ゴミになる物をまだ大事に取ってある

2018.05.12 Saturday 08:35
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    それは、昨年の秋のこと。ボクは山手線の主要駅に繋がる私鉄のホーム、担架で運ばれた。

     

     

    山手線の大きな駅には、多くの私鉄が放物線を描くように乗り入れている。

     

    その内の一つの私鉄沿線に住むボクは、その大きな駅に向かっていたのだ。

     

     

     

    幼少期から抱えていた自律神経失調症が、心的外傷後ストレス障害により悪化した。

     

    それで『心身症』や『うつ』などを抱え、特に『不安障害』に苦しむようになった。

     

    普段と違うこと、特別なことなどを行う際に、急激な激しい下痢や吐き気を起こす。

     

     

    同時に、『適応障害』も抱えているので、もう『何がどう』って説明のしようがない。

     

    特に、どこかへ公共の電車やバスなどを利用して出かけなければいけない時に起こる。

     

    プライベートな環境の自家用車で出掛ける時には、まったく『平常』でいられるのに。

     

     

    出掛ける際、『電車に乗らなければいけない』と思っただけで、モノの10秒も掛からず起こる症状。

     

    その瞬間まで何でもなかったのに、急に水のような下痢を繰り返し、同時に吐き気が止まらなくなる。

     

    涙を流しながら、えずき続け、時には嘔吐する場合もある。それが更なる『予期不安』を呼び起こす。

     

     

     

    それは、会社での人間関係で悪化した。会社を辞める前の数年間は地獄のような通勤を余儀なくされた。

     

    1日平均乗降者数が日本一、350万人という新宿駅が会社の最寄駅であり、まさに地獄へ通っていた。

     

    時には、無数の人が行き交うホームの端に横たわっていたこともある。誰も知らない顔して通り過ぎる。

     

     

    父が倒れ、死に、母が倒れ、介護に追われる日々の中。それらの症状は更に悪化の一途を辿った。

     

    で、ここ数年、母がかなり回復し、週1回デイサービスに通うようになり、ボクはリハビリをすることにした。

     

    で、昼間の空いた時間帯に電車に乗って、私鉄の終着駅である、とある都心の大きな駅に向かう。

     

     

     

    途中でダメなら、引き返すこともあるが、何度も途中下車したりを経て、徐々に耐性も出てきたりしていた。

     

    ところが、昨年の秋のある日。電車に乗った途端に、不意に『得体のしれない不安』に襲われたのだ。

     

    次第に気分が悪くなり始め、それでも扉脇の一番端の座席に座っていたので、耐えて見ることにした。

     

     

    だが、何度も吐き気を堪えることを積み重ねてきたボクでも『どうにもならない』くらいに苦しくなった。

     

    終着駅までは後3、4駅になった処。『急病人が出た為に緊急停車します』というのだけは避けたかった。

     

    必死に堪えたが、最後の駅を出たところで、堪えきれずに、ボクは床に倒れ、半ば意識が朦朧としていた。

     

     

    すると、目の前にいたスーツ姿の営業のような若い男の人が『大丈夫ですか?』と声を掛けてくれた。

     

    そして、その人の部下らしい若い女性が自分の鞄からペットボトルの水を手渡してくれた。

     

    数十秒だったのだろうが、ボクには永遠に終わりないように感じた中で感謝の言葉を何度も言った。

     

     

    で、終着駅に着いたらすぐにその男の人の『駅員さんを呼んできますから安心して下さい』と声を聞いた。

     

    側には、水をくれた女性がいてくれた。他の乗客の靴は、ボクを避けるように目の前を通り過ぎて行った。

     

    やがて、意識が遠のきそうな状態で担架に乗せられてユラユラ運ばれ、気付いたら駅員室のベッドにいた。

     

     

    駅員が事務的に『救急車呼びますか?』と聞いてきたが、『たまにあるので、少し休めば大丈夫です』と答えた。

     

    自分のことは自分が何度も経験しているのだ。『これくらい、大丈夫』と余計に面倒になることは避けたかった。

     

    女性のくれた水で頓服薬を飲み、1時間半くらい横になっていたら、何とか歩けるくらいに回復したので帰った。

     

     

     

    こんな『東京砂漠』にも、『いい人』はいる。ボクは感謝しても仕切れない程に声を掛けてくれた人に感謝した。

     

    何とか家に戻れた途端、『安心』を手にすれば、すっかり回復する。それが『不安障害』の厄介なところである。

     

    誰とも知れない人の誠意に触れて、手渡してくれた『南アルプスの天然水』のペットボトルを今でも持っている。

     

     

    ボクは、人の『誠意』や『悪意』などの『言葉』『行動』は『その人がどう生きてきたか』の具現だと思っている。

     

    日常のほんの些細なことであっても、人は常に『自分を表現している』ことで、『人柄』が見えたりするものだと。

     

    世の中には『いい人』もいれば、『悪い人』もいる。でも人を『いい、悪い』だけで単純に区分するものじゃない。

     

     

    そのどちらでもない『普通の人』が圧倒数を占めているようにも思っている。あらゆる事象でそれは顕著に見える。

     

    まあ、そんな話はどうでもいいことだ。ボクは『自分がいい人か、誠意があるか』を常に気にしている訳ではない。

     

    肝心なのは、日々刻々あらゆる選択によって、『人は試されている』と感じながら、瞬時に自分を示すようにする。

     

     

    それをあの秋の日の出来事で再認識しつつ、ボクはそのペットボトルを捨てられずにいる。たかが物されど物、だ。

     

    人は特に現代社会においては、生活の中で絶えず『ゴミ』を出し続けている。それは留まることを知らないようだ。

     

    ボクも日々、ゴミを生み出す人間である。でも、ゴミになる物であっても、ほんの些細な『誠意』を捨てられない。

     

     

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    油断していたら、また堕ちてしまった

    2018.05.10 Thursday 12:52
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      精神的にも肉体的にも、ずっと不調続きで、この十数年間気分が晴れる瞬間がまったくない。

       

      それに慣れるということもない。辛さや苦しさには『いいこと』など一つもないものである。

       

      だが、慣れなくても、いいことがなくても、そこから『何かを感じる』ことはたくさんある。

       

       

      今も愚かに違いないが、今以上に愚かだった頃には、平気で友人に愚痴を言ったりしていた。

       

      でも『愚痴は所詮、愚痴』なのであり、相手が忍耐強く聞いてくれていることを忘れられる。

       

      それに愚かな自分は平気で『甘え』を手に入れていた。自分以外の人のことを考えていたか。

       

       

      一人、眠ることも出来ずに思考ばかりが巡ると、色々なことを思い出したり、思い返したり。

       

      今現在、ボクが誰とも関わりのない暮らしをしていることには、それなりの理由があるはず。

       

      テレビやラジオ。特にCMなどから、『幸せ』『家族』が目立って心の襞に入り込むようだ。

       

       

       

      家族も友人もなく、誰もとも関わりなく、日々やることに追い込まれ、問題は山積する一方。

       

      何が『幸せ』なのか。『家族』って何なのか。考えても意味がない。判らないものだからだ。

       

      なのに、心のどこかでは、そういうものに対する『喪失感』をいたずらに抱えていたりする。

       

       

      心身共に『力』が不足していると、踏ん張ることが出来ない。ふと油断したら、また崖の下。

       

      先日、ありったけの力を自分の中に集めて、少しでも平穏な場所に戻れるよう、登り始めた。

       

      でも、あっさりと足を踏み外して、また崖の下に堕ちてしまった。疲れて、半ば諦めている。

       

       

      体の不具合は治る気配がない処か、余計に悪化し、それを精神力で補い続けることに疲れた。

       

      楽になれるなら、楽になりたいが、それが『死』だとも思えない。宗教的発想は今は無力だ。

       

      曖昧な死生観も風に舞う枯葉のよう。人が死ぬことは実に簡単だ。簡単だから尊いのだけど。

       

       

      これは、ただの独り言だ。或いは自己確認。頭が痛い。頭痛だ。何が何だか。よく判らない。

       

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      褒められるって、やっぱり嬉しい

      2018.05.08 Tuesday 09:11
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        ボクは、子供の頃から人の顔色を伺いながら、『ひっそり』存在を消して生きていた。

         

        父に『怒鳴られ』『貶され』続け、物心ついた頃から大人が怖く、信用しなくなった。

         

        ので、一人遊びを狭い部屋の隅でしていた。気づいたら、絵を描くことが好きだった。

         

         

        新聞チラシの裏に、鉛筆で描いた。主に描いていたのは、『漫画』のキャラクターだ。

         

        漫画本など持っていなかったので、たぶん記憶とか想像で描いていたんだろうと思う。

         

        だいたい、『巨人の星』『明日のジョー』『タイガーマスク』ばかり描いていたのだ。

         

         

        親に見せたりはしなかった。『どうせ貶されるだけだろう』と卑屈に思っていたのだ。

         

        でも、我ながら『うまいな』と密かに思っていた。『自画自賛』はその頃身についた。

         

        だが小学6年の時、鉛筆で描いた『ポール・マッカートニー』の似顔絵を母に見せた。

         

         

        図工で習っもない陰影をつけ写実的に描き、我ながら『素晴らしい』と思えたからだ。

         

        その時、初めて母親に褒められた。褒められた経験のないボクは相当に浮かれたのだ。

         

        何事も貶され続けてきた幼少期。初めて、人に褒められることが『嬉しい』と感じた。

         

         

         

        そうして大人になり、地味に音楽を一人でやっていた。自室での、いわゆる『宅録』。

         

        それは中学生の時からやっていたが、協調性のないボクは、高校で部活を初体験した。

         

        フォーク全盛の終焉期。生ギターを弾き唄う部活。殆ど女子で、部員数自体多かった。

         

         

        活動は、放課後、視聴覚室。理科室とか書道室とかだけがある、裏手にある別棟校舎。

         

        新設校だったので、校舎はとても綺麗だった。廊下や階段でギターを弾き唄う自由さ。

         

        ボクは、特に『男子トイレ』で唄うのが好きだった。無駄に広く、気持ち良く響いた。

         

         

        変声期の時に、声帯を痛めて、ボクは喋るだけで声枯れがするくらいに喉が弱かった。

         

        思うように歌えないストレスを抱えていたから奇跡的に喉の調子がいいと唄いまくる。

         

        高校時代は、ボクが唯一『健康』でいられたごく短い期間。それを有意義に過ごせた。

         

         

         

        自慢してもいいと思うが、中高の時、唯一『モテ期』だった。なぜか女の子にモテた。

         

        文化祭での部のコンサートで出待ちの後輩の女の子に握手を求められ、しどろもどろ。

         

        まあ、ほんの短い人生最高の時だったので、思い出して、ニヤケてもいいと思うのだ。

         

         

        高3の或る日、自分の部屋で何気なく歌ったら、想定外に、喉の調子が良い日だった。

         

        即46分テープを用意し、安物のマイクをセットし、一気に10曲を唄い録音をした。

         

        物持ちのいいボクはそれを今でも保存していて、数年前デジタル・データに落とした。

         

         

        ボクは、何の目的もなく、自己満足で、自分の演奏を『YouTube』にアップしている。

         

        が、しかし、誰も聞いちゃいない。まあ、大した演奏でもないし、それはそれでいい。

         

        誰も聞いちゃいないのだから、その高3の時の録音からミスのない3曲もアップした。

         

         

         

        そこで驚いた。ギター演奏は不人気だが、その唄を褒めて下さる人がいたりするのだ。

         

        先日もお褒めのコメントを頂いた。やっぱり褒められると嬉しいものだ、とニヤケる。


        ボクは、致命的な喉の弱さを言い訳にしているが、唄うことがこの上なく大好きのだ。

         

         

        昔から、誰かの真似が好きじゃないし、自分の個性として表現に根拠ない自信がある。

         

        どんな表現、唄い方やギター演奏も自分そのもの。練習や努力嫌いも個性の内とする。

         

        昔の唄を褒めて下さるだけで喜んでいいと思う。『自画自賛、自己満足』でいいのだ。

         

         

        通信で繋がっているとの話とは別の次元で、聴いて下さるだけで、感謝するのである。

         

         

         

        この拓郎の唄は高校のトイレでよく絶唱していたなぁ。無駄に広いトイレを思い出す。

         

         

         

         

         

        今も唄いたくて堪らない。でも、ここ十数年はほぼ唄っていない。そんな状況でもない。

         

        てな訳で、昔の自分に勇気をもらうことがあったりする。自己完結であってもいいのだ。

         

        望むのは自由だが、望んでも到底叶わないことがある。それを受け入れることが大切だ。

         

         

         

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        崖の下から這い上がっている途中

        2018.05.06 Sunday 16:22
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          自分にとっては、悪夢の長い長いゴールデンウィークの間に、体調が絶不調になり、苦しんだ。

           

          ここ十数年においては毎年の試練になる。今年は年明けから体調不良に加速が増しているよう。

           

          それでも呑気に寝込んでいる訳にはいかない。やることはやる。その隙間に束の間、倒れ込む。

           

           

          耳鳴りは更に激しさを増し、気が狂わない自分に半ば感心する。感心する程に、尋常じゃない。

           

          約5年半。24時間。頭蓋骨内で『不快』な高周波の激しい音が錯綜し一瞬たりとも止まない。

           

          加えて、歯の不具合による、胃腸障害。その他、地味な不具合のオンパレードによる負の連鎖。

           

           

          ほぼ、まともな睡眠も取れずに、それでも、主夫に休みはない。介護に気の緩みも許されない。

           

          そんなこと、別に他人には関係ないもんね。そりゃ、当然だ。人それぞれに暮らしがあるもの。

           

          苦しみだったり、抱える何か。誰にも分からないと言う点で、誰もが皆、同じ条件であるのだ。

           

           

           

          もはや、自分の中の語彙も歩みの途中でポロポロ落としてきたようで、貧しい言葉が空々しい。

           

          日頃、人と会話していないと、言葉は自分の中だけで心の壁に当たって弾ける。その繰り返し。

           

          否が応でも、自己対峙を迫られる。何も考えなければいい、とは行かない。日々学習、修練だ。

           

           

          そんな具合で、この地獄のような晴天の中。室内に籠り、具合の悪さに耐えつつ、凌いできた。

           

          体に無理を強いているので、精神的には忍耐しかない。で、いつしか『崖の下』に落ちていた。

           

          諦めたら、『死』しかない。肉体的な死。精神的な死。それを諦めで終わらせるのか、お前は。

           

           

          などと、顎を上げ、遥か崖の上を臨み、力の限り登ることにした。大した崖じゃなかったのか。

           

          今は、崖の途中で小休止。ちょっとした座れるくらいの場所で。気を緩めたなら、また堕ちる。

           

          それを何度か経験して、少しは学習したつもりだ。バカはバカなりに追い込まれたら工夫する。

           

           

           

          たった今、いきなり左側だけ耳鳴りがワンランク轟が増した。このまま死ねたら楽になるのだ。

           

          この自分の声は、どこにも届かない。ここで『苦しいよ』と言っても誰も助けでくれないのだ。

           

          それを承知の上で、『声にならない言葉』を垂れ流している。まあ、これくらいいいじゃない。

           

           

          崖っぷちで持ち堪えたり、堪えずに崖の下に転げ落ちたり、色々とそれなりにあった気がする。

           

          崖の下には更なる底がある場合もある。選択は『諦める』か『諦めないか』の二つに一つ、だ。

           

          その内『誰かが助けてくれる』など思っちゃいられない。甘えがある限り、生き残れないのだ。

           

           

          明日は明日の風が吹く。綺麗なことです。今日も明日も、数珠繋ぎの生活に仕切り直しはない。

           

          耐えている途中、ふっと苦しみが和らぐ瞬間がある。だからと言って、気が休まったりしない。

           

          ともあれ、横たわって休めるような場所はまだ見えていない。力の限り、登るしかないようだ。

           

           

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          人間は、どこまでも勝手になれる

          2018.04.29 Sunday 13:25
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            まあ、呆れる、というより悲しくなってくる。

             

            ゴールデンウィークらしい。毎年毎年。

             

            らしい、と言いつつ、知っていたわい。

             

             

             

            これが、人によっては、どれだけ『不快な』ものであるか。

             

            考えなくてもいい、らしいね。

             

            立場の違う人への配慮もなく。

             

            人は、『法に触れなければ、好き勝手していいだろ』と浮かれる、浮かれる。

             

            人間は、どこれまでも変われない生き物のようです。

             

             

             

            絶好の行楽日和。

             

            昼前から、我が家の裏ではバーベキューをやりやがる輩でいっぱい。

             

            毎年、というか、陽気のいい頃にはいつものことだ。

             

            慣れる訳が無い。

             

             

            何をどう捉えているのか知る由も無い。

             

            臭くて、酒が入りゃ騒ぎもするだろう。

             

            それを住宅街で出来る神経が判らない。

             

             

            ここは、アメリカじゃなく日本だろう。

             

            住宅事情が、まったく違いませんかい。

             

            何でも流行に流される、思考より前に。

             

            快楽って、やったもん勝ち、なのかい。

             

            道徳も常識も、言葉も虚しく散りゆく。

             

             

            それをやりたければ、『ラク』な選択をし、

             

            そういう、適切な場所に行く努力も無しに、

             

            気軽に、自分本位に『楽しめる』なんてね。

             

             

            そりゃ、『臭いものは臭い』し、『うるさいものはうるさい』のだ。

             

            バーベキューの臭さは相当なもので、洗濯物も布団も外に干せない。

             

             

            やる当人がその想像を捨て去る。

             

            社会性が欠落しているんだもん。

             

            自分以外には、様々な人がいて、それぞれに抱える事情も違う。

             

            社会のあり方を見ない知らない、で他者への配慮も捨てられる。

             

            普段仕事が大変なら、休みに何をやろうが、個人の自由なのか。

             

            短絡的自己中心的発想は、一度持ったら、持ったことも忘れる。

             

            らしい、ね。人間様は、どこまでも、楽しまなきゃ損、なのか。

             

             

             

            関係ない、それに巻き込まれた人間にとっては、『不快』でしかない。

             

             

            今日もまた窓を閉め切って、日差しを遮って、冷房を入れるしかない。

             

             

            他人が『どう感じるか』という想像をなくしてしまった人は消えない。

             

             

            まさに、『自分さえ良ければいい』との発想しかない、と断言しよう。

             

             

            役所も警察も、『法律』に触れてなければ、何もしないでいいらしい。

             

             

            日本人はマナーがいいとは、単に他国に比べたらの話で個々は別問題。

             

             

            これじゃ、日本も良くなるはずがないし、そんなもの、望んじゃない。

             

             

             

             

            そんな日々の連続で、もうまいりました。

             

             

            これにもう十何年間、苦しめられている。

             

             

            人間様たち、いい加減に勘弁して下さい。

             

             

            わたしに、『死ね』と言うのでしょうか?

             

            category:試練 | by:hallysmilecomments(0) | - | -

            ある内に、精いっぱい感謝したい

            2018.04.29 Sunday 05:05
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              ボクは、昨年末に、上の前歯が全部なくなった。

               

              突然、なくなった訳ではない。

               

              話は、30数年前に遡る。そこから、始まったことだ。

               

               

              ボクは19歳の時に交通事故に遭い、心身を喪失した。

               

              これを的確に表現することは出来ない。

               

              ボクの中では、『喪失した』との語彙しかない。

               

               

              2年以上にわたり、無理に無理を重ねて、ある日、ボクは壊れた。

               

               

              毎晩、夜中の2時頃に突然、吐いた。

               

              夕食を少しも消化出来ずに、吐いた。

               

              それを半年以上、毎晩繰り返し、体重は最高10キロ減に。

               

               

              元々痩せていたので、まさに、『骨』と『皮』だけになり、

               

              事故の後遺症もあり、筋力低下と共に、歩行困難にもなり、

               

              昼間は布団に横になったまま、天井を見つめるだけの日々。

               

               

              その間、『鬱』など諸々の不具合で、『廃人』同然だった。

               

               

              そして夜中、胃液が絶えるまで吐き続け、明け方まで続いた。

               

              それによって、歯、特に上の前歯が全部、胃酸で溶けたのだ。

               

              僅かに数本歯の根っこだけが残り、繰り返し差し歯のブリッジを作り替えた。

               

               

              だが、根っこも脆く、差し歯のブリッジ自体が危うい状態の不快な数十年だ。

               

              で、昨年末に、最後の2本の歯の根が割れて、差し歯が役に立たなくなった。

               

              いきなり、上の前歯全部。作り物とは言え、物理的にすべてなくなったのだ。

               

               

              入れ歯を作ったが、喉の方まで覆い、『嘔吐反射』が激しくて使えなかった。

               

              で、それから半年近く。ボクは、前歯のない状態で暮らしている。

               

              最初は、まともに喋れない。空気が抜けて、特に『さ行』の発音が出来ない。

               

              滑舌が悪く、何を言っているのか判らない、『フガフガ』爺さんみたいにだ。

               

               

              それが、悲しいとは思わなかった。

               

              今更、それがどうしたというのだ。

               

              上唇がポヨポヨ感じる程度の話だ。

               

               

              今では、唇の筋肉を鍛えつつ、空気漏れも少し改善した。

               

              だが、笑えば、歯がないのが一目瞭然。

               

              人を、髪が薄いとか、太っているとか、

               

              そういう見た目で判断する人は、あまり信用していない。

               

               

              ので、前歯こぞってなくても、見てくれなど気にする問題じゃない。

               

               

              歯医者によると、『胃酸』は簡単に歯を溶かしてしまう強い酸性で、

               

              特に女性など過食嘔吐で、20代で殆どの歯を失う人もいるらしい。

               

              同じ症状で前歯を失ったとの噂の、女優の『宮沢りえ』さんや『ともさかりえ』さん。

               

              彼女たちにとっては、商売に多大なる影響を及ぼすから大金掛けても治すのが正しい。

               

              でも、今のボクにそんな大金はないし、『そこ』にかける必要などまったく感じない

               

               

              だが不便に違いはない。不便さは切実だ。

               

               

              食事。これは人が生きる上でとても大事。

               

              食事を摂ることにおいて、単純に『歯』はとても大事な役割を担う。

               

              噛むことがままならなければ、胃腸への負担も増え、常に消化不良を起こす。

               

               

              更には、現実問題として、歯医者から色々と忠告を受けた。

               

              残った歯への負担も、少ない程に、1本に対する厚も増す。

               

              人は、寝ているときに多少は歯を食いしばったりしているらしい。

               

              きちんと生え揃っていれば分散される力も、残りに集中するのだ。

               

               

              現在、前歯も含めて永久歯9本の歯がなくなった状態。

               

              残りの歯も治療した被せ物とかで補い、丈夫じゃない。

               

              こりゃ、申し訳ない。ってことで、負荷を担ってもらっている。

               

              持ち堪えてもらうしかないけれど、踏ん張れ、歯たちよ、って。

               

               

              ともあれ、人は、死に向けて生きている。

               

              老化も避けられないし、退化もするし、なくなるものもある。

               

              それに抗って、不自然な状態を金で補うこともままならない。

               

              じゃあ、現状を受け入れるしかないだろう。

               

              そういうこと。

               

               

              なくなってから後悔するのは、自分の哀れを慰めるよう。

               

              ある内に、ありったけ『感謝』をすることだ、実感する。

               

              category:生活 | by:hallysmilecomments(0) | - | -

              人や社会との関わり、すべてが自分

              2018.04.27 Friday 16:11
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                人は生きている間に、どれくらいの人との出会いがあるのか。それは、各々千差万別である。

                 

                ただ、理屈で片付けることは実に簡単だ。友人が多ければいいとか、少ないと寂しいとかで。

                 

                ボクは、いい年齢になる現在でもまだ、人間関係を築けないし、社会にも馴染めないでいる。

                 

                 

                子供の頃は、人と関わるのが『苦手』だと漠然だが、確実に自分の中で判っていたと感じる。

                 

                とにかく、何事においても『気を遣って、その自分に疲れてしまう』ような子供だったのだ。

                 

                それは、家庭環境の影響も少なくないだろう、たぶん。でも、ただの言い訳にしかならない。

                 

                 

                生きることにおいて、『言い訳』を用意したら、切りがない。どこまでも逃げ道へ邁進する。

                 

                幼少期は、家庭が社会の入り口になるだろう。思春期は、人間関係の模索の最初の一歩目だ。

                 

                そこから、社会との関わり方を日々、どのような事象であれ、何事も初体験のことに思える。

                 

                 

                同じようであっても、立場や相手や状況、環境が違えば、違った、新しい体験、経験になる。

                 

                それに対して、どこまで真摯に向き合えるか。少しの、微妙な違いに鈍感になるのは簡単だ。

                 

                自己対峙や自己懐疑の念を持たずに、そのまま、何となく、過ごせてしまったりするものだ。

                 

                 

                ボクが思春期から大人と呼ばれる年齢になるに連れて一番、痛切に感じたことは『責任』だ。

                 

                それは、『自分が自分であることの責任』だと捉えている。自分は自分以外の何者でもない。

                 

                そのことを見ない振りし続けていたなら、『その生き方』にも気付かなくなるのではないか。

                 

                 

                 

                 

                ボクは、余計な気を遣い過ぎて、ことを拗らせてしまう癖がある。この身で痛い思いをする。

                 

                自分の言動は、巡り巡って、自分に返って来る。『因果応報』『自業自得』色々な捉え方だ。

                 

                容易く『学習』などという言葉を持ち出したくはない。だが、暫定的に用いていいとも思う。

                 

                 

                日々刻々、『人は試されている』ことから『学習』を促されているような気がしてならない。

                 

                例えば、『後悔』と『反省』の違いが曖昧なままなら、『学習』への道程は遠いままだろう。

                 

                後悔することは簡単であり、簡単なことの選択から、自ら省みることへ歩みは変え難いこと。

                 

                 

                人は、『自分を甘やかす』という特権をどこかで手に入れることも安易で、流され易いもの

                 

                自分が嫌な思いをしたら、他人も気分を害することが多い。その逆もある。感じ方は様々だ。

                 

                そのことを自分の中で『どう捉えるか』で、その後向かう方角が大きく変わって来るだろう。

                 

                 

                そこで、『自分が自分であることの責任』というもの。人とも社会とも、すべてが関わりだ。

                 

                その関わりの中で、常に『選択』の連続を促されている。瞬時に、人は示されるものだろう。

                 

                極端な話。『死ぬ』ことを恐れるか、受け入れるか。その『違い』がどれだけ大きなものか。

                 

                 

                死ぬことは実に簡単であるからこそ、生きることが大変なことであり、有難いことでもある。

                 

                それを『死生観』などと考える必要はない。考えるから、ことが複雑にややこしくなるのだ。

                 

                筆で何かを描けばシンプルから書き足す毎に複雑になるが、やがて集約されシンプルになる。

                 

                 

                 

                何をどう捉えても、人はそれぞれに違うということ。違うのが前提なら、シンプルなことだ。

                 

                自分の考えが相手にも当てはまるなんて傲慢な話で、お互いに『違い』を受け入れ合うこと。

                 

                そこを最初の一歩にしないと、お互いは別々の方向に離れて行く。厄介だが、シンプルな話。

                 

                 

                相手の気持ちを思いやるなんて、勘違いも甚だしい気がする。人の気持ちなど判らないのだ。

                 

                判らないからこそ、『想像』『模索』『思案』などの、あらゆる『心の育て方』が試される。

                 

                その中で、自らが『謙虚』に『思いやり』『心遣い』をさせて頂く。人との関係は自分次第。

                 

                 

                社会との関わりは、そうはいかない。何しろ、色んな人がいて、色んな状況があるのが前提。

                 

                この変わりゆく社会の中で生き抜くことは簡単じゃない。だから、みんな必死なんだと思う。

                 

                事の次第では、間違いも許されない。道を断たれてしまうこともある。肯定否定で済まない。

                 

                 

                ただでさえ『複雑怪奇』な社会に蔓延る『通信』という見えない新たな迷宮が立ちはだかる。

                 

                犯罪も、問題も、その迷宮を介せば、人の在り方さえ変えてしまえる。とても怖く恐ろしい。

                 

                毎日のように、ニュースに触れていたなら、もう『さっぱり』何が何やら混乱するだけ、だ。

                 

                 

                ボクは、幸か不幸か、年中無休で一人、自分と向き合う時間が多い。色々と模索を繰り返す。

                 

                様々な身体的困難や生活における、予想しない出来事に遭遇しながら、誰とも会話をしない。

                 

                これは、やはり健全ではないのだ。人は人や社会との関わりの中で生きて行くのが望ましい。

                 

                 

                 

                ボクは幼少期から父に人格否定をされ続け子供の頃に自律神経失調症になり、未だ治らない。

                 

                もう父には否定も肯定も死んでいるのだから何も言えない。その人を非難するのは忍びない。

                 

                でも、事実は事実として、この心に刻まれている。心の傷というものはたぶん消えはしない。

                 

                 

                そのようなことに関して、ボクは過敏に反応するし、自分発信の他人に対することにも同様。

                 

                長年の友人に、酒によって暴言を浴びせられ続けたり、いい加減な対応に翻弄され続けたり。

                 

                そのような経験から、『もしかしたら自分も誰かにしていないか』との疑念を持ったりする。

                 

                 

                自分がどう感じたかと他者がどう感じるかが、まったく同じだということはあり得ないのだ。

                 

                彼を筆頭にボクは、他にも屈辱的な思いをした経験は多い。『なぜ?』と人間不信になった。

                 

                そこを経て、『前世での過ちが返ってきた』とか、宗教的な話に落とす人の存在も認識する。

                 

                 

                それらのことを今、誰とも関わりを持たなくなって思い返す。でも、何が正解かなんてない。

                 

                自分が被害妄想を持っただけなのかもしれない。もう『過去』のことであり、実証すらない。

                 

                それらのことを忘れない自分。だからこそ、人を嫌いたくないし、自分を省みたりしている。

                 

                 

                そこには『自分が自分であることの責任』で人や社会との関わりに生きている証があるから。

                 

                改めて、『因果応報』について。自分だけが正しいとか、誰かのせいにするとかしたくない。

                 

                だからこそ、人や社会との関わりは『自分を映す鏡』として、見ない振りをしたくないのだ。

                 

                 

                category:模索 | by:hallysmilecomments(0) | - | -

                絶滅危惧する、プロフェッショナル

                2018.04.26 Thursday 13:09
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                  世の中は流動的に変化をし続け、それは、科学や技術の進歩の加速に急かされるようだ。

                   

                  ボクはかつて、デザインの仕事に従事していて、コンピュータの導入で翻弄され続けた。

                   

                  様々な職業には、様々なプロの職人が存在して、主に手作業で匠を極めていた気がする。

                   

                   

                  にわかにアップル社のマッキントッシュを導入するや否や業界全体が振り回されたのだ。

                   

                  ボクは会社の指示でまだマニュアルもない時代、自力で学習しながら同時に仕事もした。

                   

                  ゼロからの模索の中で、根底となる土台から自ら技術を手にした、と半ば自負している。

                   

                   

                  でも、パソコンが世に普及してからの人には、あらゆる過程を省けるのも事実に思える。

                   

                  その過程で、廃業に追い込まれた業種は数知れず。印字職人、製版職人など廃業の連鎖。

                   

                  印字における文字詰めなど。製版における色の微妙なニュアンスなど。技が物を言った。

                   

                   

                  正直パソコンでただ打っただけの個々の文字は、詰めがバラバラだし何より美しくない。

                   

                  色も然り。才能だけで出来るなら、それ程に容易いことはない。味わいの欠如を感じる。

                   

                  ボクは、アナログからデジタルへ移行する過程で多くを学んだ。謙虚に捉え、未熟者だ。

                   

                   

                  どれだけ巧みにパソコンを操れても、『写植職人』の代わりではない。コンピュータだ。

                   

                  そのことを弁えないと、出来上がる『物』が別物になることを見ない振り、でしかない。

                   

                  未熟ということ。或いは、『熟する』まで至らないこと。それを自分の中で受け入れた。

                   

                   

                   

                  あらゆる業種で職人が淘汰される中、ボクがこよなく愛する『音楽』におけるプロの話。

                   

                  デジタルが当たり前の時代になって、驚く程の加速で『プロフェッショナル』が減った。

                   

                  まず、楽器演奏者の激変。好きで上手くなりたくて、皆が凌ぎを削り合った時代は過去。

                   

                   

                  かつて人の個性というものが魅力に直結して、音を聴けば『誰』と判るプロが数多いた。

                   

                  あの方が亡くなり、あの方も亡くなり、あの人は廃れ、あの人は・・と、変遷が物語る。

                   

                  今の音楽は、有り体に言えば、『ネタ』次第なのじゃないか、という気がしているのだ。

                   

                   

                  どうすれば売れるか。これがダメならあれ。音楽の本質とは別の商売になったと思える。

                   

                  いい悪いじゃなくて。アーティスト?名が象徴的で『ネタ切れ』状態。安っぽく薄ぺら。

                   

                  バンド名なのか、曲のタイトルなのか。分かりゃしないよ。と関心もないので構わない。

                   

                   

                   

                  そのような御託を並べるボクの中には、ごく僅かに、『プロフェショナル』の鑑がいる。

                   

                  ボクが脱帽し、尊敬に値する筆頭は『矢沢永吉』だ。まあ、クセが強い。強過ぎる人だ。

                   

                  殆どの人には誤解されているような気もするが、そんなことはどうでもいいことである。

                   

                   

                  ボクが魅力に触れて、心踊らされることに感謝するのみ。彼は年齢と共に進化を続ける。

                   

                  昨年出た『ライブ映像』を観て唖然とした。67歳にして、昔より声が出ているようだ。

                   

                  そこには、長年積み上げてきた実力に自らが磨きを掛け続ける『見えない努力』がある。

                   

                   

                  プロは、陰の努力などは見せない。すべては『ステージの上』でより輝きを放つことだ。

                   

                  渡辺貞夫曰く、『プロは白鳥と同じ。水面下では必死だが、水上では優雅に見える』と。

                   

                  まさに、これがプロフェッショナルのあり方を的確に言い得ている。言い得て妙なのだ。

                   

                   

                   

                  そのプロフェッショナルは、あらゆる分野で『絶滅危惧』に瀕しているように思うのだ。

                   

                  今の子供が一番なりたい職業が『ユーチューバー』だそう。うん、なるほど納得をする。

                   

                  そういう時代を語る気も萎える。そうなんだ、へえ〜、でお終い。何の感想もないのだ。

                   

                   

                  話を矢沢に戻そう。ただ、話したいだけなのだ。彼は色々な意味で、興味が絶えない人。

                   

                  広島で被爆二世として生まれ、母親が失踪、祖母の元、極貧の中で育ったのは有名な話。

                   

                  糸井重里氏が監修し、大ヒットした『成り上がり』という本。中学時代、一気読みした。

                   

                   

                  貧乏→なぜ金がない?→この世は金、となり、ビートルズに衝撃受けて音楽に邁進する。

                   

                  だが、彼は成功と共に有り余る大金を手にして、『金』の在り方と真摯に向き合うのだ。

                   

                  波乱万丈な連続の中で、常に学習を怠らない。まさに『ステージの上』ですべてを示す。

                   

                   

                   

                  ボクは、彼のデビューを生でテレビで観る幸運を手にした。もはや、伝説になっている。

                   

                  夕方の生放送、生演奏で衝撃のデビュー。痩せた黒い革ジャン姿に狼のような鋭い眼光。

                   

                  彼が自分と常に向き合い、問い掛け、あらゆる点と線を結びつける模索の最初の一歩だ。

                   

                   

                  衝撃のデビューがある意味、仇となり、彼のライブは荒れに荒れたらしい。そこからだ。

                   

                  彼が、その時代の遺恨を見事に払拭したのは、プロとしての誠意だったような気がする。

                   

                  数十年前から彼のライブは一切飲酒は禁止。老若男女、誰でも同じ条件で楽しめるよう。

                   

                   

                  自分に向けられた刃の痛みを自ら知り、色々なファンの話に耳を傾け、辿り着いた手段。

                   

                  酒臭い中で苦痛に感じる女性もいる。騒いで周りに迷惑を掛ける人もいる。それは違う。

                   

                  自分のパフォーマンスが、その類の問題を凌駕さえすればいい。そして彼は歌い続ける。

                   

                   

                  これは、たまたま見つけた映像だが、まだ若かりし頃、これこそ彼のプロとしての仕事。

                   

                   

                   

                  このような最近の姿を見るといい年齢の重ね方をしていて、人柄は、『顔』だと感じる。

                   

                   

                   

                  先程、昼食を作りながら、人は『常に試されている』ということを改めて肝に銘じたのだ。

                   

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                  雨上がりの匂いが好きだったりする

                  2018.04.25 Wednesday 08:48
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                    よく『止まない雨はない』なんて言うが、そういうのはあまり好きじゃない。

                     

                    だって、それは当然じゃないか。雨が永久に止まなかったらどうなるんだい。

                     

                    ってのを屁理屈って言うんだろうが、『格言』『常套句』のような言い回し。

                     

                    それが、どんな気休めになるのだろう。日常に活かせなければ、意味もない。

                     

                     

                    などと、やさぐれている場合じゃない。やさぐれて言うのじゃない、そうだ。

                     

                     

                    そう、今年になって、雨らしい雨が降っていない気がする。偏った天候気候。

                     

                    急に暑くなったり冷え込んだり、体がついていけない状態で、季節感もない。

                     

                    ボクは、雨が嫌いじゃない。時と場合によってはすごくいい。素敵だと思う。

                     

                     

                    災害や農作物に影響を及ぼしたりするような極端な振り方の割合が増す傾向。

                     

                    人は、自然においては、ほぼ無力であって、どうにも抗えない悲劇が起こる。

                     

                    そのような観点から見る、『異常な雨』ではなく、ごく日常的な雨の話、だ。

                     

                     

                    雨の情景は唄になる。人の心の機微や感情を投影しやすい『詩』になり易い。

                     

                    言葉に乏しい人が使うと『野暮』になる。そこに『物語』があるか、ないか。

                     

                    例えば、『雨の匂い』に違いがある。季節や時間や場所など、『色』に似て。

                     

                     

                    夏の日の、突然の夕立のあの匂い。その雨上がりの、また独特な匂いも違う。

                     

                    ボクは、特別『臭覚』が敏感だ。タバコなど匂いは遠くからでも感知できる。

                     

                    その昔、学生の頃、眩い季節。女の子の存在が『臭覚』で判ったりしたのだ。

                     

                     

                    女子の少ない大学で、例えば『あの角から女の子が来るよ』とボクは言える。

                     

                    すると、本当に校舎の角から女子生徒がやって来る。友人は驚き面白がった。

                     

                    特殊な敏感な臭覚の為せる技だが、誰にだって匂いに思い出があったりする。

                     

                     

                    昭和の海水浴場。そこは、資生堂の『サンオイル』のあの匂いが夏の風物詩。

                     

                    物持ちのいいボクは、何十年も前の、使いかけの『それ』をまだ持っている。

                     

                    今でもオレンジ色の蓋を開けると、同じ匂いがする。当時の砂がついている。

                     

                     

                    そのように、『匂い』というあり方を『心模様』を魅力的に活かしたりする。

                     

                    不意にやって来る雨の匂いに、遠い昔読んだ小説の世界が蘇ったり、素敵だ。

                     

                    それを読んだ当時の自分の心がまだ息づいていることに感謝したりもできる。

                     

                     

                    その代表的な象徴として『雨と雨上がりの匂い』がボクの生活を活性化する。

                     

                    例えば、その昔、一人静かに過ごすことが好きな自分に、雨は友人のようだ。

                     

                    自分の部屋で一人でいても、寂しさを感じなくなって数十年。雨は落ち着く。

                     

                     

                    この世にら『苦しみ』『辛さ』『痛み』という存在がある限り、工夫が必要。

                     

                    ただ徒らに『嘆く』ことの先に何があるか。心を固くしたりしてやいないか。

                     

                    心の柔軟性を失ったら、心は『嫌』なものを引き寄せるのを経験上、感じる。

                     

                     

                    なら、『他人を思いやる』などと安易に言う前に、自分の活かし方の工夫だ。

                     

                    細やかな気遣いに工夫が不足していれば、逆に相手が気を遣うのではないか。

                     

                    一人で過ごす時間が圧倒的に多いボクは、人間関係で実際に学んだ気がする。

                     

                     

                    今、窓の外では雨が降っている。先程、窓を開けその『匂い』を取り入れた。

                     

                    呑気な奴だ、と非難されても仕方ない。朝5時起きで諸々を済ませた後でだ。

                     

                    ほんの束の間の貴重な時間だ。人それぞれに暮らしは違う。いい訳じゃない。

                     

                     

                    昨晩も苦しみを伴った醜悪な魔物の罠にハマる所だった。今も絶不調である。

                     

                    でも、それを嘆く前に、日々の習慣として想像と工夫を身につけかけている。

                     

                    先程、『雨の匂い』にボクは『心のマッサージ』をしてもらった。感謝する。

                     

                     

                    雨。ご苦労される方々が多いだろう。サラリーマン時代に散々な思いをした。

                     

                    独り身のボクは誰の助けもなく、あらゆる困難をそれなりに経た後のボクだ。

                     

                    ただ、呑気に御託を並べることは避けたい。でも、雨も時には素敵、なのだ。

                     

                     

                    ボクの好きな『雨』の唄は、枚挙にいとまがない。今聴きたいのはこれかな。

                     

                     

                     

                     

                    イルカの『なごり雪』の作者『伊勢正三』と提供された『イルカ』それぞれに素晴らしい。

                     

                     

                     

                     

                    イルカの唄を損なうような映像だが、オリジナルのイルカ・ヴァージョンはこれしかない。

                     

                    残念・・・だが、作者なりの思い入れなのだろうから、申し訳ないが目を瞑って聴こうか。

                     

                     

                     

                    電流のように流れて記憶の奥から目覚めたこと。それは、高校2年の時だった。

                     

                    友人と3人で横浜に行った時に、山下公園を後にしたら、いきなり激しいスコールが。

                     

                    どしゃ降りの雨から逃げるように入った喫茶店『モンヴォ・ワリエ』という店。

                     

                    そこでは素晴らしい音響設備でレコードが流れていた。その時の唄も伊勢正三だった。

                     

                    かぐや姫の解散ライブ盤の中の名曲『置手紙』だ。これもまた素敵な『雨』の情景だ。

                     

                    まさに青春そのものの匂い。乾いたギターの音。しょうやんの輝いていた声。涙もの。

                     

                     

                    今改めて聴いてみると、実に勝手な男の言い分だなぁ〜。当時の若造には判らなかった。

                     

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                    苦しいだけなのに、なぜ生きる

                    2018.04.22 Sunday 12:39
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                      昨晩の悪夢は凄まじかった。だいたい、苦しい場面では耐えきれずに目が覚めるものだ。

                       

                      だが、そうはさせてくれなかった。まるで、『拷問』のように、生き絶えるまで続いた。

                       

                      でも、死にはしなかった。やっぱり、脂汗をかきながら目が覚めた。

                       

                       

                      肩から背中まで、ガチガチに固まって、息苦しくてうまく呼吸が出来ない。

                       

                      そして、毎度の『耳鳴り』だ。もうそれは『頭蓋骨鳴り』と呼んでいい。

                       

                      頭部全体で『グワングワン』『ジャンジャン』『シャンシャン』轟いている。

                       

                       

                      程度の差があるくらいで、これを毎晩繰り返し、睡眠は妨げられている。

                       

                      眠れないのに、体は動かない。

                       

                      もはや『死にたい』とかに考えも及ばない。

                       

                       

                      必死で、なぜか生きている。

                       

                      なぜ、だろう。

                       

                       

                      ボクの携帯電話は、もう2年以上、着信がない。

                       

                      つまり、誰からも電話などかかってこないのだ。

                       

                      どれくらい前か忘れた過去。最後に掛かって来たのは『訪問看護』の人から。

                       

                       

                      週に一度、家に訪問してくれて、母の状態を見てくれている。

                       

                      たまたま、家の電話に出なかったから、携帯の方に掛けて来ただけの話。

                       

                      したがって、それは、別にボクへの電話ではない。

                       

                      最後に携帯電話で誰と話したか、記憶にない。

                       

                       

                      更に、メールも今年になって1通来たのみ。返信が2回くらい来ただけ。

                       

                      どこへも行かない。

                       

                      誰とも会わない。

                       

                      誰とも会話しない。

                       

                      ただひたすら、家事やら何やら、ある意味、やるべきことに追われ続ける暮らし。

                       

                       

                      人との関わりのない日々を消化しているだけで、それを暮らしと呼べるだろうか。

                       

                       

                      声を発するのは、母の介護関係の人とのやり取りが主で、

                       

                      それ以外は、病院関係、買い物の時にレジでの受け答え。

                       

                      後は、お店とかに行った時、そこの人と会話するくらい。

                       

                       

                      ここ10年くらいは複数の病気など『苦しみ』しかない。

                       

                      テレビもラジオも受け付けない。浮かれ具合が煩わしい。

                       

                      そんな日々しかないのに、なぜ、ボクは生きているのか。

                       

                       

                      ただ、死なないだけだ。

                       

                      淡い雲を掴むような、実体のない恋をしていて、

                       

                      その人のことを想う気持ちだけで、生きている。

                       

                       

                      もしも、この先、何かしら『生きている実感』を得られるのなら、

                       

                      ボクは、『恋』と『その人』と『お陰で育む慈愛』に感謝したい。

                       

                      キレイゴトだろうか。

                       

                       

                      でも、激しい耳鳴りなどあらゆる不具合と折り合いを付け、生きている。

                       

                       

                       

                      と言いつつ、今日も行楽日和の日曜日。バーベキュー臭くて、何重苦だ?

                       

                      何で、他人の迷惑も考えずに自分本位で楽しめるのか、全くわからない。

                       

                      こっちは昼過ぎに室温29度で、窓を締め切り、シャツとパンツで凌ぐ。

                       

                      窓の外では、はしゃぐ声。人が人を傷つけることなんて凄く簡単なのだ。

                       

                      でも、それを本人たちは少しも考えたりはしないでいい、らしい風潮だ。

                       

                      ボクは、『人を嫌いにならない』よう、理不尽な努力を強いられるのだ。

                       

                       

                      さよなら、日本。さよなら、人類。

                       

                       

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