そう、理由ははっきりしているのだ
人には、『好き、嫌い』があって、どうしても克服出来ないものがあるだろう。
ボクは、どうしても『ツイッター』が好きになれない。はっきり言うと嫌いだ。
まあ、『インスタグラム』も好きではないが、見なければそれで済ませられる。
どちらにせよ『SNS』には極力触れたくないのだが、今の世では不可能に近い。
最近、芸能人の謝罪も『ツイッター』でされたり、ニュースで取り上げられる。
かの『トランプ』は、重要な政治的発言も『それ』で乱発しまくっておられる。
何が嫌い、って、自分の中で理由ははっきりしているが、説明する類じゃない。
いわゆる『デジタル・タトゥー』として、一生消えない場合が多いに違いない。
なのに『フェイク』だったり、『拡散』とやらで、真実が捻じ曲がったりする。
とても怖いことだ。本人の口から直接言うべき言葉も『空々しい』内容になる。
更に『誰もが言いたい放題』が野放しにされていて、それを批判したりもある。
その『ツイッター』を介し、面と向かわず、人と人が互いを否定し合う醜悪さ。
それに比べ『インスタグラム』は害が少ないようだが、どこにでも危険はある。
もはや、世で乱発される『映え』も苦手だ。『そこにある真実は何?』と思う。
その『映え』の『拡散』により、人が一極集中して『欲』が群がる光景は怖い。
下手すると、お店などは、営業や経営にも影響し、経済が歪む可能性も大きい。
ボクにとっては、そんな社会はとても生きた心地がしない。忙しくて騒々しい。
人の世で怖いもののひとつが、『偏り』だ。何事も偏りを修正するのが難しい。
加えて、『人の愚か』を助長する役割も担う。無責任な『悪質動画』も醜悪だ。
彼らから『罪の意識』が抜け落ち、呑気に『罪深いことを自分の愚か』で晒す。
それこそ、『お店を潰す』ことも簡単だ。膨大な損益を生むことさえも出来る。
その『人の意識』を鈍くさせることも『罪』が深い。『手軽さ』が助長させる。
このままでは、社会がおかしくなるだろう。人の関係性も、経済も、心さえも。
勝手に不安が募る一方だ。もっと穏やかにもっと伸びやかに暮らしたいと願う。
それでも、『アイティ業界』は極端に世を牛耳って、富裕層にも成り上がった。
もう誰にも止められないだろう。もう誰も止まらないだろう。きっと恐らくは。
自分も細々ブログで、少しでも体感して、その恐怖を忘れないようにしている。
人は言葉で意思疎通をする生き物だが、かつてそこに『空気』が介在していた。
言葉だけでなく、その人の表情、声、喋り方、雰囲気、あらゆる『空気』たち。
それらには言葉に出来ない『感情』や『想い』が詰まっていて、相手に伝わる。
手書きの文字にも似て、『行間を読む』可能性も受け手側に委ねられたりする。
どんなに『コンピュータ』が発達したとしても、それは不可能に近い程に困難。
ネットの『デジタル文字』、手書き文字を画像にしても、二次元に変わりない。
ボクは頑なに『アナログ』に固執している訳ではない。自分の中の模索である。
件の謝罪を『ツイッター』でされても、誰に向けた物か、何が伝わるか不明だ。
文字や言葉が勝手に一人歩きをすることの怖さをどこまで真摯に受け止めるか。
もはや、デジタル世界に抗うことは不毛な行為にもなる。だから断定はしない。
ボクは、人との関係や繋がりを疎かにしたくないから、『誤解』を前提にする。
どんなに熱い想いでも、相手にどう伝わるかは、解釈を相手に委ねるしかない。
人を大切に想うからこそ、『SNS』と距離を置くボクなりの姿勢を貫いている。
メールも必要最低限しか利用しない。ので、『ツイッター』など思考にはない。
ここ数年間、日々切羽詰まった暮らしを続けていると今の世は生き苦しくなる。
日常、社会との関わり、人間関係、あらゆる在り方に『デジタル』が介在する。
『繋がり』で『孤立』が際立ち、『映え』が『卑屈』を生む可能性もあり得る。
『つぶやく』『ハッシュタグ』『シェア』とか、聞いただけで吐き気さえする。
もうこれ以上追い込まれたら、苦しみに耐えられなくなる。必死に堪えている。
今この瞬間も目に見えない『不安』に押し潰されそうだが、1日を始めるのだ。
何かを楽しむ余裕は微塵もない。やることが便秘のように詰まって不調を招く。
そう、理由ははっきりしているのだ。自分を生きるために防衛本能が働くのだ。