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    現代社会の家族から見えてくるもの

    2016.12.20 Tuesday 09:29
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      ボクは、そこそこ生きているが、『家族』ってものが判らないでいる。

       

      幼少時代は、昭和の『1億総中流』という具合に、まあ貧乏な家族だ。

       

      物がないし、親から厳しく躾けられ、甘やかすよな爺婆もいなかった。

       

       

      親の言うことは『絶対』だし、それに逆らうことなど許されなかった。

       

      我が家は特に厳しく、門限が4時で、夕方は家事手伝いが日課だった。

       

      風呂炊きや鰹節を削ったり、近所に買い物に行ったり、自由時間なし。

       

       

      テレビでやっている『始めてのお使い』なんてものには違和感がある。

       

      先行き見えない発展途中、治安も良くて、子供も役割を担うのが家族。

       

      親に言われた通りの買い物をする。肉屋や魚屋や八百屋などに行った。

       

       

       

      まあ、そういう『ノスタルジア』はどうでもいい。それは置いといて。

       

      父に殴られたり、母に甘えることもなく、大人の顔色を伺う過ごし方。

       

      呑気にゲームに興じるなんて、想像すらしてなかった頃に育ったのだ。

       

       

      だが、『家族』って、暗黙の内に寄り添って生きていた気がしている。

       

      小さなこたつを囲んで、家族が同じ方を向いて、特別な正月を迎えた。

       

      それまですべてが『その日のため』のように、『平和』な元日である。

       

       

      そりゃ、家族なら『色々ある』のが前提だ。家族の数だけ問題がある。

       

      同級生で、ある日突然『名字が変わる』なんて希だった時代があった。

       

      昨今は、離婚など諸々『何が起きようと驚かない』体で暮らしている。

       

       

       

      昨今問題の『待機児童』の問題。この現象は何だろうか?と思うのだ。

       

      我が家は、母が朝からパートに出て、保育園も隣の忍ちゃんと通った。

       

      首には家の鍵を下げ、3歳児の足で20分程を往復歩いて仲良く歩く。

       

       

      ボクは『幼稚園』に行っていない。小学校に上がるまで保育園だった。

       

      仕事人間の父の稼ぎで、高校も大学も出してもらったが楽はしてない。

       

      物心ついた頃から絵を描くことが好きなボクには、紙も絵の具もない。

       

       

      頑固で厳格な昭和の親父。こつこつ貯めたお年玉でギターを買おうと。

       

      父に土下座して許しを請うが、拳で殴られ、一蹴された、社会の洗礼。

       

      何もかも奪われ、自分の中の可能性は自らの『想像』で生むしかない。

       

       

      自分の置かれた状況の中、『創意工夫』を育むことを積み重ねてきた。

       

      それが、自分の暮らしで活かされるようになることは、感謝に繋がる。

       

      何でも手に入り、不自由ない暮らしは、『想像』『創意工夫』を奪う。

       

       

       

      常に『当たり前』が用意されて育つ甥っ子達を身近でずっと見て来た。

       

      彼らに欠落していた物が、彼らが大人になって歴然となった気がする。

       

      正しいとか、間違いとかじゃない。『そういうもの』でしかないのだ。

       

       

      成人になっても、家族の法事の席で、スマホでゲームをしてしまえる。

       

      それを制止もしない親。そんな人が血縁関係だけで家族とは呼べない。

       

      ボクの関知する範囲を越えている。言葉の受け答えに、『愛』はない。

       

       

       

      家族、家庭を持たなかった自分だから見えたものも多いと最近感じる。

       

      人が生きる上で『大切なもの』は、具体性を省けば、共通するものだ。

       

      人や物に感謝し、欲しがらずに与えられる自分になろうとする謙虚さ。

       

       

       

      誰かに言われる前に、『自己懐疑の念』を持ち、判断基準を模索する。

       

      昨今、SNSで安易に拡散される諸々。責任の放棄。利己主義の蔓延。

       

      名所などに『他所』から来て、『自分だけのルール』で振る舞う無礼。

       

       

      今の状況に歯止めは利かない気がする。どこまでも錯綜する精神状態。

       

      件の『おでんツンツン男』などは論外だが、それも紙一重にも感じる。

       

      年齢だけ経るだけで『意識』『認識』のあり方がごっそり抜け落ちる。

       

       

      そのような人がどこにいるか。どこで遭遇するか。危険は隣り合わせ。

       

      そんな社会状況の混沌を加速させるのは、『家族』のあり方だろうか。

       

      いじめを始め、『学校だけに責任を向ける』ことでは何も変わらない。

       

       

      生まれ育つ『家族』『家庭環境』『親の心得』などが社会の入り口だ。

       

      すでに『自分のことは棚に上げ、責任を他者に向ける』しくみがある。

       

      それに『親』はどう真摯に向き合うのかが、傍観者には見えて来ない。

       

       

       

      かつて友人とファミレスで食事をしていた時に子供が騒ぎ回っていた。

       

      堪り兼ねたボクは、その子供を叱ったのだ。乱暴に感情ではなく、だ。

       

      すると、その親が言った。『ほら、おじちゃんに怒られるでしょ』だ。

       

       

      おじちゃんはいいとして、『怒ってねえよ、叱っているんだ』となる。

       

      更には、『他人に怒られるから』との『自分発信でない』責任転嫁だ。

       

      親である自分が『きちんと躾けて、叱る』ことの大切さを捨て去れる。

       

       

      案の定、親同士はすぐにお喋りに興じて、子供はまた騒ぎ出す始末だ。

       

      すべてではないにしても、このような『家族のあり方』に見えるもの。

       

      核家族のせいにしてはいけない。子を持つ自覚のなさを露呈する未熟。

       

       

       

      家庭も持たずに、子供もいない自分は傍観者だからこそ透けて見える。

       

      ゲーム興じをスタートに、画面の中の世界で『空気感』を捨てた社会。

       

      自分でないあり方や会話の間合い等、『他者への想像』を持つ大切さ。

       

       

      人としての『躾』を蔑ろにするのは怖いことだ。三つ子の魂、百まで。

       

      3歳までをどのように過ごし、感じるかで、人間形成の基礎が出来る。

       

      ただ『可愛いがる』だけでなく、『そこに愛があるか』を見つめ直す。

       

       

      言葉にすれば、実に曖昧で実証出来ないなら、それは『愛』ではない。

       

      自分を培ってきた、他者に支えられて来た、あらゆる『感謝』の印を。

       

      惜しみなく、苦にせず、示すこと。厳しくも、暖かい。想いと心遣い。

       

       

       

      昨晩、絶望に苛まれ、眠れずにいる自分と対峙した。自分の甘さゆえ。

       

      身体的な苦しみと共に、今ある自分は『絶望している』から存在する。

       

      などと痛感した。絶望する前に、心を動かせ。と今日も一日が始まる。

       

       

      東京大改革。言葉で言う程簡単じゃない。簡単でも安易でもないのだ。

       

      でも、『声を出すこと』『動いてみること』への意識を持つことから。

       

      その『声』に疑念も持ちつつ、その『動き』に誤りはないか確認する。

       

       

      すべては足許。立ち位置。姿勢。始めの一歩。どれも疎かに出来ない。

       

       

      社会を作るのは、何者でもない。各々の『家族』であるように思える。

       

       

      自分への戒めでもある。誰かのせいにしている内は、何も変わらない。

       

       

       

       

       

       

       

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