関係なくても、誰もが言いたい放題

2018.10.21 Sunday 13:56
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    ここ直近の話題で言えば、ジュリーこと『沢田研二』の『ドタキャン問題』について。

     

    芸能人、一般人問わず、誰もが『言いたい放題』するのは、当たり前、になっている。

     

    その『問題に何も関係ない』にも関わらず、ご意見番の如く批判するのはどうだろう。

     

     

    この『ライブ直前のドタキャン』は、それに関わった人にすれば、『酷い話』だろう。

     

    でも、それにまったく関係ない人にとっては、『意見する』なんておこがましいこと。

     

    やれ『プロとして失格』とか『バカにしている』とか、無責任に言うのは実に簡単だ。

     

     

    でも、これが『情報社会』なのだろう。あらゆる『メディア』で誰もが言いたい放題。

     

    ボク個人的には、余計な雑音でしかないので、触れたくないし、関わらないで済む話。

     

    なのに、テレビ、ラジオ、ネット、生活の中に存在する『情報源』では避け難いこと。

     

     

    個人的な見解など『賛否』あって然ること。直接、関わりがないのなら、黙ることだ。

     

    例えば、『消費税』とかの、国民全部に影響があることなら、人の意見は重要である。

     

    ややこしい仕組みに戸惑う人や翻弄される人ならば、『思うこと』はあるに違いない。

     

     

    悪質な『飲酒ひき逃げ』とか『詐欺』とか、『人としての在り方』は各々考えること。

     

    その問題に意識を持ち、その人なりに思考を巡らせ、自己対峙するかはその人の問題。

     

    何も感じず、適当に受け流し、何が起きようとも、『善悪の彼岸』は眼中の外にある。

     

     

    まあ、『善悪の彼岸』なんてことをここで言葉にする自分もどうかしているのだろう。

     

    そういう『具体的なこと』を言葉や文字にすることの影響を考えていない証拠になる。

     

    ボクは象徴的宗教には興味ないので、この言葉の選択も間違いであるとの確認だけだ。

     

     

    だが、このような『雑音でしかない情報』を遮断するには、今の社会生活では困難だ。

     

    もう、テレビもラジオもネットも一切『触れない』しかないのではないかと思うのだ。

     

    窮屈極まりない。元々『娯楽』であったものが、受け取り方では『苦痛』になり得る。

     

     

    ので、ボクは『いつ』『どのタイミング』で『通信』を遮断するか、常に悩んでいる。

     

    今の暮らしにおいては、これを遮断すると、それ相当の『不便』が生じるので厄介だ。

     

    スマホを持たないとか、現代社会における利便性の高いものから距離を置くしかない。

     

     

    はてさて、どうしたものか。今日も行楽日和の中、一人で苦しんでいる愚か者なのだ。

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    自分を苦しめているのは、自分

    2018.10.03 Wednesday 03:39
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      なぜにも毎晩、欠かさずに悪夢を提供してくれるのか。

       

      浅く、短い睡眠には、もれなく凄まじい悪夢がついてくる。

       

      最後に、『睡眠』を取ったのはいつだったか覚えていない。

       

      日々、心身にダメージを負い続け、肉体は弱る一方。

       

      精神的には、・・・。

       

      抑うつ不安障害。適応障害。耳鳴り。喘息。鼻炎。頸肩腕症候群。

       

      事故の際の怪我の後遺症による関節や靭帯の痛みと不具合。

       

      その他、諸々。列挙するだけ自分の哀れを慰めるようで、愚かだ。

       

      これらを『苦しみ』とか『不運』とかで捉えるのは好きじゃない。

       

      それが、自分なのだから。

       

      誰だって、健康で快活に働ける訳には行かない。

       

      自分に鞭打って、耐え忍んで無理をしている人。

       

      特に体に気をつけていなくても病気にならない人。

       

      皆、それぞれに違う。

       

      自分のことしか言わない、会話が成立しない『人』とかが、

       

      平気で『弱いヤツ』と言う。

       

      それなら、それで構わない。

       

      それでも、未だに『そのような人』ばかりが夢に出てくる。

       

      夢の中でまで、人を貶め、追い込んでくれる。

       

      いや、これは自分の心の襞に溜まった『澱』のようなもの。

       

      自分のあり方を映す鏡のようなもの。

       

      過去に縛られ、自分の愚かな行いなどの過去を悔いている。

       

      そう、自分によって、自分は苦しんでいるのかもしれない。

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      言葉はその人の顔になる、と思う

      2018.09.07 Friday 04:19
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        今のような時代にこそ、『言論の自由』というあり方を見直して、改めて考える必要を感じる。

         

        一概に『言論の自由』と言っても、そのあり方を悪用すれば、人は言葉でも人を殺せる時代だ。

         

        その重さ、責任をどれくらいの人が考えているのか。ボクには判らないので語る資格などない。

         

         

        もはや、貝になって『黙っている』方が賢明にも感じられる。逃げましょ。隠れましょ。とね。

         

        だが、一切の自分の中から発する『言葉』を失うとするなら、人と人の関係は根底から崩れる。

         

        どこまでも解り合えないとしても、すれ違いがあろうとも、人は、言葉で意思を示す生き物だ。

         

         

        だからこそ、気軽なネットの使い方次第で、人は自分の存在の『輪郭』を失うこともあり得る。

         

        いっそ、生活から『通信』というものを排除してしまいたいと思う。心の目を失いそうなのだ。

         

        何も見えない。見えたとしても歪んだ『何か』が交錯して見えないに等しい。今の自分は駄目。

         

         

         

        例えば、『自由』を手にしたと勘違いした人が放つ言葉は、『狂気』『凶器』にさえ変貌する。

         

        気軽に『呟く』としても、世界中に拡散すれば、総攻撃を受けることの覚悟も必要になるのだ。

         

        その『呟き』を見たくもない、こちらの意思をも打ち砕く力を持ってしまえる脅威さえ感じる。

         

         

        賢明には思えないけれど、もう『防御しかない』のだ。極力、ネットは見ない。利用を控える。

         

        その脅威は、テレビなどの媒体にも侵食してきて、他人の言葉に触れないことを予防にもする。

         

        娯楽とか、気晴らしとか、リラックスとか。大凡、対極にあるストレスが充満して息が苦しい。

         

         

        と言いつつ、某テレビ番組を録画で見ていた。その中で『マツコ・デラックス』が言っていた。

         

        このネット社会のあり方を俯瞰で捉えてマツコなりに感じたことに多少の発見をした気がした。

         

        要約し『人は悪口を言う生き物であると、ネットというものが見事に示してくれた』とのこと。

         

         

         

        一個人の見解として正解でも誤りでもない。一つの考え方として、こちらに何かを喚起させた。

         

        だが、その『ネットが人間の本性を見せてくれた』との発想を肯定的に捉えたなら楽にはなる。

         

        御釈迦様じゃあるまし、人が皆、純粋な善意だけで心を浄化し、邪気をゼロにすることはない。

         

         

        ネットに罵詈雑言が溢れていることは人間らしい。そこを出発点にして複眼的に捉え直すこと。

         

        それもアリだな、と思った。何気なく見たテレビ番組だが、ただボーと生きている訳じゃない。

         

        この世には、一人間にとって知らないことの方が宇宙規模で多く、心を閉ざすことは愚かしい。

         

         

        それでネットを敬遠し続けてきた自分の行為は、『逃げ』と捉え、自ら隠れていたと認識する。

         

        しかし、現代社会。山籠りでもしない限り、隠れるなんて出来ない。単なる精神的引きこもり。

         

        自分の足で、自分の目で、自分の心で、扉を開けて『外に出てみる』最初の一歩が必要になる。

         

         

         

        だからと言って、また連日ブログを更新することがいいとは思わない。まずは肩の力を抜こう。

         

         

        ボクは、『言葉がその人の生き方やあり方、心の具現』として、語彙と使い方が大切だと思う。

         

         

        その人の選ぶ言葉が最初の入り口になるし、表情、語り口など含め『表現』が顔になるだろう。

         

         

         

        人が普段使う『言葉』やそれに伴う『行動』がその人の人相を良くも悪くもすると思えるのだ。

         

         

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        死と向き合っていた時間の、後

        2018.06.01 Friday 03:59
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           ボクは、いま死のうと思っています。そのことを言葉という形によって、伝えようとしています。その言葉は、心を伝えるのではなく、心の存在を示すひとつの手段です。気持ちを伝えるのでははなく、『その、こと』を伝えるのです。

           では、なぜそのことを伝えるのか。それは、ボクには判りません。

           そのこと、つまり、死のうと思うことは、例えば交差点を渡ろうとすることにどこか似ています。

           道を歩いていたら、交差点があったのです。それは、偶然ではなく、むしろ必然のような気がします。ですから、交差点を渡るということをするために、特別な理由はいらないのではないか、と思えるのです。そして、『交差点を渡ります』と、発言するのはボクの自由で、特別な理由はないのです。ボクの中では、それら、『死ぬこと』と『交差点を渡ること』は、同列にあります。

           しかし、それが伝わるかどうかは、他者に委ねるしかありません。そのことに関しては、ボクは無力なのです。どのように解釈されようと、ボクは無力であり、ボクにとって、伝わるかどうかはどうでもいい、取るに足らないことなんです。

           解釈とは、人それぞれですから、解釈そのものには、意味など求めてはいけないのだと思えるのです。それに、元々、死ぬことにすら、意味などないような気がするのです。

           ボクは、無意味なことが、ただ好きなのかもしれません。

           そして、ボクは、ただ歩いていたらそこにあった『交差点を渡ろう』とすることと同じように、ただ『死のう』と想っているだけなのです。

           

           この宣言のようなものは、ずっとボクの中にあった想いであり、見ない振りをしていたもの。真新しいノートの最初のページに書き記したのは、つい昨日のことだった。

           

           ボクは、大学を卒業しても、そのまま就職をしなかった。まず何をしたらいいのかが判らなかった。それから今日まで4年余り、定職に就くこともなく、ただ惰性でアルバイトを転々として来た。それでいま現在は何も仕事をしていない。

           したがって、日々時間を持て余している。それで、散歩が日課になっている。

           そして、それはいつものように、午後の散歩をしている途中の出来事だった。

           お気に入りと言うよりも、成り行きでそのようになった、お決まりの散歩コースの途中にある歩道橋を渡って、向こう側の歩道に行こうとしていた処だった。その歩道橋の階段を昇り終える少し手前で、ふと視線を上げた先にひとりの女性を見た。

           

           彼女は、歩道橋のちょうど真ん中あたり、手すりの手前に背筋をまっすぐに伸ばして立ち、細い指先で銀色に鈍く光るピアスを、左右両方とも外し、それを掌に乗せ、しばらく眺めていた。ボクは足を止め、少し離れた手すりに寄り掛かって、彼女の斜め後方からその様子を見ていた。

           彼女は、その銀色の小さな塊から視線を少し上に向けて、淡い微笑みを浮かべ、おもむろにそれを頭上に放り投げた。そして、その放物線に目をくれることもなく、更に口元を緩め、音を立てずに拍手をした。

           路面に落ちたであろうピアスの行方は、ボクも確認しなかった。それよりも、歩道橋に手を掛け空を見上げた、彼女の整った横顔を見ていた。そして、程なくして歩き始めて、彼女のそばに近づいて立ち止まり、その次の瞬間にボクは、彼女に向けて自分の口から言葉が出たことに自分自身で驚いた。

           「捨てることはいい」

           自分の背中でした声に、彼女は振り返った。左の頬に涙が伝うのをボクは見た。そしてもう一度、「捨てることはいい」と同じ言葉を繰り返した。

           それでも、彼女はボクの視線をまったく存在しないもののように、それを無視して歩き出した。それでも、ボクは更なる不可解な行動に出た。

           「あさこさん」

           なぜそんな名前が出て来たのだろうか。ボクは彼女に向かってそう声を放って、しかも張り上げたその自分の声に例えようのない違和感を覚えた。

           少し距離を置いて、後を追うボクには、彼女の歩き方に変化を見ることが出来た。歩幅が明らかに狭くなり、膝のあたりにためらいのようなものが窺えた。

           「あさこさん」

           もう一度、今度は意識して穏やかに、そう呼び掛けた。

           彼女は体ごと向きを変えて、正面からボクを見据えた。そして、そのやや乱暴な口調には不釣り合いな『柔らかな』声で、

           「私は、あさこという名前ではありません」と言った。

           自分とほぼ同じくらいの年齢ではないかと思える彼女の頬には、もう涙はなかった。それを確認して、ボクは迂闊にも微笑んでしまった。

           「なぜ、笑うのですか?」

           「すみません。けっして笑った訳じゃないんです」

          と、ボクは間髪を入れずに丁寧にそう言った。

           「人違いをしています。私は、あさこという人ではありません」

           彼女は、少しだけ口調を緩めてそう言った。

           「人違いではないのです」

           怪訝そうな表情のままの彼女に向かって、更にボクは、

           「ぼくにとって、あなたがあさこさんであるかは、どうでもいいんです」と言った。

           「あなたがあさこという名前である可能性もある訳で、そのわずかな可能性を試すために、あさこという名前が必要だったのです」

           ボクは自分でも不思議なくらいに、すらすらと言葉を口にしていた。

           明らかに不快そうな表情でボクを凝視した彼女に、

           「怒らないでください。ぼくはあなたを呼び止めたかったのです」と出来るだけ丁寧にそう続けた。

           「ナンパですか?」

           前髪を掌でたくし上げた彼女の白い額に、再び前髪が流れるのをボクは見ていた。それはとてもしなやかで美しい仕草だった。

           彼女は、一度だけ瞬きをした。はっきりそれと判るようなやや誇張したやり方だった。ボクはそれを静かに見届けていたけれど、彼女はあからさまにそれと分かるよう、誇張した感じに体の向きをさっと変えて歩き始め、向こうの階段を降りて行った。

           ボクはそれを黙って見送るだけで、それ以上は何もしなかった。

           

           それが昨日の出来事だ。

           その直後に、ボクの心に炙り出された『想い』が、死のうと思うこと。そしてそのことを言葉という形によって、伝えようとすること。その言葉は、ボクの心を伝えるのではないく、心の存在を示すひとつの手段として、『その、こと』を伝えようとすること。それは、誰に向けてのものでもない、自分に向けての『宣言』のようなものだった。

           

           

           

          これは、ボクが25歳前後に書いた。小説でもなく、日記でもない。ただ、書いただけのものだ。

           

          ボクは不運な事故により、生活や人生など、大きく変化をし、色々とあり、廃人のようになった。

           

          22歳から社会復帰する27歳までの途中。『死にたい』と思う人間から『自己再生』を始めた。

           

           

          その一環として、ノートに手書きで、色々と心に浮かぶことを文章で書き記すことを続けていた。

           

          3冊のノートは綺麗な状態で保存してある。それを読み返すことはなく、先日久しぶりに開いた。

           

          その中で圧倒的に多かったのが『フィックション』だ。短編小説擬きの短い作り話を沢山書いた。

           

           

          その中の一つがこれだ。ただ、ボクははっきりと覚えていることとして、確実なものがあるのだ。

           

          これだけは、『物語』のように、長く書こうとしていた。だが、書き始めの『ここ』で挫折した。

           

          挫折と言うか、急に書くことをやめたと記憶している。ボクは、確かに何かを書こうとしていた。

           

           

          ボクは二十代という輝かしい時間を、自分の部屋に籠り、誰とも会わず、廃人のように過ごした。

           

          痩せ続け、体力も低下したまま、日がな一日横たわり、1分毎に『死にたい』と思い続けていた。

           

          そこから脱却することを自ら促して、『自己再生』を始めた。その一つが文章を書くことだった。

           

           

          だから、これは『死ぬことと向き合っていた時間』の『その後』を記したものだとも言えるのだ。

           

          その『自己再生』では、かつて経験した、音楽や映画や書物との融合を取り戻せたことが活きた。

           

          まさに『死にかけていた心』を動かし、生きることへの最初の一歩だ。ボクにとって貴重なもの。

           

           

          ボクは元々、絵を描いたり、楽器を演奏したり、何か『表現する』ことで心を柔らかくしてきた。

           

          そこで新たに『文章を書く』ことが加わった。稚拙だろうと『自分の言葉で書くこと』が好きだ。

           

          数年前、ボクは長編の小説もどきの代物を書いた。ただ一人の人しか読んで頂いていない。感謝。

           

           

          プロでもないのだから、音楽も含め、自己表現したものは大切な人だけにそっと伝えたいだけだ。

           

           

          昔書いた先の文章は、また新たな形で死と向き合っている『今の自分』に向け書いたのだろうか。

           

           

          苦しみは絶えなくても、死にたい気持ちは思い出せない。どんな苦しみも死で消えたりはしない。

           

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          友人、というものについて思うこと

          2018.05.25 Friday 02:11
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            ボクは今までに『親友』と呼べる人がいただろうか。などと、いい年齢になって思ったりする。

             

            現在は、今までに知り合った友人とは、誰とも交流がない。それにはいくつかの要因もあった。

             

            世の中には、『どうにもならないことがある』なんて、達観したようなことは、言いたくない。

             

             

            それでも、人との関係と築き、それを継続して行くことは、経験上、簡単なことには思えない。

             

            ボクは小学校2年で転校したので、隣に住む同い年の女の子、幼馴染とは自然に疎遠になった。

             

            転校先では、クラス変え毎に交友関係も変わって行く。社交的じゃない上に適応力もなかった。

             

             

            中学、高校では、いつも連んでいた仲間はいるにはいた。でも、彼らが親友だったと思えない。

             

            我が家は躾が厳しく、門限も5時だったので、楽しくなる前に帰宅することを余儀なくされた。

             

            単に『付き合いの悪い奴』という具合に、あからさまな『オミット』をよくされたりしていた。

             

             

             

            人のことを悪く言うことは避けたい。けれど、『いい奴』と思える人が仲間の中にいなかった。

             

            ボクは、バイトをしてレコードを収集していたので、多くの友人たちにレコードを貸していた。

             

            殆どがルーズな人で、その内、誰に何を貸しているのか把握出来なくなる、との状態に陥った。

             

             

            3年以上返ってこないものもあった。ある時、ボクは自分のレコードを1枚ずつ確認してみた。

             

            驚くことに、20枚近くがなかったのだ。覚えのある友人に片っ端から声を掛けて回収をした。

             

            中には、歌詞カードがグシャグシャになっていたり、ジャケットやレコード盤に傷があったり。

             

             

            この『物の貸し借り』を通し、ボクは人を信用するってことがどういうことか判らなくなった。

             

            ボクに『人を見る目がなかった』せいでもある。もちろん、ボクに落ち度がある場合もあった。

             

            それでも、一切の貸し借りをしないと皆に告げると、『ケチな奴だ』と言われるようになった。

             

             

             

            本当に信用出来る人がいなかったことは、いい年齢になってから、違和感と共に確信になった。

             

            学生時代と違い、それぞれ社会人になってからは色々とあるだろうし、関係性も変化してくる。

             

            やさぐれて『嫌な奴』になっていたり、いい加減な言動で人を振り回す人になっていたりなど。

             

             

            ボクが病気になった途端、皆、まったく寄り付かなくなった。その程度の関係でしかなかった。

             

            社会復帰で精一杯だったし、『友人』のあり方について考えないようになっている自分がいた。

             

            70過ぎた頃のタモリ氏曰く『友人はいらない』『面倒が増えるだけ』が額面通りかは不明だ。

             

             

            彼タモリ氏は、芸能界でもつるむ印象はない。決まった僅か『飲み仲間』がいるだけ、らしい。

             

            だが、ここ数十年、年末年始をタモリ宅で過ごす『草剛』を『親友だね』と照れながら言う。

             

            年齢を越え、『他人には知り得ない何か』があるのだろう。素敵な関係性を築ける『何か』だ。

             

             

             

            そのような関係は素敵だと思う。出逢いも別れも必然で、自分という人間の在り方にも思える。

             

            そこで、先日、敬愛する『井上堯之』氏の訃報で、小中学生の頃に親しかった友人を思い出す。

             

            彼は、『伊藤』君。太っていて、いつも穏やかで、優しく、誰からも嫌われることがない人だ。

             

             

            ボクは彼が4年生の時に転校して来たその日にいじめた。ボクは人と仲良くなる術を知らない。

             

            それは、現代の陰湿なものではなく、色々プロレス技を仕掛けただけの、ただのジャレ合いだ。

             

            ボクらは本気で組み合う中で、通じるものを感じ、その日からいつでも一緒にいる仲になった。

             

             

            彼は親が離婚をして、再婚同士の親と一緒に転校して来た。静岡に姉がいるとも教えてくれた。

             

            そのことはボクだけに話す秘密だと言っていた。小学生にとっては、ある意味、深い話だった。

             

            複雑な家庭事情から、彼は謙虚でいつも優しかったのだろうか。いや、彼本来の資質だと思う。

             

             

             

            彼の両親は雇われで米屋をやっていたので、お互いに一人だったから、二人は彼の家で遊んだ。

             

            殆ど物が何もない部屋で、メンコや相撲など物質的には貧しい遊び。二人きりでも楽しかった。

             

            そんな彼と共通点は音楽だった。彼は自己主張をまったくしないが、音楽の好みは最高だった。

             

             

            彼の家は経済的に厳しい環境だったので、レコードをそんなに買えないから選択は慎重だった。

             

            その彼の選択は秀逸だった。カーペンターズを最初に聴かせてくれたのも彼。小学生の時の話。

             

            殆ど誰も知らないような『井上堯之』のソロ・アルバムには、泣きそうな程に感動したものだ。

             

             

            高校で別々になり、会う機会も激減し、親の仕事の事情で突然引っ越していたのを後に知った。

             

            30歳過ぎた頃に、彼と思われる人から電話があったが、母が勧誘と間違えて切ってしまった。

             

            数年前に再発された『井上堯之』氏のアルバムを最近よく聴いている。人柄がにじみ出ている。

             

             

            この年齢になり、未だ人との関係を築けない。今は『寂しい』との感情も思い出せなくなった。

             

             

            友人関係って何なのかまったく判らない。けれど、彼がボクの親友だったことは確かだと思う。

             

             

            彼の部屋が鮮明に蘇る、『井上堯之』氏のアルバムの中で最も印象的な曲『一人』を聴きたい。

             

             

             

             

            この唄は、萩原健一と水谷豊による、伝説のドラマ『傷だらけの天使』の最終回で流れる。

             

            水谷演じる『アキラ』が風邪をこじらせ死んだ遺体を萩原演じる『アニキ』が捨てに行く。

             

            リヤカーに『アキラ』を乗せ、東京のゴミ捨て場である『夢の島』に運ぶシーンで流れる。

             

            伊藤君。いや、『イドじゃん』ボクがつけたあだ名。中学生のボクに名曲を教えてくれた。

             

             

            余談だが、本編では井上堯之バンドがゲストヴォーカルを迎えたヴァージョンを使用した。

             

             

            ボクはテレビ禁止されていて、このドラマは再放送でようやく観たので、唄を先に知った。

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            ちょっとした疑問、かなりの違和感

            2018.05.14 Monday 04:55
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              個人的にはまったく興味がない人である、『加山雄三』のデカイ船が炎上したそうだ。

               

              テレビ画面の中でその件について、憔悴した感じで本人がコメントするのを見たのだ。

               

              芸能ニュース自体興味ない。普段なら聞き流していたか、ただの情報でしかなかった。

               

               

              だが、ボクには、とても違和感を抱く言葉を彼が吐いたことがとても気になったのだ。

               

              彼にとっては『愛する』ものだったかもしれないが、庶民にはまったく縁のないもの。

               

              それを失い『自分の半身を失ったよう』と表現したことに、ボクは強く疑問に感じた。

               

               

              この人は、『本当に自分の半身を失うということをどう捉えているのか』という疑問。

               

              彼にとってどれ程に悲しいことが起きたか、知る由もない。その人自身の問題である。

               

              だが、実際に半身を失い、絶望したり、それを受け入れている人が存在している事実。

               

               

               

              この心情表現に、その人の生き方が見える気がする。言葉には、そのような力がある。

               

              世の中では、人知れずに予想を超える悲しい出来事が起きていることだろうとも思う。

               

              表現として『無神経』にも思える発言になぜ誰も疑問を持たなのだろうかと謎だった。

               

               

              人が一度放った『言葉』は、『なかったこと』には出来ない。ボクも相当バカをする。

               

              いい年齢になり、名も知れた人の発言には、不快な気分になった。これはボクの問題。

               

              差別用語に過敏で、様々なハラスメントに敏感に反応するメディアが、平気で流せる。

               

               

              通信拡散。匿名性。人が誰かを平気で攻撃し、節操も節度も失った現代を生きている。

               

              閉塞感でいっぱいなこの『窮屈な時代』に馴染めないボクの方がオカシイのだろうか。

               

              まあ、右から左に流せばいい。でも、人としてとても大切な問題にも思えてならない。

               

               

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              別れも出逢いも、なすがまま

              2018.04.12 Thursday 13:06
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                ボクは、人との関係における柔軟性に乏しい。資質なのか。人を見る目がないのか。

                 

                何十年も自分を生きてきて未だによく分からない。もはや、あるがままなすがまま。

                 

                 

                父が病に倒れてから10年余。死んでから5年。母の介護に携わってから5年が過ぎた。

                 

                その間には想定外のことばかり起きて、必死に受け入れつつ、今もこうして生きている。

                 

                 

                だが、この10年で、ボクは古くからの友人というものをすべて失った。

                 

                母の介護に没頭する怒涛の日々の中、ほぼ、人との関わりはゼロに近い。

                 

                誰とも会話をしない日が3日くらい続いて気づかなくても違和感もない。

                 

                 

                物の道理は抜きにして、人との関係を築く、継続する、維持するには努力が必要だ。

                 

                自分の問題、相手の問題。それが正しかろうが間違っていようが、受け入れること。

                 

                世の中から、理不尽なことはたぶんなくならない。狼狽えている猶予などないのだ。

                 

                 

                猜疑心などというものを一旦持ったなら、何も信じられなくなるし、縛られるもの。

                 

                道理や誠意や筋など捨て去ってしまえたなら、「何も考えない」心が増殖するだけ。

                 

                歴史の勉強をしても、その背景や成り立ちなどに目を向けないと学習にはならない。

                 

                 

                どう捉えても理に適わない、腑に落ちないこと。などでボクは多くの友人を失った。

                 

                凄まじい暴言を吐かれて縁を切られたり、納得出来ないまま、音信不通になったり。

                 

                それはいい気分はしない。こちらから関係を遮断したこともある、因果応報なのか。

                 

                 

                ともあれ、いい年齢になって、家庭も持たず、子も持たず、生涯孤独を邁進している。

                 

                今は親のご加護が許されているが、母が死ねば、即、生活の道は絶たれること必死だ。

                 

                でも、それが何だ。父が倒れたのきっかけに「死の準備」もどきを模索しているのだ。

                 

                 

                今更ジタバタしても始まらない。如実に「誰も他人のことなど考えない」と実感する。

                 

                自分を守り、なりふり構わず自分の心のテリトリーを死守しようと必死に生きている。

                 

                などと、乱暴に傍観するのだ。決めつけてはいない。そこに答えなどないのだろうし。

                 

                 

                いつでもどこでも、一緒にいて「心地悪い」「会話に無理がある」人が友人だろうか。

                 

                都合のいい時だけ利用されて、何だか騙されたような気分になる人を好きになれるか。

                 

                そういう類の人がボクの周りには多かった。常に違和感を抱きつつ孤独を恐れていた。

                 

                 

                トラウマなどと大袈裟に捉える必要はない。ただ、一緒にいて幸福ではなかったのだ。

                 

                 

                本当に大切な人はやむを得ない形で疎遠になった。それは、ボクに人徳がないせいだ。

                 

                 

                そうして、今日も声を発することなく、自分という存在に違和感を抱くだけの終日だ。

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

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                大丈夫じゃない、って言えばいい

                2017.01.07 Saturday 15:55
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                  正直、ぜんぜん、まったく『大丈夫じゃない』のだ。

                   

                  人はよく、『大丈夫だよ』とか、平気で簡単に言う。

                   

                  でも、こっちにとっては、『いい加減なこと言うな』となる。

                   

                   

                  だから、心の中で、『大丈夫じゃない』と呟くのだ。

                   

                  人が人を励ましたりするのは、あまり好きじゃない。

                   

                  その人の、いったい『何が判る』と言うのだ。

                   

                   

                  何も判っちゃいないのに、『さも判った風』に物申すな、と。

                   

                  乱暴な発想だ。実に、大人げない解釈の仕方である。

                   

                  でも、『大丈夫じゃない』のだから、仕方ないのだ。

                   

                   

                  ぜんぜん『大丈夫なんかじゃない』のだから。

                   

                  無理して、『うん、大丈夫』なんて言わなきゃいい。

                   

                  素直に、『大丈夫じゃない』って言えばいい。

                   

                   

                  これだけ、『大丈夫じゃない』って繰り返していると、

                   

                  もう、『どうでもいい』ように思えてくるかな、って思った。

                   

                  ちょっとは、『大丈夫かもしれない』って思えてくるか、と。

                   

                   

                  けれど、少しも『大丈夫』なんて思えたりはしないのだ。

                   

                   

                   

                   

                   

                   

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                  どのみち、人に生まれてきたのだから

                  2016.12.19 Monday 19:55
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                    小さい頃には、色々な夢があったような気がする。もう定かではない。

                     

                    自分がどんな少年だったか、なんて。思い起こしても、意味などない。

                     

                    あの頃、思い描いた自分になっているとか、いないとか。たら、れば。

                     

                     

                    結婚もしないで家庭を持っていないことに劣等感や妬み嫉みがあった。

                     

                    それも事実。他人の、子供や孫が可愛いとか。羨ましくて仕方なくて。

                     

                    一方で、離婚に生気を吸い取られ、人生終わったような人も見て来た。

                     

                     

                    どれが正解か。なんて、ない。『隣の芝生が青く見える』という例え。

                     

                    無い物ねだり。自分にない物の方がむしろ多い。何でも欲しがるのか。

                     

                    あれもこれも欲しい。なんて、そんな許容があるのか。満足するのか。

                     

                     

                    たぶん、いずれにせよ、いつでも、自分に満足や納得なんてないのだ。

                     

                    ただ、『キレイ事』は別。『お金はないよりあった方がいい』と思う。

                     

                    仕事や人間関係は充実していたに越したことはない。家族も然り、だ。

                     

                     

                    今現在の、ボクは相当に追い詰められている。経済的にも身体的にも。

                     

                    老後のことなど、考えられない。目の前の一日一日のことで精一杯だ。

                     

                    貯蓄があるってことが、どれだけ精神的に『ゆとり』を持てるかの話。

                     

                     

                    また、自身の経済状況に関わらず、『身内がいる』というのは財産だ。

                     

                    生涯独身。親類、縁者なしに等しい。って命綱を切られたようなもの。

                     

                    精神的なゆとりも持てずに、『自分だけがすべて』になるのは窮屈だ。

                     

                     

                    その『窮屈さ』を日々、感じ始めている。何かに急き立てられるよう。

                     

                    追い詰められる気持ちは、いいもんじゃない。生きた心地しないのだ。

                     

                    でも、それが自分の現実ならば、『どうこう』言っている場合でない。

                     

                     

                    なので、あーだの、こーだの。こうして御託を並べて自分を誤摩化す。

                     

                     

                    それしか、術がない。能無しである。それを確認しつつ、生きるだけ。

                     

                     

                    命絶えるまでは、生き続けるしかない。ならば、能書きも垂れるのだ。

                     

                     

                     

                     

                     

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                    逃げるは恥だが役に立つ、場合もある

                    2016.12.11 Sunday 16:55
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                      いわゆる『逃げ恥』今クール話題のドラマ。新垣結衣がとにかく可愛い。

                       

                      まあ、それはそれとして。このタイトル『逃げるは恥だが役に立つ』よ。

                       

                      逃げることは、恥なのかもしれないが、時にはいい場合もあると思える。

                       

                       

                      吉田拓郎の古い唄に『かくれましょ』というのがある。これに近い感じ。

                       

                      人間社会において、逃げたり、隠れたり。それもありだと最近思うのだ。

                       

                      どこから、どう攻撃されるか判らない世の中。いつ落とし穴に堕ちるか。

                       

                       

                      そんな危険に怯えているより、いっそ『逃げる』『隠れる』方がマシだ。

                       

                      誰に何を言われようとも構わない。あることないこと、人は言いたがる。

                       

                      だから、ボクはネットでのやり取りも一切ヤメた。怖いんだ、実際の話。

                       

                       

                      以前、得体の知れない者にブログが炎上させられた。あれは実にイヤだ。

                       

                      臆病者でいい。イヤな想いするくらいなら、逃げて、隠れてしまうのだ。

                       

                      すっかり、一人に慣れた生活。気楽とかじゃない。防御、に近いものだ。

                       

                       

                      自分のことを『不器用』とまで思わないが、無難に世間を渡れはしない。

                       

                      人ときちんと向き合おうとすれば、『痛い目』に遭う確率が高いと知る。

                       

                      バカ正直なのも、加減がある。ただ『バカを見る』だけなのは避けたい。

                       

                       

                      そんな訳で、『逃げるは恥だとしても、いい』と思う今日この頃なのだ。

                       

                       

                       

                       

                       

                      category:雑感 | by:hallysmilecomments(0) | - | -

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