絶望までの距離は見えない

2018.09.21 Friday 05:45
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    一昨年の暮れ。

     

    夜に喘息の発作が出て、2、3時間耐え続けた。

     

    それでもあまりに酷いので家族に促され、

     

    病院に電話をして夜間診療を受けた事がある。

     

    ステロイド系の点滴と吸引を受けて治まった。

     

    後日、かかりつけの医師に話をしたら、

     

    開口一番『君より苦しんでいる人はいっぱいいるんだから』

     

    と医師としては信じられない言葉を真顔で言われた。

     

    心の中で、『医師のお前が言うか?』

     

    そんなことは『当たり前』と言うか、考えなくても判ることだ。

     

     

    誰がどれくらい苦しいのか、なんて比べようがないし、知り得る由もない。

     

    皆、自分は自分しか生きられないのだから、自分の経験でしか計り得ない。

     

    同じ病を抱えている人でも、その重さに違いがあっても、

     

    この人が一番辛くて、この人はそうでもない。なんて言えない。

     

    人のことが判らないから、『思いやり』『心遣い』は生まれる。

     

     

    ここ数週間は、苦しみに耐え続け、更なる苦しみは深まり行く。

     

    でも、『絶望』などはしていない。

     

    実際には、『これが絶望』だなんて多分わからない。

     

    常套句として、『最悪と言えるうちは、まだ最悪ではない』ということ。

     

    これは、何の気休めにもなりはしない。

     

    ボクは、『精神論』が好きではない。言うことも、言う人も。

     

    人一人が死ぬまでに人が知り得ることなどは高が知れている。

     

    知ったようなことを言うことは、実に愚かだと歳を重ねる毎に実感する。

     

     

    まだ、ボクは『絶望』までの距離がわからないのだ。

     

    苦しいことに違いないが、その苦しみにも底がない。

     

    どこまで耐えられるか、それもその人次第。

     

    なら、何も望むまい。

     

    いたずらに何かを望んでも、誰も助けてはくれない。

     

    また逆も然り。ボクに誰かに対して何が出来るのか。

     

    どんなに誠意を持っても、どんなに真摯に向き合っても、

     

    ほんの『手助け』くらいしか出来ないだろう。

     

     

    今、苦しんんでいる自分をどうにかするのは、自分しかいない。

     

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    負の連鎖から抜け出せない

    2018.09.17 Monday 03:08
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      苦しみはまるで蟻地獄のように、

       

      その中へ引きずり込まれたら逃れられない。

       

      足掻けば足掻く程に、どんどん沈んで行く。

       

       

      苦しみに底はない。

       

       

      愚かなり、

       

      自分の責任でやること。

       

      自分で自分の首を絞めるような、

       

      自分で自分を追い込むような、

       

       

      このまま永遠に闇の中。

       

      朝は来ない。

       

       

       

       

       

       

       

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      新しい一日など始まりはしない

      2018.09.15 Saturday 03:59
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        苦しみながらも、やっと眠りに入った。

         

        浅い眠り。

         

        最初から最後まで凄まじいまでの悪夢。

         

        苦しいだけの眠りから逃れると、

         

        そこには『現実』とも思えない『闇』がある。

         

        そして、まるでデジャヴュのように、

         

        強烈な耳鳴りが轟いている。

         

        拍動性で、血流のリズムで音が増幅する。

         

        365日。24時間。

         

        常に自分との闘い。不毛な戦いは続く。

         

        昼も夜もない。今日も明日もない。

         

        新しい一日など始まりはしない。

         

        ただ、時間は常に来ては去って行くのみ。

         

         

        昨年末に10年以上使った携帯が壊れ、止むを得ず買い換えた。

         

        いわゆるガラケーからガラケーに。選ぶ程機種がないから楽だ。

         

        それから何ヶ月経ったのか。

         

        一度も電話を受信していないし、

         

        一通のメールも来ていない。

         

        正確には毎月来ている。携帯会社から請求額の知らせ。

         

        愚かな生き方しかしてこなかった証を日々確認している。

         

        だから、みんないなくなった。

         

        それでも、『寂しさ』という感情も忘れてしまったので、

         

        それがどうこう、ではない。

         

        ただの現実であり、暮らしは続く。

         

        どんなに苦しかろうが、自ら死を選ぶことはない。

         

        いつかは死ぬのだ。

         

        その日まで生きる。

         

        責任を持って、自分でやることが山のようにある。

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        苦しみ続けることに疲れたみたい

        2018.09.14 Friday 06:23
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          苦しみ続けて生きることに疲れてしまったみたいだ。

           

          30数年?

           

          楽しみとかは無縁のまま、病気などの苦しみにじっと耐えつつ、

           

          何とか気力を維持してきたのだが、

           

          そこには『無理』が重なっていた。

           

          1秒たりとも止まない耳鳴りもすでに6年が経つ。

           

          昨晩などは、頭蓋骨中で轟音が鳴り響くようで、

           

          気が変になるのを必死で堪え、睡眠もままならなかった。

           

          それでも、毎日、毎日、朝から晩まで24時間『休み』はないのだ。

           

          よく『主婦に休日はない』と言うが、まさにその通り。

           

          恵まれた『金』と『時間』がある人は別にして。

           

          少しでも怠れば、家中、あらゆる所が汚れ、傷み、不具合が生じる。

           

          母の介護も先が見えない。

           

          日々、老いていくのを実感する。

           

          ほぼ、毎日、誰とも会わず、誰とも話すことなく、

           

          同じような1日が過ぎて行く。

           

          とても人間の暮らしとしては不健全に思える。

           

          その上、人間は食事を摂らなければならない。

           

          それも、栄養のバランスなど考えたり、当然、出費もかさむ。

           

          ここ数週間は、陽気の変動に左右され、体調不良も続いている。

           

          実際には、もう何十年も体調不良がフラットな状態なので、

           

          更なる『苦しみ』とも言える。

           

          もはや『苦しみ』と共に生きることに、疲れたみたいだ。

           

          常套句のように『ため息の分だけ幸せが逃げる』なんて、嘘だ。

           

          精神的にも、医学的にも『ため息を吐く』ことはいいらしい。

           

          だから、ため息を吐きたいだけ吐いている。

           

           

          これは、ただの独り言。ただの戯言。

           

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          スーツの似合う、ロック・スター

          2018.09.12 Wednesday 07:45
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            ロック。かつて、1970年前後を期に若者を魅了した音楽。精神的指針。ファッションまで。

             

            だが、ボクは、ロックに魅せられた一人として、それらが形骸化された『イメージ』が苦手だ。

             

            長髪にすればロックか。指を立てればロックか。酒に溺れて暴れればロックか。いやいや、だ。

             

             

            社会に不満を抱えたり、何か革命でも起こそうとか、見掛け倒しの暴走が音に反映するものか。

             

            勢いでプロデビューしても、実力が伴わないとすぐに淘汰される。一発屋も吐き捨てる程いる。

             

            ただ、ボク個人は、ロック=ワイルド=悪ぶる。って感じはあまり好きではない。薄っぺらい。

             

             

            いつの頃から身体中に入れ墨を入れまくる人が増殖していた。ある意味、『没個性』に感じる。

             

            指原莉乃が的確に言った『人に見られる商売なら、批判も受け入れる覚悟』で入れているのか。

             

            個人的には違和感がある。スポーツ選手も然り。地肌が見えない入れ墨には威嚇されてしまう。

             

             

             

            そこで、だ。ロックの過渡期に数々のスターが続出した時代、『個性』が音楽の顔にもなった。

             

            デヴィッド・ボウイの奇抜な外見は時代と共に『変遷』した。固定概念を自ら打破するように。

             

            入れ墨を入れるのは個人の自由だが、肝心なのは『音楽』だ。同じようなスタイルには萎える。

             

             

            そんな中、髪型もスーツもバシッと決め、表現する音楽の印象とのギャップが素敵な人がいた。

             

            ヴォーカリストとしてボクが敬愛する『ロバート・パーマー』だ。彼の『声』が大好きだった。

             

            残念だが、道半ばで急逝してしまった。あの『声』の魅力はいまでも褪せることなく心に響く。

             

             

            音楽性も豊富で、アルバム毎に違うベクトルの表現に挑み、見事に自分の個性に昇華している。

             

            生バンドの揺らぎ。コンピュータによる冒険。違うジャンルのメンバーでの化学反応を求めた。

             

            彼の作品が現在殆ど入手困難になっている。多くの遺産を粗末にする音楽業界に未来はあるか。

             

             

            久しぶりに彼の艶っぽい声が聴きたくてデビュー作から聴き直して見た。やっぱりカッコいい。

             

             

            エリート銀行員みたいにスーツを纏い、クールにシャウト。リスペクトに値する奥行きの深さ。

             

             

            ハードに弾けるロックからマーヴィン・ゲイのカバーまで、ソウルフルな魅力は一貫している。

             

             

             

             

             

            音楽に限らず、『表現』において『スター』が出にくい商売は益々先細り感が否めないだろう。

             

             

            パッと売れ、名が知れても、いつの間にか『別の誰か』にすげ変わる。その程度の実力なのか。

             

             

            最新機種を求め、それまで活用していたものに対する感謝の希薄にも似て、どこか滑稽に映る。

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            当たり前、って、有り難いこと

            2018.09.08 Saturday 10:20
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              先日、もうとっくに寿命を超えていた『ガス給湯器』が壊れた。ある日、突然、前触れもなく。

               

              日々の暮らしの中で、『当たり前』だと思っていたことが、とても『有り難い』ことだと思う。

               

              当たり前に『水』が使え飲め、『火』が使え、『電気』が使える。雨風が凌げて、横になれる。

               

               

              だが、それらが予期しない形で『なくなる』ことに関して、ボクは気付かない振りをしている。

               

              そもそも『当たり前』=『有り難い』ということを忘れてしまえる。それがボクという愚か者。

               

              語源である『あることが難しい』ということ。それに感謝する基本に立ち返る必要があるのだ。

               

               

              季節感失せた今年。特に夏には、『異常な雨』『台風』『地震』など災害が続発してしまった。

               

              自然の前では人は無力なのだ。などと分かった風なことは言いたくない。何も分かっていない。

               

              それでも、ここ数日に曝け出された現実をどう捉えたらいいのか。自分の中で真摯に考えたい。

               

               

               

              自分は冷房の効いた部屋にいて、『大変だ』とか、まして『可哀想』などと思ってはいけない。

               

              迂闊に言葉を発することが出来ないでいる。或いは、発したくない、との逃げ場に駆け込んだ。

               

              何が正しいとか。何が間違っているとか。そういう『責任』を放棄した『信用ならない』男だ。

               

               

              それが自分である。その自分と対峙しながら、ボクはこのように『能書き』を垂れているのだ。

               

              我が家の給湯器に関しては、新しい物の設置工事を済ませ、暖かい風呂に入れるようになった。

               

              経済的には厳しい状況が続き、個人的には『身体的不具合』は加速度を増して悩みは消えない。

               

               

              ここ数ヶ月は、持病の喘息の発作が起きているが、高価な治療薬を捻出するのを躊躇っている。

               

              ならば、自分の『欲』を滅して、様々な不具合それぞれの病院に行け、と自分との対峙は続く。

               

              それでも、何を最優先するべきか。自分でも判断が出来ない。まさに『責任逃れ』とも言える。

               

               

               

              親の介護で混乱しているとか。家事ややるべきことでパンクしそうだとか。言い訳は尽きない。

               

              そんな中でも、自分の欲も捨てられない。自ら吐いた言葉『惜しみない愛を』が聞いて呆れる。

               

              人は、切羽詰まってから、自分の無力を知る。自分の愚かを知ることはまだ救いがあるだろう。

               

               

              ボクは、まだ二十歳前に、まったく予期せぬ大事故に遭遇して、身を以て痛い目に遭ったはず。

               

              それにより、人生が予想だにしない方向に外れた。その後の何十年間、苦しみ続けているのに。

               

              その学習を活かせないまま、今『言葉を失っている』なんて、我ながら情けないにも程がある。

               

               

              ただ、いつまでも、『当たり前』が恒久的に続くことなど、何の保証もない。それを痛感する。

               

              貝になり『黙ること』も逃げるように『隠れること』も、これ以上の恥は避けようと苦慮する。

               

              自ら死んでも楽にはならない。生きている間は生かさせて頂く。現実を受け入れ、後悔しない。

               

               

              すべてに感謝しつ、自分の出来ることをやり続ける。望むことは、皆が穏やかに暮らせること。

               

               

              あらゆる事象、想定内か否かに関わらず、誰もが晒される自然界で生きている。忘れたくない。

               

               

              他人事で済ましてしまうことは自分のあり方をも否定することになる。すべてが有り難いのだ。

               

               

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              言葉はその人の顔になる、と思う

              2018.09.07 Friday 04:19
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                今のような時代にこそ、『言論の自由』というあり方を見直して、改めて考える必要を感じる。

                 

                一概に『言論の自由』と言っても、そのあり方を悪用すれば、人は言葉でも人を殺せる時代だ。

                 

                その重さ、責任をどれくらいの人が考えているのか。ボクには判らないので語る資格などない。

                 

                 

                もはや、貝になって『黙っている』方が賢明にも感じられる。逃げましょ。隠れましょ。とね。

                 

                だが、一切の自分の中から発する『言葉』を失うとするなら、人と人の関係は根底から崩れる。

                 

                どこまでも解り合えないとしても、すれ違いがあろうとも、人は、言葉で意思を示す生き物だ。

                 

                 

                だからこそ、気軽なネットの使い方次第で、人は自分の存在の『輪郭』を失うこともあり得る。

                 

                いっそ、生活から『通信』というものを排除してしまいたいと思う。心の目を失いそうなのだ。

                 

                何も見えない。見えたとしても歪んだ『何か』が交錯して見えないに等しい。今の自分は駄目。

                 

                 

                 

                例えば、『自由』を手にしたと勘違いした人が放つ言葉は、『狂気』『凶器』にさえ変貌する。

                 

                気軽に『呟く』としても、世界中に拡散すれば、総攻撃を受けることの覚悟も必要になるのだ。

                 

                その『呟き』を見たくもない、こちらの意思をも打ち砕く力を持ってしまえる脅威さえ感じる。

                 

                 

                賢明には思えないけれど、もう『防御しかない』のだ。極力、ネットは見ない。利用を控える。

                 

                その脅威は、テレビなどの媒体にも侵食してきて、他人の言葉に触れないことを予防にもする。

                 

                娯楽とか、気晴らしとか、リラックスとか。大凡、対極にあるストレスが充満して息が苦しい。

                 

                 

                と言いつつ、某テレビ番組を録画で見ていた。その中で『マツコ・デラックス』が言っていた。

                 

                このネット社会のあり方を俯瞰で捉えてマツコなりに感じたことに多少の発見をした気がした。

                 

                要約し『人は悪口を言う生き物であると、ネットというものが見事に示してくれた』とのこと。

                 

                 

                 

                一個人の見解として正解でも誤りでもない。一つの考え方として、こちらに何かを喚起させた。

                 

                だが、その『ネットが人間の本性を見せてくれた』との発想を肯定的に捉えたなら楽にはなる。

                 

                御釈迦様じゃあるまし、人が皆、純粋な善意だけで心を浄化し、邪気をゼロにすることはない。

                 

                 

                ネットに罵詈雑言が溢れていることは人間らしい。そこを出発点にして複眼的に捉え直すこと。

                 

                それもアリだな、と思った。何気なく見たテレビ番組だが、ただボーと生きている訳じゃない。

                 

                この世には、一人間にとって知らないことの方が宇宙規模で多く、心を閉ざすことは愚かしい。

                 

                 

                それでネットを敬遠し続けてきた自分の行為は、『逃げ』と捉え、自ら隠れていたと認識する。

                 

                しかし、現代社会。山籠りでもしない限り、隠れるなんて出来ない。単なる精神的引きこもり。

                 

                自分の足で、自分の目で、自分の心で、扉を開けて『外に出てみる』最初の一歩が必要になる。

                 

                 

                 

                だからと言って、また連日ブログを更新することがいいとは思わない。まずは肩の力を抜こう。

                 

                 

                ボクは、『言葉がその人の生き方やあり方、心の具現』として、語彙と使い方が大切だと思う。

                 

                 

                その人の選ぶ言葉が最初の入り口になるし、表情、語り口など含め『表現』が顔になるだろう。

                 

                 

                 

                人が普段使う『言葉』やそれに伴う『行動』がその人の人相を良くも悪くもすると思えるのだ。

                 

                 

                category:雑感 | by:hallysmilecomments(0) | - | -

                心の琴線に触れる、って最近聞かない

                2018.09.03 Monday 09:30
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                  ボクは高校生の頃に、『心の琴線に触れる』って言葉が好きだった。美しい日本語だと思った。

                   

                  実際に、多感であった『あの頃』には、自分なりに、『それ』を実感する連続が日常であった。

                   

                  音楽。文章。映像。など、例えようのない『心の振動』を感じつつ、暮らしの色彩は鮮やかに。

                   

                   

                  だが最近、この『心の琴線に触れる』って言葉をすっかり聞かなくなったような気がしている。

                   

                  まず、自分個人においては、『感動』の質も量も、年々急激に減って行くのを痛感してもいる。

                   

                  自分が変わったのか。世の中が変わったのか。それは、大した問題ではない。答えはないのだ。

                   

                   

                  社会を批判しても何も始まらない。それでも、エスエヌエスの渦に呑まれないよう必死なのだ。

                   

                  個人的主観だが、不快に感じるものだらけになった。『映え』などには、言葉に拒絶反応する。

                   

                  更には『オッケー〇〇』を始め、何でもかんでも便利なもの頼りの風潮に馴染めないストレス。

                   

                   

                   

                  日常の『不便さ』と向き合い、模索し『工夫』や『想像』と『創造』が生まれると思っている。

                   

                  個人的な見解だ。誰かに訴えたり、その発想を押し付けることは避けたいし、極力していない。

                   

                  スマホが手放せなくてもその人の自由だし、何かを楽しみたいと思うこともそれぞれの選択だ。

                   

                   

                  だが、社会生活の基本には『他人に迷惑を掛けない努力をする』のが前提にあると信じている。

                   

                  人は、どんなに誠実に生きていようが、存在しているだけで、少なからず他社に迷惑も掛ける。

                   

                  それを謙虚に受け入れてこそ、『自由』とか『快楽』とかを各々が求めればいいだけのことだ。

                   

                   

                  だが、そういう『観念』とは別の次元で、世の中が便利になると『拡散』に歯止めが効かない。

                   

                  社会の仕組みは、より細分化され、より過敏になり、『軋轢』や『勘違い』も増える気がする。

                   

                  昨今の不祥事や何々ハラスメントなどは、日常からどんどん人が乖離していく様を見るようだ。

                   

                   

                   

                  この手の話が『理屈』に過ぎないと、自分で認識した上での『独り言』で済ませたいのである。

                   

                  最近、『エスエヌエス疲れ』をしている芸能人が増殖中とな。慣れないまま、継続を促される。

                   

                  何かの使命の如く。『いいね』や『フォロワー』を増やして心が潤うのか。それは別の問題だ。

                   

                   

                  ボクは、このブログ以外に『エスエヌエス』は利用していない。ブログを続けることも疑問だ。

                   

                  だが、まだ何も見えていない。今の所『炎上』したり、人への猜疑心が強くなったりするだけ。

                   

                  ただ、『ネット』がないと暮らしに支障を生じるにまでなっているので、耐性をつけたいのだ。

                   

                   

                  そこで、『心の琴線に触れる』ということ。これは素晴らしい体験。雲散霧消。視界が開ける。

                   

                  言葉は稚拙であり、他に例えようもないことがある。それを表現する『日本語』が消えていく。

                   

                  もはや、『ら抜き言葉』など誰も気にしなくなった。日本語から美しさも優しさも薄れていく。

                   

                   

                   

                  未だに、ボクの悪い癖は治らない。理屈や御託を並べる。愚にもならない『戯言』を垂れ流す。

                   

                  どうにかしないといけない。なるべく他者に失礼、迷惑を掛けないように自責の念を持つこと。

                   

                  ここまで無駄な言葉を羅列したものだ。ボクが今、突然ブログを再開したことがテーマになる。

                   

                   

                  忙しく、途切れることのない苦痛な日々。その中でも『心の琴線に触れる』ことが最近、多い。

                   

                   

                  とても『刹那的』なことかもしれない。それでも、ボクの傷み乾燥した心の琴線に触れるもの。

                   

                   

                  一番、直近だと、これ。『Walter 'Wolfman' Washington』の最新アルバムに痛く感動した。

                   

                   

                   

                  もう相当なご高齢で、何十年振りかの新作らしい。でも、その素朴で謙虚な表現に心打たれた。

                   

                   

                   

                  アルバムの中に数曲、ギターの弾き語りがあって、それもまた痺れる程に、心に直に届くのだ。

                   

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                  生命に、愛しさに、感謝をする

                  2018.06.06 Wednesday 17:27
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                    ボクは子供の頃から『生き物』に興味があった。興味の根源は、多分『生命』だったと思うのだ。

                     

                    一体、『命』って何だ?との漠然とした疑問から、あらゆる形態の違う生命に興味を持っていた。

                     

                    まあ、昭和の子供の最初に通る道。それは、『昆虫』である。あの頃は数多の虫が存在していた。

                     

                     

                    夏の季節。網戸には無数の虫がたかっていた。中には、カブトムシもクワガタも自然に混在した。

                     

                    今時のように『生き物を買う』という発想がなかった。身の回りで、無数の生命と共存していた。

                     

                    そのせいか否か、ボクは未だに『ペット』という感覚がない。生き物との共存。ギブ&テイクだ。

                     

                     

                    十数年前に、『アニマルセラピー』なる都合のいい言い訳の元、ボクは生き物を飼い出したのだ。

                     

                    まずは、『熱帯魚』に始まり、やがて『ハムスター』に及ぶ。で、今は『鳥』と共生をしている。

                     

                    独身。交友関係なし。となると、『懐く』生き物が恋しくなる。これは、人の傲慢な欲望になる。

                     

                     

                     

                    人間も含め、生き物との共存はそう容易くない。『癒しが欲しい』とか『欲望』で成り立たない。

                     

                    そこには『命』の営みがあるのだから。それは自分の欲や損得だけでどうにかなることではない。

                     

                    それを生きている間に、どれだけ知り得るだろうか。誰も教えてくれない。見なければ済む話だ。

                     

                     

                    一昨年の暮れに、ボクはつがいの『カナリア』と生活を始めた。見た目も鳴き声も、綺麗である。

                     

                    だが、彼らにも生命の営みがある。翌年の春に、卵を3つ産んだ。その内、一つだけ雛が孵った。

                     

                    だが、翌朝、その雛は巣から落ち、ゲージの下に横たわっていた。微かに動いている様子だった。

                     

                     

                    ボクは、その子をまた巣に戻したが、1時間後にはまたゲージの下に。もうかなり弱った状態だ。

                     

                    色々調べたら『育つ見込みのない未熟な子は親が巣から落とし、育てない』ことがあると知った。

                     

                    その日の内に、ボクはその子を育てることにした。ヒーターで温めた大き目なガラスケースの中。

                     

                     

                     

                    最初は白湯をくちばしに少しずつ垂らす。徐々にそれを飲むようになる。次第に動くようになる。

                     

                    それからは、2時間置きに、湯で溶かした雛用の餌をさし餌する。やっと生きている感じだった。

                     

                    自分で餌を食べられるようになるまで、それを毎日続けた。小さいけれど『生命』の尊さを知る。

                     

                     

                    日毎に元気になり、産毛もなかった体に体毛が生え始め、やがてやっと鳥らしい姿になっていく。

                     

                    未熟児。自分に重ねることはなかった。ただ、せっかく生まれてきたのだから育って欲しかった。

                     

                    恐らく、通常の子よりも成長はかなり遅かっただろう。でも、今では仲の良い相棒のようである。

                     

                     

                    本来、カナリアは神経過敏で警戒心が強く、人に懐くことはない。この子の親は未だ、懐かない。

                     

                    だが、懐く懐かないに関わらず、生命の神秘を感じる経験だった。その『生命』がとても愛しい。

                     

                    命は、生まれた瞬間から死に向かっている。生き続けることは大変なこと。だから、愛しいのだ。

                     

                     

                    性別不明で名無しだったが、『ピーピー』鳴いていたので母が勝手に『ピータン』と呼んでいた。

                     

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                    死と向き合っていた時間の、後

                    2018.06.01 Friday 03:59
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                       ボクは、いま死のうと思っています。そのことを言葉という形によって、伝えようとしています。その言葉は、心を伝えるのではなく、心の存在を示すひとつの手段です。気持ちを伝えるのでははなく、『その、こと』を伝えるのです。

                       では、なぜそのことを伝えるのか。それは、ボクには判りません。

                       そのこと、つまり、死のうと思うことは、例えば交差点を渡ろうとすることにどこか似ています。

                       道を歩いていたら、交差点があったのです。それは、偶然ではなく、むしろ必然のような気がします。ですから、交差点を渡るということをするために、特別な理由はいらないのではないか、と思えるのです。そして、『交差点を渡ります』と、発言するのはボクの自由で、特別な理由はないのです。ボクの中では、それら、『死ぬこと』と『交差点を渡ること』は、同列にあります。

                       しかし、それが伝わるかどうかは、他者に委ねるしかありません。そのことに関しては、ボクは無力なのです。どのように解釈されようと、ボクは無力であり、ボクにとって、伝わるかどうかはどうでもいい、取るに足らないことなんです。

                       解釈とは、人それぞれですから、解釈そのものには、意味など求めてはいけないのだと思えるのです。それに、元々、死ぬことにすら、意味などないような気がするのです。

                       ボクは、無意味なことが、ただ好きなのかもしれません。

                       そして、ボクは、ただ歩いていたらそこにあった『交差点を渡ろう』とすることと同じように、ただ『死のう』と想っているだけなのです。

                       

                       この宣言のようなものは、ずっとボクの中にあった想いであり、見ない振りをしていたもの。真新しいノートの最初のページに書き記したのは、つい昨日のことだった。

                       

                       ボクは、大学を卒業しても、そのまま就職をしなかった。まず何をしたらいいのかが判らなかった。それから今日まで4年余り、定職に就くこともなく、ただ惰性でアルバイトを転々として来た。それでいま現在は何も仕事をしていない。

                       したがって、日々時間を持て余している。それで、散歩が日課になっている。

                       そして、それはいつものように、午後の散歩をしている途中の出来事だった。

                       お気に入りと言うよりも、成り行きでそのようになった、お決まりの散歩コースの途中にある歩道橋を渡って、向こう側の歩道に行こうとしていた処だった。その歩道橋の階段を昇り終える少し手前で、ふと視線を上げた先にひとりの女性を見た。

                       

                       彼女は、歩道橋のちょうど真ん中あたり、手すりの手前に背筋をまっすぐに伸ばして立ち、細い指先で銀色に鈍く光るピアスを、左右両方とも外し、それを掌に乗せ、しばらく眺めていた。ボクは足を止め、少し離れた手すりに寄り掛かって、彼女の斜め後方からその様子を見ていた。

                       彼女は、その銀色の小さな塊から視線を少し上に向けて、淡い微笑みを浮かべ、おもむろにそれを頭上に放り投げた。そして、その放物線に目をくれることもなく、更に口元を緩め、音を立てずに拍手をした。

                       路面に落ちたであろうピアスの行方は、ボクも確認しなかった。それよりも、歩道橋に手を掛け空を見上げた、彼女の整った横顔を見ていた。そして、程なくして歩き始めて、彼女のそばに近づいて立ち止まり、その次の瞬間にボクは、彼女に向けて自分の口から言葉が出たことに自分自身で驚いた。

                       「捨てることはいい」

                       自分の背中でした声に、彼女は振り返った。左の頬に涙が伝うのをボクは見た。そしてもう一度、「捨てることはいい」と同じ言葉を繰り返した。

                       それでも、彼女はボクの視線をまったく存在しないもののように、それを無視して歩き出した。それでも、ボクは更なる不可解な行動に出た。

                       「あさこさん」

                       なぜそんな名前が出て来たのだろうか。ボクは彼女に向かってそう声を放って、しかも張り上げたその自分の声に例えようのない違和感を覚えた。

                       少し距離を置いて、後を追うボクには、彼女の歩き方に変化を見ることが出来た。歩幅が明らかに狭くなり、膝のあたりにためらいのようなものが窺えた。

                       「あさこさん」

                       もう一度、今度は意識して穏やかに、そう呼び掛けた。

                       彼女は体ごと向きを変えて、正面からボクを見据えた。そして、そのやや乱暴な口調には不釣り合いな『柔らかな』声で、

                       「私は、あさこという名前ではありません」と言った。

                       自分とほぼ同じくらいの年齢ではないかと思える彼女の頬には、もう涙はなかった。それを確認して、ボクは迂闊にも微笑んでしまった。

                       「なぜ、笑うのですか?」

                       「すみません。けっして笑った訳じゃないんです」

                      と、ボクは間髪を入れずに丁寧にそう言った。

                       「人違いをしています。私は、あさこという人ではありません」

                       彼女は、少しだけ口調を緩めてそう言った。

                       「人違いではないのです」

                       怪訝そうな表情のままの彼女に向かって、更にボクは、

                       「ぼくにとって、あなたがあさこさんであるかは、どうでもいいんです」と言った。

                       「あなたがあさこという名前である可能性もある訳で、そのわずかな可能性を試すために、あさこという名前が必要だったのです」

                       ボクは自分でも不思議なくらいに、すらすらと言葉を口にしていた。

                       明らかに不快そうな表情でボクを凝視した彼女に、

                       「怒らないでください。ぼくはあなたを呼び止めたかったのです」と出来るだけ丁寧にそう続けた。

                       「ナンパですか?」

                       前髪を掌でたくし上げた彼女の白い額に、再び前髪が流れるのをボクは見ていた。それはとてもしなやかで美しい仕草だった。

                       彼女は、一度だけ瞬きをした。はっきりそれと判るようなやや誇張したやり方だった。ボクはそれを静かに見届けていたけれど、彼女はあからさまにそれと分かるよう、誇張した感じに体の向きをさっと変えて歩き始め、向こうの階段を降りて行った。

                       ボクはそれを黙って見送るだけで、それ以上は何もしなかった。

                       

                       それが昨日の出来事だ。

                       その直後に、ボクの心に炙り出された『想い』が、死のうと思うこと。そしてそのことを言葉という形によって、伝えようとすること。その言葉は、ボクの心を伝えるのではないく、心の存在を示すひとつの手段として、『その、こと』を伝えようとすること。それは、誰に向けてのものでもない、自分に向けての『宣言』のようなものだった。

                       

                       

                       

                      これは、ボクが25歳前後に書いた。小説でもなく、日記でもない。ただ、書いただけのものだ。

                       

                      ボクは不運な事故により、生活や人生など、大きく変化をし、色々とあり、廃人のようになった。

                       

                      22歳から社会復帰する27歳までの途中。『死にたい』と思う人間から『自己再生』を始めた。

                       

                       

                      その一環として、ノートに手書きで、色々と心に浮かぶことを文章で書き記すことを続けていた。

                       

                      3冊のノートは綺麗な状態で保存してある。それを読み返すことはなく、先日久しぶりに開いた。

                       

                      その中で圧倒的に多かったのが『フィックション』だ。短編小説擬きの短い作り話を沢山書いた。

                       

                       

                      その中の一つがこれだ。ただ、ボクははっきりと覚えていることとして、確実なものがあるのだ。

                       

                      これだけは、『物語』のように、長く書こうとしていた。だが、書き始めの『ここ』で挫折した。

                       

                      挫折と言うか、急に書くことをやめたと記憶している。ボクは、確かに何かを書こうとしていた。

                       

                       

                      ボクは二十代という輝かしい時間を、自分の部屋に籠り、誰とも会わず、廃人のように過ごした。

                       

                      痩せ続け、体力も低下したまま、日がな一日横たわり、1分毎に『死にたい』と思い続けていた。

                       

                      そこから脱却することを自ら促して、『自己再生』を始めた。その一つが文章を書くことだった。

                       

                       

                      だから、これは『死ぬことと向き合っていた時間』の『その後』を記したものだとも言えるのだ。

                       

                      その『自己再生』では、かつて経験した、音楽や映画や書物との融合を取り戻せたことが活きた。

                       

                      まさに『死にかけていた心』を動かし、生きることへの最初の一歩だ。ボクにとって貴重なもの。

                       

                       

                      ボクは元々、絵を描いたり、楽器を演奏したり、何か『表現する』ことで心を柔らかくしてきた。

                       

                      そこで新たに『文章を書く』ことが加わった。稚拙だろうと『自分の言葉で書くこと』が好きだ。

                       

                      数年前、ボクは長編の小説もどきの代物を書いた。ただ一人の人しか読んで頂いていない。感謝。

                       

                       

                      プロでもないのだから、音楽も含め、自己表現したものは大切な人だけにそっと伝えたいだけだ。

                       

                       

                      昔書いた先の文章は、また新たな形で死と向き合っている『今の自分』に向け書いたのだろうか。

                       

                       

                      苦しみは絶えなくても、死にたい気持ちは思い出せない。どんな苦しみも死で消えたりはしない。

                       

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