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    彼女の、唇の下の小さなほくろ

    2013.04.06 Saturday 12:34
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       僕は、静けさの中で、穏やかな寝息をたてている泰子が寝返りを打つのを感じて、ぼんやりと視線を向けた。こちら側に姿勢を変えた彼女の寝顔は、その素顔に近い淡い化粧のせいで、まるで少女のようにあどけなく見えた。

       彼女の唇の下に小さなほくろがある。僕は指先でそのほくろから下唇を軽くなぞってみた。柔らかい唇の所々にザラっとした感触がある。少し疲れているのかな、と心の中で呟きながら、そっと指を離した。

       その瞬間に、彼女はゆっくりと瞼を開いた。そして、僕の視線を確認してから、

       『いつから起きていたの?』と聞いた。

       僕は、その質問には答えずに笑顔を見せた。

       『泰子さん。君は高校3年の時に、ぼくの斜め前に座っていたんだ。』

       『うん? そうだったかしら。』

       『そうなんだ。』

       少し間が空いて、彼女もほんのりと笑顔になった。

       『それがどうしたの?』

       『ぼくは授業中、黒板を見る振りをして、ずっと君の後ろ姿を見ていたんだ。夏になると、君は白いYシャツしか着ていないから、その下にブラジャーの紐が透けて見えるのには参った。すごく参った。』

       『あら。』

       彼女は笑顔を一層深くして、僕の顔から視線を逸らして天井を見た。

       『ぼくは今でもその情景をはっきり描けるくらいに、1日中君しか見ていなかった。そのお陰で、こんな馬鹿で間抜けな顔になった。』

       『私のせいなの?』

       『そう、君のせい。全部、君のせい。』

      と真顔で言ったけれど、堪えられずに、口元から笑ってしまった。

       僕はこんなに穏やかな気持ちで笑うのは久しぶりのような気がした。自分は笑顔になるのが苦手になってしまったように感じるくらいに、最近笑っていない。


       僕たちは昨日、二十年振りに同窓会で再会した。一目見てすぐに泰子だと判るくらいに、その印象は少しも変わっていなかった。いい印象で年齢を重ねて、四十を手前にした女性の色気を匂わせていることが嬉しかった。

       本来、僕はそのような堅苦しい催しに出るようなタイプじゃない。もうすでに縁のなくなった昔の人間に会って、今更何を話すと言うのだ。仕事の話か、子供の話になるに違いない。あるいは曖昧な記憶をお互いにたぐり寄せ合い、昔話をするのが関の山だ。

       けれど、僕は出席した。それは、もしかしたら泰子に会えるかもしれないと直感的に感じたからだ。そしてまさにその通り、彼女に会うことが出来た。間違いなく、泰子が来なかったら途中で抜け出していたくらいに、退屈な催しだった。


       僕はベッドの上で泰子を抱き寄せ、唇を重ねた。それに彼女もしなやかに応えてくる。しばらくは音のない時間が過ぎた。そして、ゆっくりと唇と離し、

       『君は今、幸せに暮らしているのか?』と聞いた。

       彼女は一旦視線を逸らしたけれど、また僕の目を真っすぐに見て、

       『いきなり、現実に引き戻さないで。』と言った。

       『ごめん。今のは取り消す。』

       僕は、泰子の小ぶりな乳房を掌で包み、心臓の鼓動が感じられるか試してみた。

       『昨日、君の胸を初めて見た。こんなに感動するなんて、自分でも驚いている。』

       『感動するような程のものじゃないですよ。』

       彼女のその言葉に僕は鼻で笑ってしまった。

       『失礼ね。』

       『違うよ。実に君らしい胸だったんで、それに感動したんだ。』

       『私らしい胸って、どう言う意味かしら。』

       『君らしく、奥ゆかしい、って感じ。出来ることなら、十八歳の頃の若々しい君の胸を見たかったけれど、今でも充分素敵だし、むしろ、今が素敵だ。』

       『それは褒め言葉なのね。』

       『そうさ。ぼくは、君の、その奥ゆかしい佇まいにいつも見とれていたんだ。今でもぜんぜん変わらないし、そこに奥行きが加わって、更に魅力的な女性になった。』

       彼女は、天井に、あるいは虚空に視線を置いたまま、ほんのりと微笑んだ。

       『ぼくが君を好きだということに、君はずっと気付かない振りをしていた。』

       『振りじゃなくて、本当に気付かなかったの。』

       『やっぱり、そうだったのか。僕の視線は痛い程に、君の背中に刺さっていたはずなのに、君はそれに気付かなかったのか。許せない人だ。』

       僕は彼女と同じクラスになった二年間、ずっと彼女に片想いをしていた。それは胸が締め付けられるような苦しみを伴って、何も手に付かなくなる程に。実際に、授業など殆ど聞いていなかった。勉強など退屈なだけで、ボクは彼女に会えるから学校に通っていたようなものだった。

       隠しても滲み出てしまうような育ちの良さから来る、涼やかで凛とした空気感が彼女の周りにはオーラのように広がっていて、それがクラスの男たちを虜にした。当然、彼女には恋人がいるという噂は耳に入るし、それに切ない想いを抱いていたりもした。


       『君に出逢ってからのぼくは、すっかり骨抜きになってしまったんだ。あの二年間で君に奪われた時間を、昨晩、思わぬ形で少しだけ返してもらった。君があんなに熱い人だったとは、嬉しい発見だった。』

        彼女は黙ったまま、僕を見ていた。

       『ともあれ、ぼくが一番好きなのは、君の唇の下の小さなほくろ。』

       そう言って、ボクは指先でそのほくろをなぞった。

       『そのほくろは、反則だ。』

      と言い終わるか否かの瞬間に、僕はまた彼女の唇に自分の唇を重ねた。


       僕がシャワーを浴びている間に彼女は黙ってホテルの部屋を出て行った。小さなテーブルの上に小さなメモが残されていて、そこには、

       『素敵な夢をありがとう。でも、もうこの夢の続きはないのよ。』

       とだけ女性らしく優しい達筆で記されていた。

       僕は、頬が緩んだ。口角が上がり、笑顔になった。洗った髪から顔に水滴が流れてくるのを放っておいたまま、僕は、青春の切なさを思い出しつつ、その小さな紙切れと整った文字に、艶かしい小さなほくろのある泰子の唇が『もうこの夢の続きはないのよ。』というのを想像して、胸の奥の方で、甘美な果実にナイフを刺されたような快感を覚えた。




      なんて、ね。普段のボクは、理屈を捏ねる。或は、能書きを垂れるのが得意だ。



      文章もやたらに長く、自分でも呆れてしまうのだ。呆れつつ、直せないでいる。



      という訳で、先週に続き、かつて書いたフィックションもどきを載せておこう。



      週末くらいは、黙っているのがいい。




      ともあれ、週末に黙ってみようと、今日も地球はまわっているのだ。



       
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