向かって、更にボクは、

                       「ぼくにとって、あなたがあさこさんであるかは、どうでもいいんです」と言った。

                       「あなたがあさこという名前である可能性もある訳で、そのわずかな可能性を試すために、あさこという名前が必要だったのです」

                       ボクは自分でも不思議なくらいに、すらすらと言葉を口にしていた。

                       明らかに不快そうな表情でボクを凝視した彼女に、

                       「怒らないでください。ぼくはあなたを呼び止めたかったのです」と出来るだけ丁寧にそう続けた。

                       「ナンパですか?」

                       前髪を掌でたくし上げた彼女の白い額に、再び前髪が流れるのをボクは見ていた。それはとてもしなやかで美しい仕草だった。

                       彼女は、一度だけ瞬きをした。はっきりそれと判るようなやや誇張したやり方だった。ボクはそれを静かに見届けていたけれど、彼女はあからさまにそれと分かるよう、誇張した感じに体の向きをさっと変えて歩き始め、向こうの階段を降りて行った。

                       ボクはそれを黙って見送るだけで、それ以上は何もしなかった。

                       

                       それが昨日の出来事だ。

                       その直後に、ボクの心に炙り出された『想い』が、死のうと思うこと。そしてそのことを言葉という形によって、伝えようとすること。その言葉は、ボクの心を伝えるのではないく、心の存在を示すひとつの手段として、『その、こと』を伝えようとすること。それは、誰に向けてのものでもない、自分に向けての『宣言』のようなものだった。

                       

                       

                       

                      これは、ボクが25歳前後に書いた。小説でもなく、日記でもない。ただ、書いただけのものだ。

                       

                      ボクは不運な事故により、生活や人生など、大きく変化をし、色々とあり、廃人のようになった。

                       

                      22歳から社会復帰する27歳までの途中。『死にたい』と思う人間から『自己再生』を始めた。

                       

                       

                      その一環として、ノートに手書きで、色々と心に浮かぶことを文章で書き記すことを続けていた。

                       

                      3冊のノートは綺麗な状態で保存してある。それを読み返すことはなく、先日久しぶりに開いた。

                       

                      その中で圧倒的に多かったのが『フィックション』だ。短編小説擬きの短い作り話を沢山書いた。

                       

                       

                      その中の一つがこれだ。ただ、ボクははっきりと覚えていることとして、確実なものがあるのだ。

                       

                      これだけは、『物語』のように、長く書こうとしていた。だが、書き始めの『ここ』で挫折した。

                       

                      挫折と言うか、急に書くことをやめたと記憶している。ボクは、確かに何かを書こうとしていた。

                       

                       

                      ボクは二十代という輝かしい時間を、自分の部屋に籠り、誰とも会わず、廃人のように過ごした。

                       

                      痩せ続け、体力も低下したまま、日がな一日横たわり、1分毎に『死にたい』と思い続けていた。

                       

                      そこから脱却することを自ら促して、『自己再生』を始めた。その一つが文章を書くことだった。

                       

                       

                      だから、これは『死ぬことと向き合っていた時間』の『その後』を記したものだとも言えるのだ。

                       

                      その『自己再生』では、かつて経験した、音楽や映画や書物との融合を取り戻せたことが活きた。

                       

                      まさに『死にかけていた心』を動かし、生きることへの最初の一歩だ。ボクにとって貴重なもの。

                       

                       

                      ボクは元々、絵を描いたり、楽器を演奏したり、何か『表現する』ことで心を柔らかくしてきた。

                       

                      そこで新たに『文章を書く』ことが加わった。稚拙だろうと『自分の言葉で書くこと』が好きだ。

                       

                      数年前、ボクは長編の小説もどきの代物を書いた。ただ一人の人しか読んで頂いていない。感謝。

                       

                       

                      プロでもないのだから、音楽も含め、自己表現したものは大切な人だけにそっと伝えたいだけだ。

                       

                       

                      昔書いた先の文章は、また新たな形で死と向き合っている『今の自分』に向け書いたのだろうか。

                       

                       

                      苦しみは絶えなくても、死にたい気持ちは思い出せない。どんな苦しみも死で消えたりはしない。

                       

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