人や社会との関わり、すべてが自分

2018.04.27 Friday 16:11
0

     

    人は生きている間に、どれくらいの人との出会いがあるのか。それは、各々千差万別である。

     

    ただ、理屈で片付けることは実に簡単だ。友人が多ければいいとか、少ないと寂しいとかで。

     

    ボクは、いい年齢になる現在でもまだ、人間関係を築けないし、社会にも馴染めないでいる。

     

     

    子供の頃は、人と関わるのが『苦手』だと漠然だが、確実に自分の中で判っていたと感じる。

     

    とにかく、何事においても『気を遣って、その自分に疲れてしまう』ような子供だったのだ。

     

    それは、家庭環境の影響も少なくないだろう、たぶん。でも、ただの言い訳にしかならない。

     

     

    生きることにおいて、『言い訳』を用意したら、切りがない。どこまでも逃げ道へ邁進する。

     

    幼少期は、家庭が社会の入り口になるだろう。思春期は、人間関係の模索の最初の一歩目だ。

     

    そこから、社会との関わり方を日々、どのような事象であれ、何事も初体験のことに思える。

     

     

    同じようであっても、立場や相手や状況、環境が違えば、違った、新しい体験、経験になる。

     

    それに対して、どこまで真摯に向き合えるか。少しの、微妙な違いに鈍感になるのは簡単だ。

     

    自己対峙や自己懐疑の念を持たずに、そのまま、何となく、過ごせてしまったりするものだ。

     

     

    ボクが思春期から大人と呼ばれる年齢になるに連れて一番、痛切に感じたことは『責任』だ。

     

    それは、『自分が自分であることの責任』だと捉えている。自分は自分以外の何者でもない。

     

    そのことを見ない振りし続けていたなら、『その生き方』にも気付かなくなるのではないか。

     

     

     

     

    ボクは、余計な気を遣い過ぎて、ことを拗らせてしまう癖がある。この身で痛い思いをする。

     

    自分の言動は、巡り巡って、自分に返って来る。『因果応報』『自業自得』色々な捉え方だ。

     

    容易く『学習』などという言葉を持ち出したくはない。だが、暫定的に用いていいとも思う。

     

     

    日々刻々、『人は試されている』ことから『学習』を促されているような気がしてならない。

     

    例えば、『後悔』と『反省』の違いが曖昧なままなら、『学習』への道程は遠いままだろう。

     

    後悔することは簡単であり、簡単なことの選択から、自ら省みることへ歩みは変え難いこと。

     

     

    人は、『自分を甘やかす』という特権をどこかで手に入れることも安易で、流され易いもの

     

    自分が嫌な思いをしたら、他人も気分を害することが多い。その逆もある。感じ方は様々だ。

     

    そのことを自分の中で『どう捉えるか』で、その後向かう方角が大きく変わって来るだろう。

     

     

    そこで、『自分が自分であることの責任』というもの。人とも社会とも、すべてが関わりだ。

     

    その関わりの中で、常に『選択』の連続を促されている。瞬時に、人は示されるものだろう。

     

    極端な話。『死ぬ』ことを恐れるか、受け入れるか。その『違い』がどれだけ大きなものか。

     

     

    死ぬことは実に簡単であるからこそ、生きることが大変なことであり、有難いことでもある。

     

    それを『死生観』などと考える必要はない。考えるから、ことが複雑にややこしくなるのだ。

     

    筆で何かを描けばシンプルから書き足す毎に複雑になるが、やがて集約されシンプルになる。

     

     

     

    何をどう捉えても、人はそれぞれに違うということ。違うのが前提なら、シンプルなことだ。

     

    自分の考えが相手にも当てはまるなんて傲慢な話で、お互いに『違い』を受け入れ合うこと。

     

    そこを最初の一歩にしないと、お互いは別々の方向に離れて行く。厄介だが、シンプルな話。

     

     

    相手の気持ちを思いやるなんて、勘違いも甚だしい気がする。人の気持ちなど判らないのだ。

     

    判らないからこそ、『想像』『模索』『思案』などの、あらゆる『心の育て方』が試される。

     

    その中で、自らが『謙虚』に『思いやり』『心遣い』をさせて頂く。人との関係は自分次第。

     

     

    社会との関わりは、そうはいかない。何しろ、色んな人がいて、色んな状況があるのが前提。

     

    この変わりゆく社会の中で生き抜くことは簡単じゃない。だから、みんな必死なんだと思う。

     

    事の次第では、間違いも許されない。道を断たれてしまうこともある。肯定否定で済まない。

     

     

    ただでさえ『複雑怪奇』な社会に蔓延る『通信』という見えない新たな迷宮が立ちはだかる。

     

    犯罪も、問題も、その迷宮を介せば、人の在り方さえ変えてしまえる。とても怖く恐ろしい。

     

    毎日のように、ニュースに触れていたなら、もう『さっぱり』何が何やら混乱するだけ、だ。

     

     

    ボクは、幸か不幸か、年中無休で一人、自分と向き合う時間が多い。色々と模索を繰り返す。

     

    様々な身体的困難や生活における、予想しない出来事に遭遇しながら、誰とも会話をしない。

     

    これは、やはり健全ではないのだ。人は人や社会との関わりの中で生きて行くのが望ましい。

     

     

     

    ボクは幼少期から父に人格否定をされ続け子供の頃に自律神経失調症になり、未だ治らない。

     

    もう父には否定も肯定も死んでいるのだから何も言えない。その人を非難するのは忍びない。

     

    でも、事実は事実として、この心に刻まれている。心の傷というものはたぶん消えはしない。

     

     

    そのようなことに関して、ボクは過敏に反応するし、自分発信の他人に対することにも同様。

     

    長年の友人に、酒によって暴言を浴びせられ続けたり、いい加減な対応に翻弄され続けたり。

     

    そのような経験から、『もしかしたら自分も誰かにしていないか』との疑念を持ったりする。

     

     

    自分がどう感じたかと他者がどう感じるかが、まったく同じだということはあり得ないのだ。

     

    彼を筆頭にボクは、他にも屈辱的な思いをした経験は多い。『なぜ?』と人間不信になった。

     

    そこを経て、『前世での過ちが返ってきた』とか、宗教的な話に落とす人の存在も認識する。

     

     

    それらのことを今、誰とも関わりを持たなくなって思い返す。でも、何が正解かなんてない。

     

    自分が被害妄想を持っただけなのかもしれない。もう『過去』のことであり、実証すらない。

     

    それらのことを忘れない自分。だからこそ、人を嫌いたくないし、自分を省みたりしている。

     

     

    そこには『自分が自分であることの責任』で人や社会との関わりに生きている証があるから。

     

    改めて、『因果応報』について。自分だけが正しいとか、誰かのせいにするとかしたくない。

     

    だからこそ、人や社会との関わりは『自分を映す鏡』として、見ない振りをしたくないのだ。

     

     

     

    category:模索 | by:hallysmilecomments(0) | - | -

    スポンサーサイト

    2024.03.27 Wednesday 16:11
    0
      category:- | by:スポンサードリンク | - | - | -
      Comment








         

      Calender
           12
      3456789
      10111213141516
      17181920212223
      24252627282930
      31      
      << March 2024 >>
      Selected entry
      Category
      Archives
      Recent comment
      Profile
      PR
      Recommend
      Link
      Search
      Others
      Mobile
      qrcode
      Powered
      無料ブログ作成サービス JUGEM