持論、っていったい何だろうか
最近、やたらと『持論』を唱える人が多い。或は、『誰某の持論』と報道する。
これには何だか気持ち悪さを感じる。まさにネット社会の象徴にも思えるのだ。
別に肯定も否定もしない。勝手に唱えていればいいし、それはそれで構わない。
ただ、疑問に感じ、ある種の不快感が拭えないのが『持論』だらけになること。
現代社会で拡散する、凡その『持論』とやらは、『デジタル文字』なのである。
その人との会話で得た話とは、まるで『別物』だと言うこと。これが違和感だ。
人は皆それぞれ、生きて来た背景も経験も感じ方も違うのが母なる自然だろう。
となると、『発想』も『思考』もそれぞれに『異なる』ものだ、とボクは思う。
その『違い』ってものは、理解するのではなく、認識することが前提だと思う。
ネット・ニュースの記事で読んだものは、ボクは『ただ受け流す』ことにする。
たまたまネットで読んだ記事で、ぞっとするようなものがあるのは日常茶飯事。
『タトゥーへの偏見は日本の「文化」?』などと、持論を宣っていた人がいた。
星野リゾートの一部ではタトゥーを隠すシールを貼れば入浴が出来るとのこと。
これに対し、ある程度知名度のあるらしい人が持論を述べていた。これが謎だ。
まさに、ボクの持論を展開すれば、『星野リゾートのあり方』が大嫌いである。
まあ、一個人の『持論』なので、『なぜ嫌いなのか』を説明する必要などない。
そこで、この人曰く、『タトゥーを不快と感じるのは差別だ』とのようなこと。
この『タトゥー』と『同性愛』とかを一緒くたにしている時点で論点がズレる。
生まれ付きの性質と違い、タトゥーというものは『個人の自由』で入れるもの。
それは『ピアス』も同じで、『不快に感じる人』がいるのは、至極当然の話だ。
同性愛や人種差別と同列にして語ることに、ボクは『違和感』を抱いてしまう。
このようにネットというものは、『何でもアリ』な世界としてボクには脅威だ。
自分の思考をネットに載せる、ボク自身も『どうかしている』と自認している。
だが、極力『断言』はしないようにしている。あくまで『自己確認』の手段だ。
今の時代、ネットがないと『不便』『不利』な立場に追いやられる現実がある。
しかし、小市民が端々で何を主張しても、せいぜい『混沌』になるだけだろう。
だが、ある程度『発信力』のある人の発言は、慎重にしてほしい気がしている。
それが一番恐ろしいことに繋がるとボク個人は思っている。『対立』ってやつ。
世界情勢を鑑みるだけで、この『対立』がどれだけの『混乱』を生んでいるか。
そこに『対立』が存在するなら、お互いを理解し合うなんて労力は無為になる。
いつまでも世界が一つにはなれないことを証明しているのが、人間自身なのだ。
差別もなく、違いを受け入れ合い、理解し合うことが出来たなら世界は平和だ。
なのに、世界平和とは程遠く、日本だけにおいても混乱を極めつつある状態だ。
何でこんな社会になったのか。ボクには判らない。判らないから脅威に感じる。
少なくとも、急速に『ネットが社会に普及したこと』が、ボクの不安の根幹だ。
なので、こうして距離を置いて『最低限』の関わりを持って、『模索』は続く。
だが、ネットを利用すればする程、面と向かって対話することを大切に感じる。
相手の言葉を聞き、自分の中で咀嚼し、それに対して、自分の言葉を用意する。
ネットで世界が繋がっているなど微塵も感じないことを確認する度にそう思う。