これが本当の最後です

2018.11.04 Sunday 04:18
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    心も体も、もうこれ以上は無理と言っているので。

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    腐った人の世、さようなら

    2018.10.29 Monday 14:45
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      おしまいです

       

       

       

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      いったい、笑いはどこへ行った?

      2018.10.25 Thursday 16:09
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        その昔、民謡に歌詞を乗せた反戦歌として『花はどこへ行った』という唄があった。

         

        改めて歌詞を読み返してみると、シンプルな言葉の中に無限の想像が詰まっている。

         

        強い語気で『主張』をする訳ではないけれど、それが却って言葉の力を感じさせる。

         

         

         

        そこで、ここ十数年、切実に思うのは、『笑いはどこへ行った』ということ。

         

        懐古趣味やノスタルジアで言うのではなく、暮らしの中で実感していること。

         

        かつて人々の暮らしの中に存在していた『牧歌的のどかさ』を顧みてのこと。

         

         

        洗脳のように、人も社会も『時間に追われて、急かされている』ように思う。

         

        これは、嘆きとかではなく、日毎にその感が強まり神経を擦り減らしている。

         

        徐々に、見えない間に侵食していく『ウィルス』の如く、心が蝕まれていく。

         

         

         

        例えば、仕事でパソコンを使うようになってからの25年余りで感じること。

         

        まず『処理速度』の違い。日々刻々忙しく競うように別次元の速度になった。

         

        進化する程に、『もっと、もっと』と人の心や暮らしを侵食していくようだ。

         

         

        時に眉間に皺を寄せ、誰もが俯向き、画面を見ることが日常的な光景になる。

         

        電車の中、寝ている人以外、席に座っている皆がスマホを弄っていたりとか。

         

        その光景に恐怖すら感じるのだが、社会からはみ出した人は置いてけぼりだ。

         

         

        もっと『ゆっくり』と『ゆったり』と、『たゆたう時を愉しみたい』と思う。

         

         

         

        そして何より、ボクは日常の中で『笑っていない』ことが現実となっている。

         

        常に様々なことに追われ、精神的にも肉体的にも余力を失くしているせいか。

         

        誰とも関わりを持たずに、社会のしくみから外れて、黙っているせいなのか。

         

         

        ともあれ、『笑い』は大切だ。『笑いのない』生活はあらゆる『気』が滞る。

         

        人にとって『笑うこと』は心身に良い影響があると経験でよ〜く知っている。

         

        この『笑い』の欠片もない、今の暮らしは、『死に体』も同然に感じている。

         

         

        果たして、暮らしの中の『笑い』は、跡形もなく消えてしまったのだろうか。

         

         

        まずは、『笑い』の生まれる『間』が欲しい。音に例えるなら、こんな感じ。

         

         

        ここには『隙間』が溢れている。目を瞑れば、泉のように、『想像』が湧く。

         

        ボクは、最近、危機感に苛まれると、3年前に出逢えたこのアルバムを聴く。

         

        これまでも、そして、これからも素敵な『出逢い』はある。だから、生きる。

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        幸せなんて、頼りにはならない

        2018.10.24 Wednesday 16:16
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          西向きの窓辺に膝を抱えて座っていると、暖かい陽だまりに包まれる。

           

          この世からすべての音が消滅したように、とてもとても静かな時間だ。

           

          苦しみも、痛みも、不安も、自分を解放してくれたかのように静かだ。

           

           

          幸せなんて、頼りにはならないもの。そんな歌詞の古い唄があった。

           

          でも、この世に『頼りになるもの』なんて存在するのだろうか。

           

          何一つとして、『確かなもの』なんてないような気がする。

           

           

          束の間の陽だまりの中、暮れ行く毎に、『温み』が薄れていく。

           

          陽が沈めば、この世は真っ暗な闇に包まれる。

           

          光も影もない、形を失った世界は、目には見えない。

           

           

          だから、何も不安に感じる必要はない。

           

          いたずらに『不安を抱える』のは自分。

           

          自分が、ここから一歩ずれてみれば良い。

           

           

          幸せに形があるなら、この薄れゆく陽射しのように、

           

          やがて跡形もなく、消えてなくなる。

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          関係なくても、誰もが言いたい放題

          2018.10.21 Sunday 13:56
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            ここ直近の話題で言えば、ジュリーこと『沢田研二』の『ドタキャン問題』について。

             

            芸能人、一般人問わず、誰もが『言いたい放題』するのは、当たり前、になっている。

             

            その『問題に何も関係ない』にも関わらず、ご意見番の如く批判するのはどうだろう。

             

             

            この『ライブ直前のドタキャン』は、それに関わった人にすれば、『酷い話』だろう。

             

            でも、それにまったく関係ない人にとっては、『意見する』なんておこがましいこと。

             

            やれ『プロとして失格』とか『バカにしている』とか、無責任に言うのは実に簡単だ。

             

             

            でも、これが『情報社会』なのだろう。あらゆる『メディア』で誰もが言いたい放題。

             

            ボク個人的には、余計な雑音でしかないので、触れたくないし、関わらないで済む話。

             

            なのに、テレビ、ラジオ、ネット、生活の中に存在する『情報源』では避け難いこと。

             

             

            個人的な見解など『賛否』あって然ること。直接、関わりがないのなら、黙ることだ。

             

            例えば、『消費税』とかの、国民全部に影響があることなら、人の意見は重要である。

             

            ややこしい仕組みに戸惑う人や翻弄される人ならば、『思うこと』はあるに違いない。

             

             

            悪質な『飲酒ひき逃げ』とか『詐欺』とか、『人としての在り方』は各々考えること。

             

            その問題に意識を持ち、その人なりに思考を巡らせ、自己対峙するかはその人の問題。

             

            何も感じず、適当に受け流し、何が起きようとも、『善悪の彼岸』は眼中の外にある。

             

             

            まあ、『善悪の彼岸』なんてことをここで言葉にする自分もどうかしているのだろう。

             

            そういう『具体的なこと』を言葉や文字にすることの影響を考えていない証拠になる。

             

            ボクは象徴的宗教には興味ないので、この言葉の選択も間違いであるとの確認だけだ。

             

             

            だが、このような『雑音でしかない情報』を遮断するには、今の社会生活では困難だ。

             

            もう、テレビもラジオもネットも一切『触れない』しかないのではないかと思うのだ。

             

            窮屈極まりない。元々『娯楽』であったものが、受け取り方では『苦痛』になり得る。

             

             

            ので、ボクは『いつ』『どのタイミング』で『通信』を遮断するか、常に悩んでいる。

             

            今の暮らしにおいては、これを遮断すると、それ相当の『不便』が生じるので厄介だ。

             

            スマホを持たないとか、現代社会における利便性の高いものから距離を置くしかない。

             

             

            はてさて、どうしたものか。今日も行楽日和の中、一人で苦しんでいる愚か者なのだ。

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            生きていくことに何も見出せない

            2018.10.21 Sunday 12:54
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              増税。

               

              東京オリンピック。

               

              キャッシュレス、電子マネー。

               

              人工知能。

               

              ネット社会。

               

              情報錯綜。

               

              無責任。

               

              無関心。

               

              不信感。

               

              便利さが生む更なる不便さと格差。


              人は、人のことを考えなくなった。

               

              政治家、様々な公務員の体たらく。

               

              マナーやモラルも死語になるのか。

               

              もう、生きていくことに何も見出せなくなった。

               

               

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              被害者意識、という見えない傷

              2018.10.15 Monday 09:29
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                昨日、突然、左脚の膝に激痛が走り、歩行が困難になった。

                 

                何かやった、という訳ではない。突然、立ち上がる瞬間に。

                 

                ここは、その昔、事故で被害に遭った影響による古傷だ。

                 

                マニュアル車では、左脚はクラッチを踏む作業が重要だ。

                 

                対向車がいきなりセンターラインを越えて正面から突っ込んできたら、

                 

                まず避けようとハンドルを切ると同時に、

                 

                右脚ではブレーキ・ペダルを踏み込む。

                 

                ブレーキを踏む場合、僅か先に左足ではクラッチ・ペダルを踏む習性になっている。

                 

                クラッチ・ペダルは、完全に奥まで踏み込まなければならない。

                 

                ほぼ間違いなく、対向車が衝突して来た、ほんのコンマ何秒か。

                 

                完全に左脚が伸びきった状態のまま、フロントが潰れる程の衝撃を受けたのだ。

                 

                鉄の塊がペチャンコになるような衝撃を全身に受けたであろう。

                 

                事故の衝撃と多分ショック状態のせいで、全く痛みを感じなかった。

                 

                数週間後に、突然、左膝と左腰の痛みを感じ、歩けなくなった。

                 

                母が重傷を負ったせいもあり、相当に気が張り詰めた日々を送った。

                 

                すでに、事故の事後処理が終わった後だったし、

                 

                相手と保険会社が同じだったせいで、うまいことやり込められた。

                 

                事故による怪我である証明の仕様がなければ治療は全額自己負担。

                 

                左腰は椎間板ヘルニアで常に下肢に痺れがあり、僅かな動きで激痛が走る。

                 

                座ったり、立ち上がるだけで1分くらいを要する程の激痛だった。

                 

                約3ヶ月の間、座ることも寝ることも苦痛のまま、歩行も困難だった。

                 

                ので、膝は費用節約のために治療をせずにヘルニアの治療に専念した。

                 

                後に、事故による『心的外傷後ストレス障害』で様々な不具合が出始めた。

                 

                これも全く事故保険の対象にはならなかった。

                 

                事故に因る証明が出来ないこと、時間が経過していること。

                 

                1個人では、組織に太刀打ち出来ないような仕組みが出来上がっていた。

                 

                いざとなったら『出さない』保険会社が潰れない所以などどうでもいい。

                 

                100%相手の過失と認められた加害者による事故でもだ。

                 

                何より、その加害者に誠意もなく、揉め事も勘弁して欲しかった。

                 

                ただ、『自分が被害者である』という、余計な意識だけが残った。

                 

                それを『心の傷』とかで、簡単に言葉にしたくもなかった。

                 

                でも、何十年経っても、『傷は癒えていない』ようなのだ。

                 

                かの『阿久悠』の作詞でヒットした、沢田研二の『時の過ぎ行くままに』という唄。

                 

                その一節に『体の傷ならなおせるけれど、心のいたでは癒せやしない』とある。

                 

                ボクは、この唄が大好きなのだが、この一節はいつまでも心に引っかかるのだ。

                 

                出来事は偶然ではなく、必然であったとしても、それを受け入れるのは難しい。

                 

                あらゆる『被害者』の方たち。自然災害。性被害。暴力被害。数多いる被害者。

                 

                その方たちの気持ちは、同じ被害者であるボクでも察することは出来ない。

                 

                皆、それぞれに『違う』のだから。

                 

                だからこそ、せめてボクは、『被害者意識』を持ちたくはない。

                 

                と思っていること自体が、すでに持ってしまっているのだろう。

                 

                ほんの一瞬の出来事で、その後の暮らし、すべてが変わってしまった。

                 

                それを言い訳にして、『失ったもの』を探すようなことはしたくない。

                 

                でも、こうした多くの不具合で益々生活が苦しくなっているは事実だ。

                 

                 

                category:試練 | by:hallysmilecomments(0) | - | -

                前後、上下、左右、そして中心

                2018.10.14 Sunday 09:02
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                   『もっと前向きに考えられないの?』

                   鈴子によく言われること。反芻してみる。これまで何度、それについて考えても僕の中では、明確に捉えることが出来ないでいる。

                   いったい『前向き』って何だ?

                   それ以前に『前』ってどっちなのだ。

                   

                   物事を理論的かつ筋道を立てて寸分の迷いなく言葉にして放つことに長ける鈴子は、いつでも朗らかに颯爽としている。目力があり、まっすぐ人の目を見る透明感が凛としている。男前な性格をしていると思う。いや、鈴子にだって当然、色々とあるだろうし、まったく迷いや悩みがない訳ではないだろうが、それを極力、他人に見せたりはしない。そういう意味では、人として尊敬している。男前などと形容することは明らかに的外れだ。こういう安易な発想の生み方自体が前向きじゃないのだろうか。

                   僕は他人から放たれた言葉を真摯に全身で受け止めてしまう。それに連動して、自分の中から生まれた思考や言葉に対しても、用心深く確認行為をすることが癖になってしまっている。

                   でも、判らないことはどこまで行っても判らないままなのだ。

                   

                   鈴子は、僕にとって『書物』だったり、『映画』だったり、『音楽』のように、あらゆる『何か』を提示してくれる存在だ。実際に、僕らはそれらの趣味趣向に共通するものが多く、お互いにいい刺激を与え合い、尊重し、受け入れられる。ある種のソウルメイトにも感じる。だが、恋人ではない。僕はずっと一方的に彼女に片想いをしているが、友達以上恋人未満などという常套句のような関係は微動だにしないくらいに揺るぎない。僕の気持ちに気付いているのかどうか、お互いにその類の話題には今まで触れたことがない。今現在、鈴子にも恋人はいない様子だが、今の所、僕は告白などしたりしない。それで簡単に壊れる関係なら、その程度のことなのだろうし、恋愛を含めて、人との関係性は必然的になるようにしかならない。

                   高校に入学した直後、隣同士の席になった僕らは、ためらいもなく自然に言葉を交わした、いち男子といち女子だった。その距離感がほんの少し他の誰よりも近いことを自分の中に感じ、それが鈴子にとっても似たような感覚だったことから、20代半ばになった今までに僕達は有り体の男女とか友人とかと違う地平に立って時間を共有してきた。社会人になった今、会う機会は激減したが、学生時代の頃と変わりなく、言いたいことを言い合える数少ない人でもある。お互いの考え方や言葉を遠慮なく提示し合い、それに対して自分の中から新たな地平に登る階段を発見し得る、対等な関係という人としては唯一無二の存在にも思える。

                   また、社会に出てそれぞれに別の環境に身を置くようになってからは、時には、勢い余る硬い話ではなく、ある種の言葉遊びのような、現実的問題に何の関連もない、日常から数ミリ浮いた状態で相手の発想を面白がる、楽でゆとりのある会話もするようにもなった。

                   

                   改めて『前向き』というあり方について考えてみる。人はいつでも前を向いている。後ろは後ろであって、後頭部があり、背中やお尻がある。前には目があり口があり、耳があり、胸やお腹や生殖器がある。

                   これは、余りに稚拙過ぎる単なる概念であり、まさに鈴子には『ただの理屈』の一言で片付けられてしまうだろう。

                   でも、だ。上下左右、前後。全方位を見渡して見ても、この地球上の重力に従えば、この目で見ている方向が前であって、後ろを振り返れば、そこが前になる。その『前』と言うあり方を思考に置き換えることが僕の中ではまず最初の難関になる。

                   前向きというだけで、混乱してしまう。人は自分の中の語彙から便利な言葉として選択し、無難に都合よく使える。それらを真正面から受け止めて、その上に考えてしまうのだから、出口のない迷路に入る前に、一旦、この話はある時点で、クロゼットの中にでも仕舞った方が賢明かもしれない。人の中の語彙は、その人がどのように生きてきたかの具現でもあるように思う。人それぞれ、で片付けてしまえば、会話に花が咲くことはなく、実を結ぶこともない。

                   

                   多分、世間一般で言うところの『ポジティブ』『ネガティブ』との区分なのだと思う。まあ、そう暫定的に捉えれば、鈴子の言う通りだ。石橋を叩き過ぎて、渡る前に橋を壊してしまう。自分を取り巻くあらゆる事象を受け流すことをせず、取捨選択に更なる迷いを生み、これだ、と即決する信念が僕に欠落していることは、幼少期より身を以て体験済みで、色々と余計なことを抱え込んでしまったりしている生き方を変えられないでいる。

                   どんなに鈴子の心の動きや行動力を羨ましく思っても、僕には彼女のような生き方は今の所、出来そうにない。

                   でも、誰がその『ポジティブ』か否かというあり方を判定するのだ。ヒヨコのオスメスの性選別みたいに、『はい、これはポジティブ』『はい、これはネガティブ』と断定して決められた箱に入れられるというのだ。

                   

                   物事を曖昧にすることは、いい意味で、時には発想の柔軟性を持つとの点においては必要な気がする。決めつけないこと。この世にはアダムとイヴしかいないのか。そんなことはあり得ない。

                   近年、にわかに『ジェンダー』との言葉が多用されたり、GLBTとも真摯に向き合うことも避けられない時代になってきている。その物事に答えを当てはめることが全て正しいということはない気がしている。

                   僕がこのような理屈を言えば、鈴子は多分『そこなのよ』と言うだろう。問題は問題として心の引き出しにきちんと保管し、肝心な時に出し入れをして、自分のあり方との距離感を見失わないようにすればいいだけの話。『ことをややこしくないのよ』という声が聞こえてきそうだ。

                   

                   僕は一人で過ごすのがまったく苦にならない。妄想したり、一人遊びが好きだ。その延長で、このような自分で用意した迷路に入り込むこともよくある。堂々巡りかもしれない。でも、決して無駄なことじゃないと今までの経験の中で活かされていることもあったりするのだ。

                   

                   でも、今日は久しぶりに鈴子に会いたい。貴重な休日をこのように出口のない自分の中だけの思考と向き合っていることを話したら、鈴子は、飛びっきりの笑顔を見せることだろう。でも、それは見下すような失笑、苦笑ではなく、今の僕に起きている問題に介在する重苦しい空気を一蹴するような愛ある行為に他ならない。

                   

                   いずれにせよ、前後、上下、左右。その中心にいるのは僕以外の何ものでもないのだ。

                   

                   

                  こんな学生時代や二十代を過ごせたら素敵だろうな、などと愚にもならないフィックションを書いて、ほんの気分転換をしてみた。

                   

                  category:フィックション | by:hallysmilecomments(0) | - | -

                  ボクの左手の人差し指は1本だけ

                  2018.10.13 Saturday 16:00
                  0

                     

                    数ヶ月前から左手の人差し指の第二関節が痛み出した。

                     

                    手の甲の側、外側の曲げると尖がる部分を触ると出っ張りがある。

                     

                    何か、関節にしこりがあって、それがどんどん大きくなっている。

                     

                    半径5ミリくらいのしこりがあって、関節の曲げ伸ばしの際痛い。

                     

                    しばらく放置していたが、先日、整形外科に行って見た。

                     

                    レントゲンには何も写っていない。

                     

                    医師は『これは関節包が変形して腫瘤が出来ただけで問題ない』と言う。

                     

                    場所によっては痛みを伴うこともあるけど心配ない、と。

                     

                    ボクは仕事のパソコン操作でマウスを使い過ぎてこれが悪化したことがある。

                     

                    右手の手首。腫瘤が強大になり、神経に触れて激痛に耐えながら仕事をした。

                     

                    で、どうしようもなくなって結局、手首を切開して除去手術をした経緯がある。

                     

                    それに比べたら大したことない。いや、比べるものじゃない。

                     

                    左手の人差し指が痛み、痺れがあるのも、別に平気ではない。

                     

                    常に痛みを感じるし、不快だし、ギターも弾けない。

                     

                    まあ、ここ何ヶ月ギターをケースから出してもいないけど、

                     

                    先程、試しに弾いてみたが、やっぱり痛みで弾けなかった。

                     

                    病気になると、『それなら大したことない』とか、

                     

                    『その程度で済んでよかったじゃない』とか、言う人がいる。

                     

                    ボクは、その手のことは言わないようにしている。

                     

                    その程度でも、不便はあるだろうし、お金が掛かるだろうし、

                     

                    何より、『なっていない人』に言われても慰みにもならない。

                     

                    ボクは今現在、片手では足りない数の病気や不具合を抱えている。

                     

                    それら全部が、治療して治る保証もないし、そんな暇も金もない。

                     

                    その殆どは放置したまま、悪化しているものもあるが仕方がない。

                     

                    これは、嘆きじゃない。ただの現実だ。

                     

                    さらに左手の人差し指1本が不具合になっただけのこと。

                     

                     

                    category:試練 | by:hallysmilecomments(0) | - | -

                    本、の手触りや匂いが大好きだ

                    2018.10.12 Friday 10:33
                    0

                       

                      ボクは、物心ついた頃から父による言葉の暴力によって、『貶される』ことにずっと怯えていた。

                       

                      幼くして、『言葉』というもののイメージは『負』に偏っていた。『三つ子の魂百まで』なのだ。

                       

                      そして、授業で『教科書を読まされる』ことが大嫌いになり、高校生の時にはトラウマを負った。

                       

                       

                      そのせいで『本』が嫌いか。と言うと、それはまた別問題である。むしろ、本が好きだったのだ。

                       

                      親の躾も厳しく、『外で友達とのびのび遊ぶ』なんて殆どなくて、人との関係も築けなくなった。

                       

                      学校でも休み時間に、一人で『図書室』の片隅。絵本をめくっていた。絵も大好きだったのだし。

                       

                       

                      あの頃に愛読していた絵本を大人になって、『原書』つまり洋書で何冊か買っていたりしている。

                       

                      そのせいか、ボクの記憶の奥には、本の、紙の、『手触り』や『匂い』が鮮明に焼き付いている。

                       

                      例えようのない『郷愁』も感じるし、様々な作り手の想いが見える『美しさ』に魅了されている。

                       

                       

                       

                      学生時代には音楽にお金を注ぎ込んでいたので、本はほぼ安価な『文庫本』を買って揃えていた。

                       

                      で、たまに『これぞ』という本を厚手の装丁の『単行本』で買うと何度も撫で、匂いを嗅いだり。

                       

                      本を手に、ページをめくる瞬間には心の中に風が吹く。印刷文字、言葉の向こう側に広がる宇宙。

                       

                       

                      特に『マット紙』のザラっとした表紙にはエモーショナルを感じる。エンボス加工はセクシーだ。

                       

                      ボクは、デザインの仕事をしていた影響もあるが、デザインと紙質や書体で魅力も大きく変わる。

                       

                      たった一冊の本でも、無数の夢が詰まっていた。時と共に紙が褪せていく様にさえ風情を感じる。

                       

                       

                      そのせいか、ボクは本はネットで買わない。都心にあるビル一棟本屋みたいな所で物色して買う。

                       

                      実際に手にして、自分の五感全てでその魅力に触れないと、本を選ぶことには躊躇いが伴うのだ。

                       

                      商売の仕組みに変化があり、それが困難になっているが、楽器なども現物を見て触れてから買う。

                       

                       

                       

                      近年、スマホなどで本や漫画も気軽に読める。その読み方で育っていく人が大多数になるだろう。

                       

                      あらゆる分野で『紙』の存在が希薄になっていく。それを嘆いても仕方ない。五感はどうなるか。

                       

                      世の中に抗う必要もないし、それを批判することもしたくない。でも、抗い続けているのは事実。

                       

                       

                      音楽に関しても、『配信データ』の普及が音楽の質の低下にも加担していると勝手に思っている。

                       

                      シングルにしろ、アルバムにしろ、音楽再生の手段となる媒体で、作品や商売にも影響を及ぼす。

                       

                      ジャケットのデザインを含め、五感の内、どれも疎かに出来ないと思う。奥行き、幅、質と量も。

                       

                       

                      そんな具合で、『時代遅れ』と言われようと構わない。最先端に囚われたら、新⇄旧の徒競走だ。

                       

                      まあ、個人的見解はどこへも行かない。と、自分の愚かさを自覚しつつ、能書きは垂れるものだ。

                       

                      何れにしても、この世から『紙』とか『印刷』というあり方がなくなったら、悲しい、のである。

                       

                       

                      今でも、本を手にページを捲ると、心が落ち着く。楽器を手にしたら、演奏しないでも心が踊る。

                       

                       

                      そういうことって、ボクにとっては、暮らしの中でとても大切なことになる。心のストレッチだ。

                       

                       

                      デビュー作から愛読していた『村上春樹』のハードカバーを最初に買ったのは30年以上前の事。

                       

                       

                       

                      本を包んでいるパラフィン紙は茶色に褪せているが、本体はまだ綺麗な状態。エンボスがいい。

                       

                       

                       

                      ボクが敬愛する『片岡義男』は文庫本で200冊近く持っている。これは紙質とデザインが好き。

                       

                       

                       

                      喪失感を抱えた『ロスト・ジェネレーション』の象徴的作品。外国文学にハマっていた頃買った。

                       

                       

                       

                      軽井沢の絵本美術館で原画を見てから、ネットで探してやっと見つけた実に豪華で愛らしい絵本。

                       

                       

                       

                      何度も訪れた軽井沢の絵本美術館で最も感動した原画。その売店で買った絵本。初版は1911年。

                       

                       

                      物は時間と共に消耗するし、劣化もする。でも、その過程がすごく大事で、自分の一部にもなる。

                      category: | by:hallysmilecomments(0) | - | -

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