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2017.07.23 Sunday
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    心穏やかに、笑顔でいること

    2016.02.09 Tuesday 13:16
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      例えば、『怒り』とか。



      そういう『負の要素』を心から排除するのはとても困難である。



      光があれば、影もある。光があるから、影も出来る。



      光射す場所があるから、影の部分がより深くなる。




      人は、美談だけでは語れない。



      悪しき心の存在も見逃してはいけない。



      心に『負の要素』を抱えてしまったなら、それが自分では見えなくなる。



      歪んでしまったものは、歪んでしまっていることには気付けない。




      人にモラルがあるのなら、この世から犯罪などなくなるだろう。



      モラルがないことに気付かないから、犯罪はなくならない。



      秩序は乱れ、『誰もがそうだから』と、『無関心』でいられる。



      犯罪にならなくても、人に迷惑を掛けて気付かないでいられる。



      悪、というものは、善の対岸にあるのではなく、すぐ『隣』にある気がする。




      かつて、チャールス・チャップリンが自身の映画の中で、



      殺人者を演じ、『一人を殺せば悪党で、100万を殺せば英雄になる』と言った。



      世界中で戦争が繰り返されている中で批判することで、彼の姿勢に勇気が見える。




      今の世、至る所で『人が殺されている』だろう。今、この瞬間にも。



      自然界の『食物連鎖』とは異次元の『残忍さ』が人にはあるだろう。



      到底、理解など出来ない。なぜ、そのように『非情』になれるのか。




      親が子を。子が親を。



      政治的な問題を盾にして。



      身勝手な自己肯定の為に。



      誰にも判らない『理解し得ない』殺意もあるだろう。




      そこに『愛』はないのか。




      人は、人が思う程に、きれいな生き物ではないとも言える。



      それは、『慈悲』のある人が存在しているから、余計に目立つ。



      確かに『愛』は存在する。



      某テレビで『愛は地球を救う』と謳ったりするから、嘘も透けて見える。



      自らが『愛』と謳うことで、安心してしまうのも人間だ。




      ただ、ボクは常に自分を疑っている。



      心の中で、『お前は、それで間違っていないのか』と。



      自問自答。自己懐疑の念。



      まずは、疑ってみることだ。否定をしてみることだ。



      他者を否定しても、薄っぺらな肯定にしかならない。



      ふっと風が吹いただけで、軽くひっくり返るだろう。




      自分を否定することによって、見えてくるものもある。



      自分の愚かさに気付くこともあれば、『間違いではなかった』と確信することもある。



      それでも、それが『答え』ではなく、ましてや、『正解』なんかではあり得ない。



      確信の向こうには、『次なる疑問』が用意されているのだから。



      永遠に、『答えなど見つからない』のだ。




      だから、ボクは生きる。



      どんなに苦しくても、『心穏やかに、笑顔でいられる』自分でありたいと思う。



      しんどい顔をしたくても、ボクは母の前ではいつも笑顔でいる。



      すると、母も次第に笑顔になってくれる。




      笑顔は、お互いを救い合う。



      現実的に『救われていなくとも』だ。



      少なくとも、無愛想な顔をしているよりも遥かに『生命力』がある。




      母は、毎日、何度もボクに『ありがとう』と言う。



      その言葉だけで、笑顔になれる。



      心からの、その言葉だけで、頬が緩むのだ。



      心が緩むのだ。




      命あるもの、いつかは消えてなくなる。



      死ぬことを前提に生きているのだから、『哀しみ』ではないのだ。



      ただ、土に還ることを謙虚に受け入れるだけだ。




      その日が来るまでは。その日の前に、一日でも多くの一日があるように。




      苦しさに足をすくわれて転がるよりも、笑顔で大地を踏みしめることだ。




      自分が笑顔でいることで、『少しは強くなれた』と一歩前に踏み出せる。




      そんな気がする。『気がする』だけでも、生きることと向き合えるのだ。






      それでも、独りで苦しさに耐えている時間の方が圧倒的に長いのが現実。






       

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      自ら終わらせられるのは、死、か

      2016.01.13 Wednesday 19:33
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        自分を生きること。それを終わらせたいと日々思いは募る。



        別に、『死にたい』訳じゃない。自殺願望などむしろない。



        だが、もうこれ以上『生きている』ことは、望めないのだ。




        日々、それなりに努力もしているし、何とか生き伸びようとしてはいる。



        だが、人が生きるには、色々と面倒なことが多過ぎ、関係が複雑過ぎる。




        今日がいつで、今が何時なのか。



        そんなことは、もう『考えたくもない』状態になった。



        来る日も来る日も、デジャヴュのように繰り返す物事。



        食料品の値段を比べることも、



        毎食の献立を考えることも、



        生きるための手段ならば、やるべきこととして惜しまない。



        だが、もはや手段ではなくなっているような気がしている。



        何も信じられないし、この世に望みも救いも見出せない。



        人を信じられなくなったら、もう生きている理由がない。




        裏切られた。とかの捉え方をしたくない。



        そもそも、他人に何かを期待をするのは自分の勝手でしかない。



        人と人は、お互いの損得勘定を抜きにした信頼が手を繋がせる。




        ボクに家族とか兄弟とか、いたのなら、それは偽物だった気がする。



        まして、友人など、絵本の中の、作り話だったことにしてしまおう。



        一度縺れた糸は、複雑に絡み、丹念に解くかいっそパチンを切るか。




        毎晩必ず、夜中の2時半頃、丑三つ時に『凄まじい悪夢』に飛び起こされる。




        心臓の鼓動は激しく、それに呼応して、耳鳴りは最高潮に達している。



        頭全体に『ジャーン、ジャーン』との凄まじい騒音が轟いて止まない。



        これもデジャヴュのように、部屋の灯りをつけ、水を飲み、横たわる。




        そして、『いっそ、このまま死ねれば楽になるだろうか』と思う。




        だが、死後のことは、死んでみないと判らないので、一旦、思考を排除する。



        もし、万が一、死んでも『苦しみが続く』のなら、自ら死ぬ意味はないのだ。



        死ぬ時は、前のめりに死にたい。諦めるように、仰向けに脱力したくはない。




        そんな、不毛な葛藤を繰り返し、ボクはこうして愚かなる言葉を並べている。




        そしてまた、死ぬまでは、生き続けるのだろう。それが正しいのかは、謎だ。




        ボクが守るべき人は母である。だが、それを生きる理由にしたくはないのだ。







         
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        1瞬1秒、苦痛の連続でしかない

        2015.10.29 Thursday 02:26
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          今月は通院が12回あった。


          とにかく、病院が大嫌いだ。


          その嫌いな所に必至になって通って、3時間も4時間も待つ。


          周りは、病人ばかりで、独特の重たい空間は、慣れはしない。



          父が倒れて10年が過ぎ、最期の数年は闘病、必至の看病、苦しみながら死んだ。


          父が死ぬ前後に母も倒れ、父の死と入れ替えに母の闘病、介護が始まった。


          休む日もなく、3カ所の入退院を繰り返し、通院も続く。


          ある晩には、医師に『危篤』まで宣告され、覚悟もした。


          毎日のように病院に通い、家事をしながら、自分もどんどん憔悴して行った。



          この3年は、生き地獄のようだった気がする。



          気がする、って、もう『何も考えられない』からだ。



          そして、今、この数ヶ月、ボクはどんどん自身の苦しみが増すのに耐えている。


          日々、99%の苦痛の中に何とか1%の希望を持とうとするが、それは無理だ。


          先行きに何の保証も希望も余裕もない状態で、苦しみに耐え続けるのはなぜだ。



          この一週間に、2回。夜中に救急外来に行った。計3回、点滴を受けた。


          医者は、感じが悪く、いいことは言わない。『他にもっと苦しんでいる人もいる』とか。


          そういうことは医者の言うことじゃないと思う。少なくとも、少しも病は良くならない。



          そもそも、人は生まれ、育ち、経験、環境、感覚、経済状況、何もかも違うので、


          比べるなんてこと自体が、人として『どうなのだろう?』と思う。



          人が無数、暮らしている中で、老老介護、病病介護での貧困は世間に見えない。


          誰もたぶん、関心はないし、何事も自分が経験しなければ、判らないこと。


          不意にニュースなどで安倍の顔を見ただけで、吐きそうになる。


          ので、もう随分とテレビも見ていない。見る気力も時間もない。




          ボクはもう疲れ切ってしまった。



          世の中でも、よく聞くセリフだ。



          ニュースとかでも、何の感情もなく連呼されたりする。



          テレビなどに映る人は、まるでボクにとっては別の生き物である。


          その人の、生き方、考え方、暮らし振りなど、すべてが見えない。


          こちらの『生』も誰にも見えないし、誰にも知られずに続くのみ。



          別に、自分の苦しみを知ってほしいなんて、思わない。


          他人のことなど、『知ることなど、出来ない』のだし。


          そんなことは、どうでもいい。乱暴に言えば、自分のことで精一杯だ。



          だが、母が生きている内に自分が死ぬ訳にはいかない。


          自分で生きる意思がある、母の生活のほぼすべてをボクが担っている。


          食事から薬の管理から、病院を始め、すべてを把握しているのはボクだけだ。


          母も、『今私が生きていられるのもあんたのお陰』と口癖のよう。



          はてさて、どうしたものか。



          苦しみは、苦しみのまま。それは『生』ではなく、この丑三つ時も1秒1秒が恨めしい。



          でも、死にたいけれど、死ぬことは考えていない。



          こうして、生きている内は、生きるしかないのだ。



          例え、それが苦しみでしかなくても、生きるだけ。



          苦しみは、苦しみのまま。澱のように溜まるだけ。






           
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          なぜ生きるのか、考えても意味はない

          2015.10.13 Tuesday 04:36
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            『もう、勘弁してくれ』

            『苦しい〜よ〜』

            『いい加減に、ヤメてくれ』

            『あ〜う〜〜』


            この数ヶ月、毎晩、苦しくて、眠れずに、

            身を横たえ、悶え苦しみながら、

            こんなようなことを何度も、声にならない声にして言っている。


            僅かな睡眠には、もれなく『凄まじい悪夢』がセットでついてくる。

            こちらが『もういい』と言っても、更なる豪華な悪夢が用意される。


            まともは睡眠も休息も、どんなものか。忘れた。


            気が狂いそうな耳鳴りが一瞬足りとも鳴り止まず、

            それに慣れようにも慣れることなど出来ず、

            ここ数ヶ月は、原因不明の体調不良でほぼ寝たきり状態だ。


            いくつも、何度も、病院で検査を繰り返す。

            病院はいつでも混んでいる。

            病人は、いつも、待たされ、そして事務的な手続きを繰り返す。

            高額な検査費だけが、泡のように消えていくだけ。

            そして、病はよくならないどころか、悪くなる一方だ。


            今月だけで、自分と母の通院が10回。食費よりも痛い医療費。


            こんな暮らしでも、続けないと生きていけないのが現実なのだ。



            死ぬことは怖くはない。


            生きるとは、いつかは死ぬことだ。



            毎晩、苦しみに耐え、発狂しそうなのを回避するために、

            声にして誰に向かってもいない言葉を放ち続ける。


            それでも、生きるための、食事の用意はしている。

            そのためには、定期的に食料を買いに行っている。

            そして、貯金通帳を開く日々。

            最低限の家事を日課のようにするのが日常になる。

            同じことの繰り返し。ただ、日々を消化している。


            先のことなど考えても、ほんの数センチ先さえ、もう見えない。


            誰とも会わずに、誰とも話さずに、何も楽しみなどなく、

            『いったい、何のために生きてるのだろう』との疑問を持ち続けていても、

            黙って生きているのだ。


            ただ、苦しみが続くだけなのに、


            まだ、しぶとく生きているのだ。


            だが、それに、それをひたすら続けることに疲れ果ててしまった。


            疲弊とか、憔悴とか、言葉にすれば、嘘っぽい。



            出来れば、生きていることをヤメたい。


            これは、死にたいのとは違う。


            本心は、生きたいのだ。だから、まだ生きている。


            でも、それはもう、すでに自分からは離れた、自分からの願望ではなくなっている。


            本心は、もう疲れ果てて、苦しくて苦しくて、いっそ死ねたらどんなに楽かと思う。


            必至に、冷静になり、思考を整理しようとしても、体も心もそれをさせてくれない。


            或は、自分が『生』に対して、針の穴よりも小さな光も見つけられなくなったのだ。



            ネットなど、誰とも何とも繋がってはいない。


            それを知りつつ、それから決別したのに、

            こうしてまた凝りもせずに、言葉を燃えるゴミのように出している。


            もはや、矛盾は矛盾のまま、答えに向かうことはない。


            そもそも、人間は矛盾を排除など出来ない生き物だのだと思う。



            だから、敢えて自分の中の矛盾と向き合うために言葉を文章にしてみたけれど、


            それが何だったのか。判らない。もう、判らなくていい。


            判らないまま、また同じようなことをしているのだから。


            最期の悪足掻きをしても、誰かに迷惑を掛ける確率は低いだろう。



            生きることは、常に何かの発見であり、喜びであっても、苦しみであっても、


            それを発見して、向き合うことは、同じなのだ。



            だから、もう本当に終わりにしよう。


            発見の旅は、途中で途絶えてしまう。


            その終いが、早いか遅いか違うだけ。



            人はなぜ生きるのか、なんて考えても意味はない。



            ただ、生きている間は、生きるしかないのだ。



            それを続けるか、ヤメるかを、一瞬の判断に委ねてはいけない。



            愛がどうとか、繋がりがどうとか、キレイ事は生に繋がらない。



            充分に頑張って生きている人に向かって『頑張れ』なんて陳腐。



            これ以上、どう頑張れというのだ。所詮は他人事なので言える。



            テレビからもネットからも逃げられない。言葉が襲い続けてくる。



            人による、人に向けた、言葉という狂気、凶器に追い回される。



            そこから脱却しても、もうそろそろいいだろう。



            すなわち、今の世での生を否定することだけだ。






             
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            死は、生の通過点に過ぎない

            2015.06.14 Sunday 04:10
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              死に方は、おそらく死ぬ時まで判らないものだと思う。



              それは、不意に訪れる場合もあるし、徐々に死を意識しながらそこに向かう場合もある。



              自分の死を自分で決めるのは、たぶん自殺くらいしかないだろう。




              この世に生を受けたことは、偶然ではなく、必然だとしたら、



              この世を去る時もまた、必然になるとは、観念的な発想でもある。



              生は『自分の積み重ね』として、過去を経た今の具現のような気がしている。




              抱えた苦しみはどこまでも癒えやしないし、病はなかったことにはならない。



              それを自分の中で『どう捉えるか』が、今を生きることにとって重要に思う。



              自分では抱え切れなくなって、生きること=苦でしかなくなると死にたくなる。




              死にたくなる状態も、人それぞれであり、たぶん他人には判らないものだろう。



              正直、ボクはずっと疲れていて、それが蓄積していて、もう許容を越えている。



              毎晩、夜中に気が狂いそうになる。頭の中では激しい耳鳴りが止まないままだ。




              もう、死にたい。と不意に思う。




              だが、『死のう』とは思わない。




              この苦しみ、これまでに抱えてしまい、蓄積された苦痛から逃れたいとしても。




              不意をつかれた時に、自分の生き方が試されているような気がしている。




              どんな狂気と向き合っても、衝動的に自分を見失わないようにしている。




              たぶん、死は生の通過点に過ぎず、自らを殺すことは自己否定に思える。





               
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              本気で、死ぬかと思ったのだ

              2015.05.21 Thursday 07:22
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                昨晩、夕飯の時。



                みそ汁を飲もうとして、一口呑み込んだ瞬間。



                その湯気にむせて、汁が気管支に入ったのか。



                呼吸が出来なくなり、咳き込み続けて、



                10分程、激しい喘息の発作を誘発した。



                タオル片手に涙や唾液を拭いながら、格闘をしていた。




                呼吸が出来なかった、数秒間。



                本気で、死ぬかと思ったのだ。



                以前にも何度かこれをやっているが、今回のは最悪だった。




                恐らく、喘息が悪化していたのだろう。



                経済的な理由で、ここ2年近く、喘息の治療をヤメていた。



                他にも、耳鳴りや抜けた歯など、医療的な費用を捻出するのが困難だ。




                社会保障、医療保障において、この国は、後進国に思える。



                貧乏人程に、医療を受けにくい状況だと個人的に感じる。



                先進医療、という名のガンを始めとした治療は、低所得者には不可能である。




                金持ち程に、『良い治療』が受けられ、その後の『ゆとり』も得易い。




                経済的に厳しいのだから、医療保険にも入れない。



                いざ、という時。



                それは=死ね、ということでもあるように、



                昨晩、しみじみと感じたのであった。




                ボクはどんなに苦しくても、自ら死のうとは思わない。



                死は、望むも望まざるも関係なく、人為的なことも含めて、必然的に訪れる。



                それに抗うことが出来ないだから、生きている内は、生き続けることなのだ。




                34年前に大きな事故に遭い、車が自分に向かって突っ込んでくる瞬間。



                あ、死ぬ。と思った。



                ほんの数秒気絶した後、死んでいないことに気付いた。



                その時から、ボクはずっと生と死と、向き合っている。





                 
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                苦しみにも、休みがほしい

                2015.01.07 Wednesday 03:40
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                  もう、『苦しむ』ことにも疲れた。『苦しみに耐える』こと以上に。



                  というか、『生きること』=『苦しむこと』に疲れ果ててしまった。



                  僅かな眠りさえも偽りであり、『睡眠』=『休養』にはならない。




                  出来ることなら、この連続する『苦しみ』から、一旦、休ませてほしい。



                  もう、この状態が更に悪化するようなら、『生きること』を休むしかない。




                  それは、現実的に不可能なことだ。『生きること』をやめるしか道はない。




                  命をまっとうするまで、死ぬのは本望ではない。




                  どうか、ほんの少しでもいい。休ませてほしい。






                   

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                  悲しいのは・・・

                  2014.12.15 Monday 17:02
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                    悲しいのは・・・人間であること。



                    悲しいのは・・・生きていること。



                    悲しいのは・・・自分であること。



                    悲しいのは・・・楽しめないこと。



                    悲しいのは・・・悲しめないこと。







                     
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                    その人は、キンクスが好きだった

                    2014.11.29 Saturday 17:37
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                      その人はキンクスが好きだった。『自分の青春』とも言っていた。



                      ラジオからキンクスの唄が流れてきて、ボクは不意をつかれて胸がキュっとした。




                      その人は、ボクとほぼ同年代の男性で、どこの誰かは知らない。



                      5、6年前に、ブログで幾度も言葉を交わした『Our Song』という人だ。



                      だが、恐らくその人は、もうこの世にいない、と感じている。




                      ある頃から自殺を仄めかし始め、実際に自殺未遂をしたと話した後。



                      翌日にも『死ぬこと』の意思表示をしたまま、ブログは更新がなくなった。



                      程なく、ブログは閉鎖され、奥さんらしき人からボクに批判の言葉が寄せられた。




                      批判、と『言葉』にするのは、とても怖いことだ。



                      それが、批判だったのかは、定かではないが、明らか何か責めているようだった。



                      SNSの実態を見た気がした。気がしただけで、何かの判断を下すことは避ける。




                      その頃からボクは未知なるSNSの世界が、人の生活に浸透するのを恐れている。



                      昨今の若い人は、パソコンすら必要でなくなったそうだ。



                      すべては、スマートファンだけで済むから、それで何でも出来るらしい。




                      個人的に『そういう』類いとは距離を置いているし、スマートファンは持たない。



                      常に『便利』を手にしていたいのか。『行間を読む』ことはなくなるのか。



                      ボクが考えることじゃない。




                      その時、ボクはありったけの言葉を『文字』にして、『書き込み』をした。



                      だが、その人を救うことは出来なかった。救うなんてことも烏滸がましい。



                      何も出来ないのだ。無力な自分を確認しただけだ。




                      世間では『繋がっている』とか言うけれど、『何』が『どう』繋がっているのか。



                      通信、及びメール等に記されているのは、『文字』という『記号』でもある。



                      そこに、『心』や『想い』が、どれくらい、どのように込められているのか。




                      それをボクが語る必要はない。語る気もしない。




                      でも、どこの誰だか未だ知らない『Our Song』さんのことは時々思い出す。



                      ただ、いきなりキンクスの唄はないよ、な。



                      自分でも驚くくらいに、胸に痛みを感じた。




                      感傷ではなく、『何だか判らないもの』だ。









                       
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                      誰もが、『余命』を生きている

                      2014.11.16 Sunday 09:22
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                        ほんの最近、海外での『余命を宣告された人』の話がよく取り上げられていた。



                        助からない、とされる『自分の命』を自らが『安楽死』という形で終わらせた。



                        さて、『安楽死』と『自殺』の違いは何だろうか。個人的には全く別だと思う。




                        キリスト教においては『自殺は罪』とされているようで、彼女も批判をされた。



                        批判。これは厄介だ。かのローマ法王にも批判された。宗教も厄介なのである。



                        これについては語るに及ばない。語ったところで、何も答えなど出ないだろう。




                        ボクの父は、最期の数ヶ月で『延命措置』を行われた。ベッドで死を待つだけ。



                        本人も苦しみに耐えられずに、『もう、全部外してくれ』と早く死にたがった。



                        日本で『尊厳死』は認められていない。だが、それで生きていると言えるのか。




                        人の命には限りがある。生まれた瞬間から『死』に向けて『生きる』のである。



                        その『死』は、いつ、どんな形で訪れるか判らない。生と死は常に隣り合わせ。



                        ただ『確実に死に向けて加速している』状態で、『生きている』と言えるのか。




                        誰もが『余命』を生きているんじゃないか。と最近、ボクは思うようになった。



                        ここ数年、自覚のない部分で、家事と介護に精神的に追い込まれていたようだ。



                        体調不良に苦しみ、『自分はもう死ぬんじゃないか』と根拠もなく思っている。




                        現実では、すでに『経済的』に生きていくことがかなり困難になってきている。



                        テレビとかに映る日本人と、自分はまるで異質に思え、生きる=金と実感する。



                        希望とかの、陳腐な精神論は何の役にも立たない。『生きたい』ことではない。




                        果たして、それは『死の覚悟』なのか。自分でも判らないが、判らなくていい。



                        だって、今は生きているのだし。『死の準備』をしていても『覚悟』ではない。



                        この先、後どれくらい生きられるのか。考える前に、今を生きるしか術はない。




                        映画において、『死』を取り上げるものが多い。題材であって『答え』でない。



                        答えがないからこそ、誰もが描くことを試みる。解釈さえ観る側に委ねられる。



                        観る人それぞれに解釈が違って当然であり、『正しい』『間違い』なんてない。



                        『トーク・トゥ・ハー』



                        『死ぬまでにしたい10のこと』



                        『永遠の僕たち』



                        『17歳のエンディング・ノート』



                        まだ成長過程にある、若者の『死』について描かれた素晴らしい作品で感じる。



                        感じることは出来ても、それらから『死』を知ることはない。知り得ないのだ。



                        ここ数年、実生活において『死』と向き合うことがあったのに、判らないのだ。




                        恐らく、生きている間は、『生と死』が永遠のテーマになる。『愛』と同列に。




                        この永遠のテーマが自分の心を突き動かす瞬間、『人がとっても愛しく』なる。




                        出来るなら、人とふれ合いたいと思う。だが、ボクは人と語らってすらいない。




                        自分の中の『言葉』さえ失った気がする。なので、こうして文字に置き換える。




                        それで何か見えてくるか。何も見えてこない。とりあえず、実行してみたのだ。








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