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2017.07.23 Sunday
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    これで、いい訳ないじゃないか

    2016.11.06 Sunday 14:05
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      これで、このままで、いい訳なんて、ないじゃないか。

      これ、つまり自分。このまま、つまり、今現在の自分。

       

      それが、『いい』なんて、一度たりとも思ったことがない。

      常に、『どうにか、しなければ』『何とかしなければ』と。

       

      現状打破。目の前にそびえる壁を壊さなければ、とね。

      しかし、焦れば、すぐに、見事に、足許をすくわれる。

       

      で、転けてばかり。で、挫けてばかり。で、その先は。

       

      軸がブレているから、そよ風くらいでよろけてしまう。

      小さな石ころくらいで、躓き、振らついてしまうのだ。

       

      それは、何度も経験しているから、判る。

      そんな『学習能力のない自分』に呆れる。

       

      心の中で、『何がいけなかったのか?』と自問自答。

      でも、そんな自分の心の中には『答え』なんてない。

       

      腑に落ちることなど、死ぬまでない、半ば確信になる。

       

      見つからないものを探してどうする?とのデジャヴュ。

      でも、探して、足掻いて、心掻きむしってしまうのだ。

      何もせずに、無駄だとしても、省みずにはいられない。

       

      反省と後悔は違う。たぶん、違う、と思う。

      後悔は、心の襞に澱のように溜まるだけだ。

      では、反省は?何を生むのか?との疑問だ。

       

      ある疑問が、更なる疑問を生み、連鎖的に終わらない。

      この瞬間も、この一瞬先も、自分は自分でしか、ない。

      だからこそ、これで、このままでいい訳がない、って思う。

       

      いい訳がないじゃないか。

       

       

       

       

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      謝罪、っていったいぜんたい何だ

      2016.06.04 Saturday 17:17
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        日々刻々、どこかで誰かが誰かや何かに『謝罪』をしていることだろう。

        社会的に大きな影響のある場合は、カメラや記者を前に頭を下げている。

        よくある『不祥事』や『犯罪』『不徳』など、色々な『事を起こし』て。
         

        だが、凡その場合、それらは『体裁』であることが多く。真意はどこへ。

        ただ『謝罪をすれば済む話なのか』がいつも疑問に感じられるのは何故。

        そもそも、『謝罪』っていったい何だい。ボクにはその意義が判らない。
         

        かつて、会社勤めをしていた頃の話。ボクはある男に謝罪を要求された。

        病気療養で社会に出たのが遅かったボクは、上司が年下の場合があった。

        その謝罪を求めてきた人物も、年下の上司で、常に対で仕事をしていた。
         

        日がな一日中、一年中、十数年間、彼としか仕事をしていなかった苦痛。

        彼は偏屈者で、会社では浮いていたので、ボクも同類として浮いていた。

        更には『うつ』なども悪化していたので余計に会社で人間関係が拗れた。
         

        社会生活において、どんな仕事であれ、厄介な問題などはなくならない。

        しかし、無能な社長や上層部から執拗にボクは相当に追い込まれていた。

        扱い難い彼と仕事を出来る人はボク以外にいないと、忍耐を強いられた。
         

        彼とは、何度も何時間も色々な話をした。嫌々仕事をするのは不本意だ。

        だが、『どうにもならないこと』が世の中にはあるのだ。憔悴するのみ。

        もはや、『労働など無理な状態』になっても、休職はすぐに却下された。
         

        そんな心身共にボロボロ状態だった最中、その男から突然の謝罪の要求。

        新宿駅南口。何百人が行き交う中、ボクは謝罪の言葉と共に頭を下げた。

        屈辱さえも感じなかった。実際には、『訳が判らない』放心状態だった。
         

        彼曰く『俺の仕事を侮辱した』とのことだった。何のことやらさっぱり。

        その『謝罪』の時まで、ボクは彼に数週間、無視され続け、仕事をした。

        彼に指示されるまま、パソコン画面に集中し、凄まじい量の作業をした。

        ボクは耐えられなくなり、『自分が何か悪いことをしたのか』と訪ねた。

        身に覚えがないことを言われ、『謝罪すれば許す』と言われたのだった。

        おや?『謝罪』って何だい。『謝罪をすれば許す』ってどういうことだ。
         

        その前に『許す』って何だい。もっと対話して納得させろ、と思ったが。

        もうそれ以上、面倒なことは御免だった。雑踏の中、頭を下げ謝罪した。

        その日から、ボクはうつ状態が劣悪になり、ほぼ何も機能しなくなった。
         

        無視するような『陰湿』は、大人げないと個人的に思えてならないのだ。

        だったら、『侮辱された』と感じた時に言えよ。具体的に説明しろよだ。

        それもしないまま、数週間も無視し続けるなんて、仕事にも差し支える。
         

        不安障害も悪化し、満員電車に乗ろうとするだけで、吐き続けるように。

        日本で一番、乗降者数の多い巨大な駅のホームに直に横になったことも。

        誰もが『見ない振りをする』のが東京だ。横では女性が吐いていたりも。
         

        ボクの中で常に『謝罪』という言葉は、あの件のことに連結してしまう。

        連日、テレビ画面の中で、頭を下げて『申し訳ありません』って何だい。

        それで誰が納得をするのか。謝罪をすれば許されるのか。それは体裁か。
         

        ともあれ、人間関係ってヤツは厄介なのだ。判り合えることはあるのか。

        どんなに誠実でいようと、自己対峙をし、自己懐疑の念を持っていても。

        人との繋がりに、確信などない。生きている間は日々学習が続くだろう。
         

        もうこれで安泰、なんてない。肉体が退化し始めても、心に精進を促す。

        そう思いながら、謙虚な姿勢を続けてないと、人の中では生きられない。

        人も社会もお互いの首を絞め合い、煩雑で窮屈な状態に傾れ込む一方だ。
         

        もっとシンプルに、四季折々に触れ、この空を眺められないものなのか。

        呑気なことだと、それも『許されない』のか。おやおや、やれやれ、だ。

        ともあれ、人はなぜ、謝罪をするのか。そんな生き物は、人間くらいだ。
         

        余談だが、舛添がやっているあの見せ物は、『謝罪』をも超越している。

        明らかに確信犯として、『政治のしくみ』の問題をすり抜ける計算尽く。

        人間の醜い欲望を曝す、あの腐った眼差しは許す許さない以前の問題だ。
         

        そういった理不尽なことも、時が過ぎれば過去のことに出来るのが社会。

        だが、『個人』の心においては、それでは済まされない。しこりが残る。

        離職後、先の男に聞くと、『精神破綻しようが関係ない』と言い放った。
         

        彼の仕事を侮辱した覚えはないが、彼の中では『許せない』ことらしい。

        自分は正しいらしいのだが、こちらにとっては『未消化』のままなのだ。

        人の心にナイフを刺しておいて、自分の観念を押しつけて済ませられる。
         

        誰しも他人を傷つけることはあるだろう。だが、謝罪で帳消しになるか。

        彼の理論を逆手に、ボクも彼に『逆に謝罪しろ』と言えば気が済んだか。

        いや、それで済ませる程にボクは自分の心を論理的に捉えられはしない。
         

        折に触れ、『謝罪』との言葉がボクを襲う。それも宿命に違いないのだ。

        当然だが、その男の関係は人の精神状態をコケにした時点で終わらせた。

        ボクの人生において、少なからず影響を及ぼした人間たちと縁が切れる。
         

        これほどに、切ないことはない。でも、現実であり、受け入れるのみだ。



         

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        ふざけるなよ、JR東海

        2016.03.01 Tuesday 09:07
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          認知症患者が徘徊して列車事故で死亡して、その家族に賠償請求をした。



          よくある『列車遅延』及びそれに掛かった『費用』に対しての賠償だ。




          何を考えているんだ、と呆れるような会社が、JR東海だ。




          個人の介護責任に対して、大企業がそれをやったら、日本は潰れるぞ。




          ある意味、『人権侵害』にまで話が及び兼ねない危惧さえ抱いている。




          ただでさえ、高齢社会が現実になった今、『介護』は切実な社会問題だ。



          それを根本から否定するような、まさしく『暴挙』にしか思えない。



          時代に逆行するような、賠償問題に関する認識を押し通す会社は信用出来ない。




          まあ、JR東海など、利用することはないので、自分には関係ない会社ではある。



          だが、問題としては、大有りだと個人的には思っている。



          まさに、今、自分が親の介護の最中で、日々問題に直面している。




          政治を筆頭に、余りに無関心過ぎるように感じてならないのが、介護問題だ。



          日本は、介護関係において相当に対応が遅れている『後進国』だと実感する。



          この『介護問題に波紋を広げた』賠償問題に『企業の意識』が透けて見える。




          介護そのものも、人それぞれ。問題は、家族によって大きく違うのが現状だ。



          経済的に裕福な家族とそうでない家族でも大きく違うし、一概には言えない。



          こと、『認知症』は更に複雑で、個人個人で症状も言動も想定外になること。




          今回、監督責任で賠償請求された方は、85歳になる妻とその長男に対して。



          だが、20年以上も同居していない長男自身も高齢を迎える間近に違いない。



          大企業という『強者』による、『弱者いじめ』なる愚行は、日本社会の縮図。




          高齢であるにも関わらず、妻は認知症徘徊を24時間管理することへの責任。



          夜中も目を離せない中、妻がうたた寝をしていた隙に夫が徘徊に出て起きた。



          それを『落ち度』と言えてしまうのか。『過失』として賠償出来るだろうか。




          認知症患者さんは、10年後には推定700万人になるとされているらしい。



          現在も社会で認知されていない『闇』の部分として蓋をされようとしている。



          それを認知症高齢者を更に隅に追いやるような行動に出た巨大企業は何様だ。




          基本的人権を蔑ろにするような問題を『法廷』の場にまで乗せた罪は大きい。



          それをこの企業はどう考えているのか。弱者切り捨ての政治の後ろ盾なのか。



          いったい、社会はどこへ向かって進んでいるのか。悲劇として葬られるのか。




          世間ではほんの些細なこととして報道されている事実にも驚きしかないのだ。




          ボクは、現在、ほぼ『独り』で家事にも介護にも奔走している。実に孤独だ。



          まあ、孤独なんて『屁でもない』くらいに、四の五の言っていられない状況。



          それが、介護であり、そこに『金』や『家族関係』などの厄介な問題が絡む。




          キレイ事でも何でもなく、『日々学習』である。未体験の事ばかりが起こる。



          それに対応、処理していく肉体と精神がなければ出来ないことだと実感する。



          自分自身も病気を抱えて、出来ることなら『休みたい』と常に思ってしまう。




          でも、少しでも休みたいとか、楽をしたいとか思ったら、心の隙を突かれる。



          未だ『未知』の世界である『介護』に関して裁判を起こす発想が理解不能だ。



          裁判結果がどうあれ、このような裁判が起きたことに社会はどう反応するか。




          たぶん、介護に関わりのない人には、知らないで済む話でしかないのだろう。



          誰しも老いる。老いにも違いがある。『自分は大丈夫』と思えるのだろうか。



          何事も『その立場になってみないと判らない』こと。それが社会生活だろう。




          だから、世間が無関心であっても、それは、ボクがどうこう言う話じゃない。



          各々が、抱える様々な問題の内の一つだと思う。十人十色、千差万別でいい。



          ただ、ボクは介護に携わる一個人としてこの問題には無関心ではいられない。





          裁判の結果、遺族側の逆転勝訴になった。



          JR東海が720万円の損害賠償を請求していた訴訟に関して、



          死亡した男性側の家族に賠償を命じた第2審を破棄し、



          JR東海側の請求を棄却したらしい。



          これで、問題が終わった訳ではない。



          むしろ、これを機会に始まったのだ。




          個人的には、国の怠慢に思えるのだ。




          危機感のない今の政府など期待しないで、個人に向けられた問題。







           
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          持論、っていったい何だろうか

          2016.02.26 Friday 11:18
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            最近、やたらと『持論』を唱える人が多い。或は、『誰某の持論』と報道する。



            これには何だか気持ち悪さを感じる。まさにネット社会の象徴にも思えるのだ。



            別に肯定も否定もしない。勝手に唱えていればいいし、それはそれで構わない。




            ただ、疑問に感じ、ある種の不快感が拭えないのが『持論』だらけになること。



            現代社会で拡散する、凡その『持論』とやらは、『デジタル文字』なのである。



            その人との会話で得た話とは、まるで『別物』だと言うこと。これが違和感だ。




            人は皆それぞれ、生きて来た背景も経験も感じ方も違うのが母なる自然だろう。



            となると、『発想』も『思考』もそれぞれに『異なる』ものだ、とボクは思う。



            その『違い』ってものは、理解するのではなく、認識することが前提だと思う。




            ネット・ニュースの記事で読んだものは、ボクは『ただ受け流す』ことにする。



            たまたまネットで読んだ記事で、ぞっとするようなものがあるのは日常茶飯事。



            『タトゥーへの偏見は日本の「文化」?』などと、持論を宣っていた人がいた。




            星野リゾートの一部ではタトゥーを隠すシールを貼れば入浴が出来るとのこと。



            これに対し、ある程度知名度のあるらしい人が持論を述べていた。これが謎だ。



            まさに、ボクの持論を展開すれば、『星野リゾートのあり方』が大嫌いである。




            まあ、一個人の『持論』なので、『なぜ嫌いなのか』を説明する必要などない。



            そこで、この人曰く、『タトゥーを不快と感じるのは差別だ』とのようなこと。



            この『タトゥー』と『同性愛』とかを一緒くたにしている時点で論点がズレる。




            生まれ付きの性質と違い、タトゥーというものは『個人の自由』で入れるもの。



            それは『ピアス』も同じで、『不快に感じる人』がいるのは、至極当然の話だ。



            同性愛や人種差別と同列にして語ることに、ボクは『違和感』を抱いてしまう。




            このようにネットというものは、『何でもアリ』な世界としてボクには脅威だ。



            自分の思考をネットに載せる、ボク自身も『どうかしている』と自認している。



            だが、極力『断言』はしないようにしている。あくまで『自己確認』の手段だ。




            今の時代、ネットがないと『不便』『不利』な立場に追いやられる現実がある。



            しかし、小市民が端々で何を主張しても、せいぜい『混沌』になるだけだろう。



            だが、ある程度『発信力』のある人の発言は、慎重にしてほしい気がしている。




            それが一番恐ろしいことに繋がるとボク個人は思っている。『対立』ってやつ。



            世界情勢を鑑みるだけで、この『対立』がどれだけの『混乱』を生んでいるか。



            そこに『対立』が存在するなら、お互いを理解し合うなんて労力は無為になる。




            いつまでも世界が一つにはなれないことを証明しているのが、人間自身なのだ。



            差別もなく、違いを受け入れ合い、理解し合うことが出来たなら世界は平和だ。



            なのに、世界平和とは程遠く、日本だけにおいても混乱を極めつつある状態だ。




            何でこんな社会になったのか。ボクには判らない。判らないから脅威に感じる。



            少なくとも、急速に『ネットが社会に普及したこと』が、ボクの不安の根幹だ。



            なので、こうして距離を置いて『最低限』の関わりを持って、『模索』は続く。




            だが、ネットを利用すればする程、面と向かって対話することを大切に感じる。



            相手の言葉を聞き、自分の中で咀嚼し、それに対して、自分の言葉を用意する。



            ネットで世界が繋がっているなど微塵も感じないことを確認する度にそう思う。







             
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            死にたい気持ちは誰にも判らない

            2015.07.14 Tuesday 09:22
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              中学生がイジメを苦に自らの命を絶ったことで、色んな人が持論を展開している。



              このような問題が起こる度に『よくあること』だ。人それぞれが好き勝手を言う。



              真摯に且つ慎重に言葉を選ぶ人もいれば、乱暴に自分の考えを投げ放つ人もいる。




              先日、テレビで杉村太蔵が『病気で生きたくても生きられない人がいる』と言う。



              だから、『自ら命を絶つなんてよくない』と、さも知ったような口を聞いていた。



              ボクは『そういう比較』は好きではない。そもそも、論点が違う話になってくる。




              人は比較するものじゃないし、比較出来るものでもない。すべての人が違うのだ。




              都心に通勤していると、『当たり前のように』人身事故で電車が停まったりする。



              人身事故=飛び込み自殺だろう。自分の乗った電車がそれに遭遇したこともある。



              停車した電車内で長い間待たされ、動き出した脇にブルーシートが掛けられた人。




              まさに『他人事』として、もう『誰も気にしない』こととなっているのも事実だ。



              だが、そこには『自ら命を絶った人』がいて、人知れずに『苦しみ』が存在した。



              確かに『他人に影響の出ること』はいいとは言えない。多くの人に関わることだ。




              でも、その人が『どれだけ苦しく』『どれだけ切羽詰まっていたか』は知らない。



              ボクもかつて二十歳過ぎに『希死願望』と闘っていた頃があったが過去のことだ。



              それを克服してから数十年、ボクは『死にたい気持ち』が判らなかったのである。




              ウツや不安障害を抱えていても、『死にたい』と思わない自分になっていたのだ。



              だから、同じようにウツを抱えて『死にたい』と言う人の気持ちは判らなかった。



              同じ病気でも、人によって『まったく違う』ものであり、一般論で語れないもの。




              だが、ここ数ヶ月、ボクは相当参っていて不意に『死にたい』と思ったりもする。



              その瞬間は、『もうどうしようもない』ことに後で気付く。乗り越えられたらだ。



              何も『希望がなく、生きていくことを考えられない』程、追い詰められてしまう。




              本当に死にたくなったら、人にそれを気付かれないようになる。内に秘めるのだ。



              一人で抱え込み、八方塞がりになり、『命がどうとか、思考さえない』のである。



              そこで『命は大切に』なんて、油に火を注ぐような行為でもある場合だってある。




              自殺の名所では、『自殺を思いとどまらせる』ことをやっている人がいると言う。



              テレビ画面では、『思いとどまった人』が泣いている顔にボカシを入れ映すのだ。



              どうやって『思いとどまらせる』のか。ボクには、それも判らない。知り得ない。




              そのように『踏み留まる』ことも怖くて、瞬時に死ねる方法を選ぶのかとの想定。



              或は、『魔が差したように、フラっと』吸い込まれてしまう場合もあったりする。



              ボクも、電車を待っているホームに立ち、その『衝動』に駆られることもあった。




              それでも、ボクは『まだ生きている』=『死なないでいる』のだ。紙一重のこと。



              つい、数時間前にも、ボクは『これ以上、苦しいまま生きるのは辛い』と思った。



              そこを乗り越えての『今』だ。だからと言って、『苦しみはなくならない』のだ。




              こんな風にSOSを出しているのか『曖昧』なこともある。これはSOSでない。




              死にたい気持ちに苛まれている人がどこかにいることを忘れないようとの確認か。




              いずれにしても、人の気持ちを『判る』なんて、ボクには口が裂けても言えない。






               
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              複雑になり過ぎて、判りゃしない

              2015.07.10 Friday 03:59
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                生徒がイジメを受けていて、SOSを出していたが誰も救うことが出来なかった。



                まだ12支一回りしか生きていない子が自ら命を絶つ。何ともやり切れないこと。



                昨今、イジメ問題は教育だけに及ばず、社会全体において大きな問題にもなった。




                モンスターペアレンツの存在。教育現場での問題は様々な要素が錯綜するようだ。



                教師も『職業』として、『それ』をやっているような人が増えたようにも思える。



                端から見ていると、学校だけでなく、親や家族のあり方も変わってきた気がする。




                ボクが子供の頃にもイジメはあった。だが、とてもシンプルな問題だったようだ。



                小学6年の時、クラスでイジメがあったが、すぐ教師が解決したのを覚えている。



                イジメをした者を名乗らせたら、数名が自ら名乗った。実際、周りも知っていた。




                その6名くらいが教壇の前に立たされ、教師に説教され、一人一人ビンタをした。



                最期の一人は、余りの勢いに吹っ飛んで倒れ込んだくらいだ。生徒全員の前でだ。



                その日からイジメはなくなり、不登校になっていた生徒も登校するようになった。




                今の時代ではあり得ないことだろう。『体罰』と騒がれ、その方が問題にされる。



                そういう時代に子供であったボクが感じることは、『そんな複雑でない』ことだ。



                物事のあり方。社会生活。人との関係。凡その『生活要素』が判り易かったのだ。




                現代は、色々と複雑になり過ぎたように思う。街も社会も人間関係も何もかもだ。



                子供ながらに生まれた時から格差があり、恵まれた子は便利な物に囲まれている。



                やがてスマホが手放せなくなり、『画面』を凝視し、人との関わりもそれを介す。




                ボクも甥っ子たちを間直で見て来たけれど、まともに面と向かうことがなかった。



                彼らは、いつでもどこでも俯き、『画面』だけを見ながら指を動かし続けていた。



                自分の子供ではないから、客観的に『そのような姿』しか印象にないのが現実だ。




                幼い頃にはゲーム機。やがて携帯電話、スマホになり、タブレットなども加わる。



                ボクが育った頃にあった『自然』などはなくなり、整備された小さな公園になる。



                やれ『球技禁止』だの、そこでは色々な制圧がある。社会環境が窮屈なのも事実。




                どこでどう、今のような社会になったのか。ボクの理解の範疇を越えていること。



                イジメなどは、もはや子供だけの問題ではない。大人の間でもあるように思える。



                無責任さで自己防衛し、陰湿で執拗で、心の闇の部分が『影』で蠢く病巣になる。




                世の中、やれ『便利』だとコンピュータが進化を遂げれば、犯罪も深化していく。



                色々と『楽』になると言いつつ、ぜんぜん『楽じゃない』しくみに戸惑うばかり。



                時代を否定しても意味がない。否定する必要もない。ただ『判らない』だけ、だ。




                更に『判らないこと』は増えるだろうし、『判った振り』も出来なくなるだろう。



                それで、人は幸せなのだろうか。というか『幸せの定義』なんて解釈次第なのだ。



                お互いに『判り合う』ことなど、望んではいけない気がする。望んではいけない。





                 
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                言葉は、『生き物』だと思う

                2015.02.01 Sunday 06:11
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                  人は、言葉を使い、或は介し、他者との『関わり』を持つ『生き物』だと思う。



                  その人が使う『言葉』もまた『生き物』である。と常々、身を以て感じている。



                  人から放たれたのなら、発した言葉は消えることはなく、一人歩きさえ出来る。




                  増してや、『文章』にして残せば、それは『生き物』として如何様にも変化する。



                  恐ろしい『凶器』になった場合、もうそれは『別の生物』になってしまうことも。



                  この世では、『言葉』は、人を貶めることも、最悪、殺すことも可能なのだろう。




                  しかし、人の心から放たれる『言葉』は、『愛』にも、『勇気』にもなり得る。



                  例えば、それが、体温のある心から運ばれて、人の心の奥まで届いた時などに。



                  何物にも代え難い『尊さ』を持ち、人の心を動かす『力』さえも持つのである。




                  だから、ボクはずっと黙っている。言葉を放つ力が足りない自分を恥じている。



                  自分自身においては、時と共に更なる窮地に追い込まれ続け、言葉を失うのだ。



                  航海の中で舵を見失っている時に、潮に流されるまま、なす術もない無能者だ。




                  今の生活において、殆ど人との関わりを持たない自分の言葉は『無』に等しい。




                  かつて、ヒットラーが暗躍する最中にチャールス・チャップリンが放った言葉。



                  自分が暗殺の標的になることも辞さない状態での『言葉』には『力』があった。



                  映画『独裁者』におけるラストの『言葉』に中学生のボクは心に衝撃を受けた。




                  最近、そのごく一部がCMに使われているのを見た。商売に利用されてしまう。



                  それも『言葉の宿命』だと素朴に感じた。金が動く場所では、切り売りはアリ。



                  誰でもない、『力のある者』の影響力は脅威でもある。良くも悪くも、のこと。




                  混迷を極める『世界』に取り込まれている実感をするニュースが日々流される。



                  人は、『何』を『どう』感じるのだろう。ボクには判らない。さっぱり不明だ。



                  そこで『判った振り』も出来ないし、『見ない振り』も出来ない愚か者である。




                  言葉は、生き物から『悪』として『ゾンビ』になり得る可能性が加速している。



                  ネット社会では、俯瞰で見る意識を削ぎ、一面的な、その場だけの感情も生む。



                  独り善がりのような、誹謗中傷、否定など『負』の『文字』で溢れているよう。




                  そして、スマートファンの急速な普及で人が『それ』に追いついていけてない。



                  その虚をついて、犯罪が蠢く温床を提供しているような危惧を個人的に感じる。



                  どこまでも底の見えない『闇』に踏み込んでしまう人と言葉はどこへ行くのか。




                  さて、自分はなぜネットを否定しつつ、こうして言葉を放つのだろうとの疑問。



                  それが解けないから、ネットの中で模索を続けてきたけれど、もうお終いかな。



                  何も『見出せなくなった』ようだ。模索だけでは『何も動かない』ことを知る。




                  このような『戯言』を認識しつつ、文字にして残すのは如何なものなのだろう。




                  まさに、この行為は、自分にとっては、『無能』な自分を確認することである。




                  今一度、チャップリンの放った言葉を反芻してみたい気もする。言葉とは何だ。




                   





                  これを『正解』とか断言はしない。ある種の『提示』だと思う。どう感じるかは人それぞれ。


                  この映画が作成されたのは75年前のこと。彼はアメリカを追放されてまで何を貫いたのか。


                  語彙に乏しく強気な自己肯定しか出来ない一国の総理に、欠けているものが見える気がする。




                  時に『言葉』は、その人そのものを示す。言葉を放つ度、問題も生まれる覚悟も受け入れる。




                  言葉、というものが、自分ではない対岸の他者に『どう解釈』されるかの熟慮が必要に思う。




                  ネットは『繋がっている』などとは思えない。個々が別々の『対岸』とせめぐ場所のようだ。







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                  他人のことなど、たぶん考えてない

                  2014.12.08 Monday 13:01
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                    人が自分以外の人のことを考えている。なんてことは、凡そ、キレイ事にも思える。



                    自分の行動、発言で、他人を救っているかのような勘違いをしてしまいがちな人間。



                    でも、人は、他人のことなど『判る』など『ありえない』とボクは前提にしている。




                    時には『余計なお世話』もあるし、『判った振り』の押しつけもあるように思える。



                    例えば、同じ頭痛や腹痛でも、人によって『まったく違うもの』なのだろうと知る。



                    これをしないままでいると、『その気持ち、判る』とか平気で言えるのが不思議だ。




                    世の中では、クリスマスとか、選挙とか、危険ドラッグとか、話題が錯綜している。



                    問題が解決しないまま、山積していく様は、まさに今の自分の暮らしのようである。



                    たぶん『考えてない』ことを認識していないのかもしれない。との危機感が希薄だ。




                    社会がどんな状況なのか、まったく把握出来ていない状態で、政治家が司る社会だ。



                    与党圧勝、のような感じ。『庶民感覚』が欠落した人が、この先も経済を操るのか。



                    麻生が相変わらず『失言』を平気でしている実態もあっても、誰も考えないだろう。




                    乱暴に言えば、『人は、他人のことなど考えていない』と思ってしまう自分がいる。




                    そういう自分も、他人のことなど考えていないことは否定出来ない。危機感がある。




                    今は、自分と自分を取り巻く『ごく狭い暮らし』のことだけで、精一杯なのだから。




                    まったく『明日が見えない』のだ。一年先のことなど、考えも及ばないのが現実だ。




                    こうした『戯言』も、空々しい。自分が自分でない気がして、気持ち悪いのである。








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                    ねずみ講、を連想してしまった

                    2014.08.24 Sunday 06:03
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                      最近、世界を巻き込んで『アイス・バケツ・チャレンジ』という行為が広がっている。



                      難病である『筋萎縮性側索硬化症』の認知と研究支援のために始まった運動との話だ。



                      それ自体は、悪いことじゃないと思う。だが、ボク個人は何か違う気がしてならない。




                      誤解を承知で言えば、『ねずみ講』を連想してしまった。『不幸の手紙』とかも、ね。



                      オバマ大統領などにも及んでいる。日本でも著名な人々がこれに参加しているようだ。



                      そこで、某芸人から指名を受けた『武井壮』氏がこれを拒否したことが話題になった。




                      バケツに入った氷水を被るか、寄付をし、次に3名を指名するというしくみのようだ。



                      同じく指名を受けた『鈴木おさむ』氏は、『もうそろそろ』と次の指名をしなかった。



                      事の真偽など、誰にもつけることは出来ない。ボクも『いい、悪い』で批判はしない。




                      だが、武井氏が拒否した理由として主に『難病は他にもたくさんある』ことは事実だ。



                      むしろ、この病気は、数ある難病の中でも比較的その存在は知られているように思う。



                      その他、様々な支援や寄付に『その思いを回したい』とのようなことをはっきり言う。




                      これは、ネット社会で『批判』を浴びる状況の中で、とても勇気のある行動に思える。



                      実際、ボクの知り合いで、この難病で亡くなった人がいるが、その真実など判らない。



                      時折見掛けると、車椅子の上で動くことも喋ることも出来ない状態しか見えてこない。




                      家族の暮らしやその壮絶な介護など、話で聞いても、その病気のことなど知り得ない。



                      ボクには、治ることがなく進行する『膠原病』という難病を抱えて苦しむ友人がいる。



                      その人とメールでやり取りしても、ボクには『その苦しみは知り得ない』と痛感する。




                      日々『自分がいつ死ぬのか』に怯えている。それでも、メールの言葉は優しさ溢れる。



                      この世には、人々に認知されていない難病は数知れずあり、知らないままでいられる。



                      ネットで検索しても、そこに『真実』はないだろう。『想い』と『行動』は、別物だ。




                      社会的に影響力のある人々を巻き込んで、話題だけが先行していくことはどうなのか。



                      フジテレビの社長など、自社のテレビ番組で氷水を浴びる姿を公開したのには呆れる。



                      何だか『イベント』のようになって、それを際限な拡散していくことはどうだろうか。




                      東北震災の時に、テレビカメラを連れて炊き出しの様子を公開した芸能人も多くいた。



                      一方では、誰にも知れずに、自前で炊き出しを続けていた江頭さんなどもいたりする。



                      慈善行為には、常に何かしらの『疑問』が伴うのは避けられない。当人のみぞ知るだ。




                      ボクは、バカなので、『ねずみ講』や『不幸の手紙』を連想してしまい違和感もある。



                      難病を支援することは悪いことじゃない。けれど、この『イベント』には疑問がある。



                      ただの『イベント』で収束し、やがて『誰もがそれを忘れる』ことの方が問題だろう。




                      これは、ボク個人が感じることであって、『正しい』なんて思っちゃいないのである。




                      判らないからこそ、慈善キャンペーンで終わらせずに、他の難病にも目を向けること。




                      そのきっかけになれば、意義も見出せる。疑問は、疑問のまま、答えなど出ないのだ。




                      相当な額の寄付が寄せられたが、他の難病で苦しむ人はこれをどう見ているのだろう。




                      テレビなどでは、肯定的な報道ばかりが目立っているが、偏りは危険な気がするのだ。









                       
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                      戦争も教科書の中の出来事になる

                      2014.08.23 Saturday 05:05
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                        8月、と言えば、ボク個人は『日本における戦争』について頭から離れないでいる。



                        広島、長崎への原爆投下。そして、終戦。この時期、テレビでも特番をやっている。



                        だが、『戦争話の番組』は今では視聴率も低いらしい。特に若者には興味ないのか。




                        まあ、その手の番組を放送しても、『戦争の何かが判る』ことはないとも思えるが。



                        何事も『すべて』が判ることなどない。真実は、幾つもあり、真偽も断定出来ない。



                        歴史を紐解いたら、日本がどのような流れで戦争に至ったのか、何をしてきたのか。




                        ボクは、学生の頃はバカで勉強などしなかったので、歴史にはまったく詳しくない。



                        しかし、親は戦争体験者で、色々と話を聞いた。あくまで、経験者の話として、だ。



                        父は日本橋、母は新宿に生まれ育ち、共に、東京大空襲で、住む家を消失している。




                        父などは、リヤカーに簡単な荷物だけ積んで、爆撃の中を逃げた経験があるそうだ。



                        父の兄は、戦地で負傷して、麻酔なしで片足を切断した。そういう話は多く聞いた。



                        ボクにとっては、『戦争の語り部』のような存在がいて、『戦後』を体験している。




                        ボク自身、考えてみたら、戦後十数年で生まれている。十数年なんてあっという間。



                        どちらかと言うと、『戦後』に近いので、『教科書の中だけの話』ではないだろう。



                        だが、昨今は『戦争も風化しつつある』のは否めない。もう『過去のこと』なのか。




                        未だに『韓国』『中国』『ロシア』との関係には歪みがあり、戦後は続いたままだ。



                        今年の広島での『平和式典』において、安倍首相のスピーチが一部で問題になった。



                        昨年の内容とほぼ一緒で、『コピペ』と報道されたりしている。真偽は定かでない。




                        しかし、恐らく自分で原稿を書いていないのか、安倍本人も気付かないとも思える。



                        この式典そのものが、『儀礼的』なものとして、形骸化しているとの指摘さえある。



                        個人的な見解は避けたい。ボクは『何も知っちゃいない』のだから、謙虚でいよう。




                        ただ、この先もどんどん戦争体験者がいなくなり、『資料』などが一人歩きもする。



                        凡そ、『自己を正当化する』のが人間の性なのか。真実は闇に葬られていくだろう。



                        そして、現在も世界で戦争が起きていることを『対岸の火事』と捉えてしまうのか。




                        そのような若者が大人になった頃に、子供たちは、何を信じるのか。判らないこと。




                        教科書には、文科省の審議があり、それをクリアした文言だけが子供に届くしくみ。




                        特に『社会科』の教科書は厳しく、一語一句、原稿が書き直されたりするのである。




                        戦争を知らない子供たちでなく、戦後を知らない子供たちに社会が委ねられる時代。




                        教科書は何も教えてはくれないだろう。自分で学ぶ意識を育むかで変わる気がする。








                         
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